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今川氏親

いまがわうじちか

今川氏親は戦国時代の駿河国の武将・守護大名・戦国大名。今川家第9代目当主。遠江への勢力圏の拡大や分国法「今川仮名目録」の制定に務めた。(1471年-1526年)
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今川氏親は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名。今川家第9代目当主(駿河今川家としては7代目)。

概要編集

プロフィール編集

生没:文明3年(1471年)もしくは同5年(1473年)〜大栄6年6月23日(1526年8月1日)

幼名:龍王丸


生涯編集

父の死と家督争い編集

駿河国守護の今川義忠の嫡男。母は北川殿北条早雲の姉)、姉に正親町三条実望の妻、弟に心範がいる。


龍王丸の誕生から間もない文明8年(1476年)、父・義忠は離反した国衆の討伐から戻る途上、遠江の塩買坂でその国人らの残党に襲われ討死してしまった。龍王丸はまだ4歳と幼かったため今川家中では三浦氏や朝比奈氏らを中心に義忠の従兄弟である小鹿範満(義忠の祖父である範政の四男・範頼の子。範頼はかつて義忠の父・範忠と家督争いをしている)を擁立する一派と龍王丸一派との間に武力衝突も発生し深刻な家督争いが勃発する事となった。


父・義忠は応仁・文明の乱において、東軍としての立場で隣国・遠江への進出を図り、同国守護で西軍の斯波義廉と干戈を交えていた。ところが乱の最中に時の将軍足利義政が遠江守護を義廉から義忠と同じく東軍に属する斯波義良(義寛)に挿げ替えていたにもかかわらず遠江への進出を止めなかったため義忠と義良との間で、同士討ちが生じていた。

さらに義忠による横地・勝間田討伐にも問題があり、この両者は義良に帰参し同じ東軍になっていた。これらの行為は幕府からは反逆行為と見做され龍王丸は反逆者の一族として討伐される可能性さえがあった。このため龍王丸は母・北川殿と共に小川城の法永長者(長谷川政宣)の元へ逐電せざるを得なくなった。


この家督争いには堀越公方足利政知の執事の犬懸上杉政憲(母方の祖父、禅秀の孫)と範満の扇谷上杉定正(父・範頼の母方の従兄弟)の家宰の太田道灌も小鹿派寄りの立場で介入するなど龍王丸派はさらに厳しい状況に陥った。


幕府は調停のため政所執事・伊勢貞宗の同族で龍王丸の叔父に当たる伊勢盛時を駿河へと派遣し、盛時の仲裁により、龍王丸派と小鹿派との間では「龍王丸が成人するまで範満が政務と家督を代行する」という条件のもとで和議が成立、政憲と道灌も手を引き一応の決着が着いたと言われる。しかし、これは後世の軍記物ベースの逸話とされむしろ道灌と政憲の圧力もあって範満が家督を継いだとの話もある。いずれにしても範満は小鹿を弟・範慶に任せ今川館に入り、一方の龍王丸は母・北川殿と共に引き続き小川城に身を寄せた。


家督継承編集

文明11年(1479年)には貞宗による幕府への申請の末、前将軍・足利義政の名による龍王丸の家督継承の内書を獲得するなど、和議の条件履行に向けての動きも進められた。

長享元年(1487年)、龍王丸・北川殿母子は上京し将軍足利義尚の元で幕府奉公衆の職にあった盛時に助けを求めた。この前年、範満が頼みとする道灌は主君定正に謀殺され、政憲も政知の長男・茶々丸の廃嫡を諌めたことで政知に自害させられていた。さらに政知も次男の清晃(後の足利義澄)を義尚の次期将軍候補として上洛させており、幕府との関係から龍王丸支持へと立場を切り替えていたため小鹿派は弱体化していた。盛時はこの要請に応じ駿河へ下向、石脇城を拠点として兵を集め、同年11月に今川館に籠る範満と範慶を滅ぼす事に成功した。

龍王丸は今川氏の家督を相続し当主に就任し今川館に入城し氏親と名乗った。ただし、数年間は引き続き丸子城に留まり、明応4年(1495年)頃に駿河国内の平定が完了したのを機に正式に元服し氏親と名乗ったのではないかという説もある。ちなみに功労者の盛時には富士下方12郷と興国寺城、そして御一家相当の待遇が与えられた。


遠江平定編集

その後、義尚・義政が亡くなり将軍は政知や義政の弟である足利義視の長男・義材(義稙)になっていた。延徳3年(1491年)、政知が病死し堀越公方家は後家の円満院が仕切っていたが、かねてから円満院と憎み合っていた茶々丸が蜂起して円満院と異母弟の潤童子を討ち事実上の公方に収まった。茶々丸は関東管領山内上杉顕定と結んだため顕定も敵に回すことになった。また茶々丸が家督奪取した明応元年(1492年)には武田信縄(信虎の父)とこれに反対する父・信昌や弟・岩手縄美との内戦が発生するなど、周辺諸国にも少なからぬ影響を及ぼし、氏親も信濃の諏訪頼満(頼重の祖父)と共に信昌たちを支援すべく甲斐に出兵している。

