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今川氏親

いまがわうじちか

今川氏親とは、東海・中部地方の戦国武将。父・今川義忠の横死やそれに伴う家督争いで不遇の時期を過ごすも、後に叔父の伊勢盛時(北条早雲)の協力によって第9代目当主となり、勢力圏の拡大や分国法「今川仮名目録」の制定に務めた。(1471年-1526年)
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家督争い

文明3年(1471年)もしくは同5年(1473年)、駿河国守護の今川義忠の子として誕生。幼名・龍王丸。母は北川殿北条早雲の姉)、兄弟に正親町三条実望の妻となった姉が、弟に心範がいる。
龍王丸の誕生から間もない文明8年(1476年)、父・義忠は離反した国衆の討伐から戻る途上、遠江の塩買坂でその国人らの残党に襲われ討死してしまった。時に龍王丸はまだ4歳と幼く、今川家中では三浦氏、朝比奈氏らを中心に、今川一門の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立する一派が現れ、龍王丸派との間で幾度もの武力衝突も発生するなど、深刻な家督争いが勃発する事となった。

龍王丸の立場はこの時非常に危ういものであった。というのも、父・義忠は応仁・文明の乱において、東軍としての立場で隣国・遠江への進出を図り、同国守護で西軍の斯波義廉と干戈を交えていた。ところが乱の最中に室町幕府は遠江守護を斯波義廉から、義忠と同じく東軍に属する斯波義良(義寛)へと交代させており、にも関わらず遠江への進出を止めない義忠と斯波氏との間で、同士討ちも同然な対立が生じていた。
そして義忠が亡くなる直前に討伐した、横地・勝間田の両氏の帰参先も他ならぬ斯波義良であり、義忠による横地・勝間田討伐は幕府による命令遂行の妨害、即ち反逆行為と見做される可能性もあったのである。当然、龍王丸も家督継承どころか反逆者の一族として討伐されるかも知れない状況にあり、母・北川殿と共に小川城の法永長者(長谷川政宣)の元へ逐電していたとされる。
ちなみに、この法永長者なる人物は曹洞宗を厚く庇護していた人物であり、その影響もあって代々臨済宗を重んじてきた今川氏の当主の中にあって、龍王丸(氏親)のみは例外的に曹洞宗を重んじるようになったという。

この家督争いには、堀越公方家臣・上杉政憲(範満の外祖父)と扇谷上杉氏家宰の太田資長(道灌)も小鹿派寄りの立場で介入するなど、龍王丸派にとってはさらに厳しい状況に陥るが、ここで意外な助け舟が入る事となる。
幕府としてはこの時、龍王丸の追討までは考えていなかった一方、義忠の死の経緯から龍王丸の保護に乗り出す必要が生じており、また駿河に対する関東管領の影響力が強まる事も危惧していた。このため幕府は調停役として、一人の申次衆を駿河へと派遣した。それが龍王丸の叔父に当たる伊勢盛時その人である。
盛時の仲裁により、龍王丸派と小鹿派との間では「龍王丸が元服するまで範満が政務と家督を代行する」という条件のもとで和議が成立、上杉・太田の両軍も撤兵し家督争いに一応の決着が着いた。

当主就任

和議の成立後、当主代行の範満は今川館に入り、一方の龍王丸は母・北川殿と共に引き続き小川城に身を寄せた。文明11年(1479年)には伊勢盛時による幕府への申請の末、足利義政の名による龍王丸の家督継承の内書を獲得するなど、和議の条件履行に向けての動きも進められた。
ところが、龍王丸が15歳になり成人したにもかかわらず、範満は一向に家督を返還する様子を見せなかったため、長享元年(1487年)に龍王丸・北川殿母子は京に向かい、当時幕府奉公衆の職にあった盛時に助けを求めた。盛時はこの要請に応じ駿河へ下向、石脇城を拠点として兵を集め、駿河館に籠る範満を滅ぼす事に成功した。同年11月の事である。
この時既に、範満の支持者であった上杉政憲・太田道灌は共にこの世にはなく(※)、また堀越公方も幕府との関係を重視し龍王丸支持に切り替えており、こうした情勢の変化も範満誅殺の追い風となったと見られている。
(※ 上杉政憲が、主君・足利政知との確執の末に自害に追い込まれた正確な年次は今もって確定を見ていないが、少なくとも伊勢盛時による範満誅殺と前後しての事であると見られている)

ともあれ、これにより龍王丸が今川氏の家督を相続する事が確定となり、その功労者となった叔父・盛時には富士下方12郷と興国寺城、そして御一家相当の待遇が与えられた。
通説では範満誅殺に伴い直ちに駿河館に入城、氏親と名乗って今川氏第9代目当主となったと言われている。しかし実際のところ、その後の数年間は以前より拠点としていた丸子城に引き続き留まり、明応4年(1495年)頃に駿河国内の平定が完了したのを機に、元服し氏親と名乗ったのではないかという見解も示されている。

遠江平定

延徳3年(1491年)、堀越公方・足利政知が病死すると、その直後に発生した内紛により足利茶々丸が事実上の公方の座に収まった。この堀越公方の内紛は翌明応元年(1492年)に発生した甲斐武田氏の内紛など、周辺諸国にも少なからぬ影響を及ぼしたようで、氏親も信濃の諏訪頼満と共に武田信昌(武田信虎の祖父)を支援すべく甲斐に出兵している。
そして明応2年(1493年)、再び駿河に下向していた叔父・盛時が、代替りに伴う伊豆国内の混乱に乗じて茶々丸討伐に乗り出すと、氏親も兵を貸してこれを支援している。盛時改め早雲庵宗瑞が伊豆平定を果たした後も、宗瑞が関東進出を本格化させる永正6年(1509年)頃まで、両者間の協力体制は継続していく事となる。

当主としての地位が確定した明応3年頃より、氏親は今川氏の悲願であった遠江奪還を目指して軍事行動を開始し、遠江守護の斯波義寛義達父子と対決。この時遠江侵攻のため兵を率いたのも叔父の宗瑞であり、文亀年間までに遠江中部までを今川の支配圏に収め、さらに三河の松平氏とも干戈を交えた。
一方で氏親も宗瑞による関東進出を支援し、永正元年(1504年)には自らも宗瑞とともに武蔵に出陣、扇谷上杉氏の援軍として山内上杉氏の軍勢を武蔵立河原にて破っている。

前述の伊豆討入り以来、氏親と宗瑞は室町幕府11代目将軍・足利義澄寄りの立場にあったが、やがて義澄の後見人である細川政元が斯波氏と山内上杉氏との連携を働きかけるようになると、この両者と競合する立場にあった氏親と宗瑞は次第に義澄から、これと敵対していた前将軍・足利義尹(義稙)寄りの姿勢に転換。その後永正の錯乱を経て、永正5年(1508年)に義尹が将軍職に復すると、氏親も正式に遠江守護に任じられ、遠江支配の大義名分を獲得した。
遠江を巡る斯波氏との抗争はその後永正14年(1517年)まで続き、最終的に引馬城に籠る大河内貞綱を破り、これに加勢していた斯波義達をも降伏させた事で、ようやく念願であった遠江平定を果たしたのである。

遠江平定と並行し、甲斐方面では武田氏や郡内の小山田氏と戦った他、大井信達に味方して武田信虎と争い、中道往還沿いの勝山城を一時的に占拠している。武田との抗争は永正14年に一旦は和議が結ばれ、氏親も駿河へと撤兵しているが、その後も息子の義元の代に甲駿同盟が成立するまでの間、甲斐への派兵が続けられた。

晩年

斯波氏の勢力を遠江から駆逐したのに伴い、永正15年(1518年)より当地の支配を固めるべく検地を実施。また、駿河中部の安倍金山を開発して財力を増した。亡くなる2ヶ月前の大栄6年(1526年)には、未だ若年である嫡男・氏輝による政権の安定を図るべく「今川仮名目録」を制定。これらの取り組みにより今川氏はそれまでの守護大名から戦国大名へとその性格を変化させていくと共に、後年成立した武田氏の「甲州法度次第」などにも影響を与えるなど、東国における分国法の代表的なものとしても位置づけられた。
永正2年(1505年)頃に中御門家より迎えた正室・寿桂尼の存在は、今川氏と京との繋がりを一段と強める事となり、今川氏の御膝元である駿府にも京の文化が取り入れられるようになった。氏親本人も和歌と連歌を特に好んだとされる。また氏親がその晩年、中風にかかって寝たきりになると、前述の今川仮名目録の制定も含め、寿桂尼が政治面においても氏親を補佐する格好となった。

大栄6年6月23日(1526年8月1日)、駿府にて死去。葬儀は増善寺にて盛大に執行され、7000人の僧侶が参加。喪主を務めた長男・氏輝が祭文を読み上げ、五男・栴岳承芳(後の今川義元)棺の綱を、三男・玄広恵探が御位牌を持って、曹洞宗最高の法式で行われた。

信長の野望

『蒼天録PK』から初登場。その後『革新』以降は架空シナリオ限定で再登場を果たした。今川家武将ではトップのステータスを持っている。

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