明応2年(1493年)、11代将軍足利義澄(及び細川政元日野富子)から母と弟の仇である茶々丸討伐を命じられた宗瑞(盛時より改名)は茶々丸を放逐し伊豆を手中にした際、氏親も兵を貸してこれを支援した。さらに顕定が越後長森原で長尾為景に討たれたことで宗瑞が関東進出を本格化させた永正6年(1509年)以降も協力体制は継続し、宗瑞は最後まで今川氏の客将としての立場を棄てることは無かった。


当主としての地位が確定した明応3年頃より、氏親は今川氏の悲願であった遠江奪還を目指して軍事行動を開始し、遠江守護の斯波義寛斯波義達父子と対決。この時遠江侵攻のため兵を率いたのも叔父の宗瑞であり、文亀年間までに遠江中部までを今川の支配圏に収めた。さらに宗瑞は三河の松平長親(清康の祖父)とも干戈を交えたが敗北し撤退している。

一方で氏親も宗瑞による関東進出を支援し、永正元年(1504年)には自らも宗瑞とともに武蔵に出陣、扇谷上杉氏の援軍として山内上杉氏の軍勢を武蔵立河原にて破っている。


前述の伊豆討入り以来、氏親と宗瑞は義澄寄りの立場にあったが、義澄の後見人である細川政元が斯波氏と上杉顕定との連携を働きかけるようになると、この両者と競合する立場にあった氏親と宗瑞は次第に義澄から、これと敵対していた前将軍・足利義尹(義稙)寄りの姿勢に転換。その後永正の錯乱を経て、永正5年(1508年)に義尹が将軍職に復すると、氏親も正式に遠江守護に任じられ、遠江支配の大義名分を獲得した。

遠江を巡る斯波氏との抗争はその後永正14年(1517年)まで続き、最終的に引馬城に籠る大河内貞綱を破り、これに加勢していた斯波義達をも降伏させた事で、ようやく念願であった遠江平定を果たしたのである。


遠江平定と並行し、甲斐方面では武田信虎や郡内の小山田氏と戦った他、大井信達に味方して信虎と争い、中道往還沿いの勝山城を一時的に占拠している。武田との抗争は永正14年(1517年)に一旦は和議が結ばれ、氏親も駿河へと撤兵しているが、その後の義元の代に甲駿同盟が成立するまでの間、甲斐への派兵が続けられた。


晩年編集

斯波氏の勢力を遠江から駆逐したのに伴い、永正15年(1518年)より当地の支配を固めるべく検地を実施。また、駿河中部の安倍金山を開発して財力を増した。大栄6年(1526年)には、未だ若年である嫡男・氏輝による政権の安定を図るべく「今川仮名目録」を制定。これらの取り組みにより今川氏はそれまでの守護大名から戦国大名へとその性格を変化させていくと共に、後年成立した武田氏の「甲州法度次第」などにも影響を与えるなど、東国における分国法の代表的なものとしても位置づけられた。

制定してからわずか2ヶ月後の7月に駿府にて死去。享年は56または54。

葬儀は増善寺にて盛大に執行され、7000人の僧侶が参加。喪主を務めた長男・氏輝が祭文を読み上げ、五男・栴岳承芳(後の今川義元)が棺の綱を、三男・玄広恵探が御位牌を持って、曹洞宗最高の法式で行われた。


人物編集

  • 幼少期に保護を受けた法永長者は曹洞宗を厚く庇護していた人物であり、その影響もあり代々臨済宗を重んじてきた今川氏の当主の中にあって氏親のみは例外的に曹洞宗を重んじるようになったという。氏輝の代から再び臨済宗が重んじられ義元の片腕の太原雪斎も臨済宗の僧侶だった。とはいえ領内において曹洞宗の勢力も侮れないものとなったという。
  • 自身も和歌と連歌を特に好んだが、今川氏の御膝元である駿府にも京文化が取り入れられるようになったことについては中御門家出身の正室・寿桂尼を迎え入れられてから顕著になった。この寿桂尼は女傑でもあり氏親がその晩年、中風にかかって寝たきりになると、前述の今川仮名目録の制定も含め、寿桂尼が政治面においても氏親を補佐した。氏親死後も氏輝・義元さらに孫の今川氏真の代まで及び武田信玄北条氏綱北条氏康織田信秀織田信長徳川家康といった英傑たちと渡り合った。

フィクションにおける今川氏親編集

ゲーム編集

『蒼天録PK』から初登場。その後『革新』以降は架空シナリオ限定で再登場を果たした。今川家武将ではトップのステータスを持っていた。


漫画編集

主要人物の一人。


関連タグ編集

今川家 寿桂尼

今川氏輝 今川義元 玄広恵探

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