概要
生年:寛正6年11月23日(1465年12月11日)
没年:長享3年3月26日(1489年4月26日)
室町幕府第9代将軍。第8代将軍・足利義政を父に、義政の正室・日野富子を母に持つ。長らく男子に恵まれなかった義政・富子夫妻にとっては待望の嫡子であったが、一方で義尚の誕生によって、叔父に当たる足利義視との間で将軍後継問題が勃発、この事が応仁・文明の乱の勃発の一因ともなった。
その応仁・文明の乱の最中に父より将軍職を譲られたものの、幼少での将軍就任であった事から、その治世の初期は実質的には母・富子が幕政を主導、さらに隠居したはずの父・義政もまた幕政の実権を掌握し続けており、長じてから義尚は父母との政治的な対立、それに長きに亘る大乱を経ての幕府・将軍権威の失墜という現実に直面。結果として義尚はその生涯を、この2つの難題との戦いに費やす事となったのである。
父譲りであろう文化的な素養の持ち主でもあり、歌人として数々の歌会を主催し、『常徳院集』という歌集なども残している。また和歌以外でも、「後土御門天皇が義尚に絵画を提出するようご所望された」という記録が『御湯殿上日記』に残されている。
一方で、政治の面においてはその治世の初期こそ幕府権力の回復に邁進して名君と期待されたものの、晩年に敢行した六角征伐の前後からは側近政治に傾倒し、彼ら側近の専横と将軍権力の弱体化を招くという、義尚にとっては皮肉な結果を招いている。
誕生前史
将軍親政の復活を目指し、精力的に手腕を振るった父・義政はしかし、寛正年間に入るとその将軍親政の行き詰まりから徐々に政務に倦み、花見や紅葉見物、酒宴などを頻繁に行い遊びふけるようになっていた。さらに義政は建築や造園にも力を注いでおり、室町殿の復旧も行って邸内に新殿や泉を作り、母・日野重子のために新しい邸宅を造営し、設計から工事まですべて義政が中心となって進行している。
その治世下にあって世間は水害や干害、地震などが頻発したことにより、大飢饉が慢性化していた。台風の氾濫によって流通手段が分断され、京の都であっても餓死者が続出し、その死体によって川の水がふさがるほどだったという。(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)
こうした状況の中、寛正4年(1464年)に義政は浄土寺にて僧籍に入っていた弟・義尋を還俗させ、「義視」と名乗らせ自分の後継者とする。時に義政29歳、跡を継ぐべき男子がいなかったことから「たとえ世継ぎとなる男子が出生しても、必ず将軍職を譲る」との誓紙をしたため、渋る義尋を納得させている。
寛正5年(1465年)春、後継者を定め後顧の憂いをなくした義政は、大原野で盛大な花見を催した。衣服や調度などが前代未聞といわれるほどの華美さだったという。
義尚誕生と応仁の乱
義尚が義政・富子夫妻の次男(これ以前にも長男を設けていたが、誕生したその日のうちに夭逝していた)として産まれたのは、義視が還俗した同じ年の11月の事であった。
従来、実子である義尚を次の将軍にしたいと切望した富子が、守護大名の中でも有数の実力者である山名宗全(持豊)に後見を依頼し、一方の義視も同じく幕府有数の実力者で後見人でもある細川勝元を頼ることになり、この両者間の対立が将軍後継問題に発展していった、という通説が長きに亘って語られてきた。
しかし、実際のところは義政・富子夫妻と義視との間で、義尚が成長するまでの中継ぎとして、義視が将軍に就任する事で同意が得られていたとされ、前述したような構図をそのまま鵜呑みにするには無理がある。そもそも富子が宗全に義尚の後見を依頼したという話は、軍記『応仁記』にしか記載がなく、また同書の成立の背景などから、この話については「創作」ではないかという見解が現在では有力視されている。
将軍後継問題は、どちらかと言えば義政ら当事者間というよりも、義政の親政の維持と義視の排除を求める伊勢貞親ら将軍側近勢力、対して義政の引退と義視の将軍就任を望む宗全一派、この両者間の対立という色彩が濃いものであった。
やがて立場としては両者の中間にありながら、将軍側近勢力の専横に反感を抱いていた勝元一派が、宗全一派と結託し将軍側近勢力を瓦解に追い込む(文正の政変)と、畠山・斯波両氏の後継問題に加え政権運営を巡る考えの相違が絡む事で、今度は勝元一派と宗全一派が一転して反目し合うようになるなど、幕府権力の二分化と対立はより先鋭化の一途を辿って行った。
文正2年(1467年)1月、以前より家督を争っていた畠山義就と畠山政長は京都北西の上御霊社にて武力衝突に及び、宗全の後ろ盾を得た義就が一旦は政長を下すも、年号変わって応仁元年(1467年)5月には山名・細川を中心とした守護大名らによる全面戦争へと発展し、乱は地方に拡散した。世にいう応仁・文明の乱の勃発である。
この大乱に当たり、当初は東軍についていた義視は、伊勢貞親の復帰などを巡って兄・義政と不和に陥り、結果東軍を出奔して西軍につき、事実上2つの幕府が並立するという事態が発生した。そしてこの過程で、義視が将軍後継としての立場を喪失したのに伴い、代わって次期将軍としての義尚の地位が確定する事となる。
乱の勃発から6年後の文明5年(1473年)、義尚は9歳にして元服を果たし、12月には義政より将軍職を譲られ9代将軍に就任する。当然の事ながら、幼年の新将軍には政務を満足に司れる訳もなく、在職の初期は義政・富子夫妻や伯父にあたる日野勝光らが中心となって、政務を代行する状態が続いた。また将軍就任の少し前には、乱の中心人物であった山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなるも、長きに渡る内乱が終結を見るのは文明9年(1477年)まで待つこととなる。
将軍就任後
文明11年(1479年)、御判始、評定始、御前沙汰始を行うようになり、将軍として自ら政務を執り行うようになった。後には一条兼良に政道の教えを請い、政道指南書である『樵談治要』や『文明一統記』を兼良から授けられてもいる。
ところが義尚が長ずるに及んで、将軍親政を志す義尚の前に大きな壁が立ち塞がる。依然として幕政の実権を握る父・義政その人である。父子間で幕政の主導権を巡って対立が生じる中、不服を示した義尚が複数回に亘って出家に及ぼうとし、その度義政が隠居と政務の移譲を表明するという状況が発生するも、義政はその後も終生幕政へと関与し、義尚の権限を制約し続ける事となる。
両者の対立は、義政に親しい文官集団の奉行衆と、義尚側についた武官集団の奉行衆という、各々の部下同士による対立にも繋がり、文明17年(1485年)にはその対立がさらに顕在化し武力衝突の一歩手前にまで発展。一旦は細川政元の仲裁で事なきを得るも、後に奉公衆によって奉行衆の筆頭格であった布施英基が、義尚の居所である小河御所にて殺害されるという事件も発生している。
政務だけに留まらず、私生活でも側室を巡って父子間の対立があったと伝えられており、さらに幼少の頃から公私を問わず過干渉を繰り返す母・富子との関係も悪化するなど、その深刻な家庭内不和から養育係だった伊勢貞親の息子・貞宗の屋敷に移り住み、酒を飲んだり趣味の世界に没頭するなどの悪癖を見せるようになる。
このような状況にありながらも、長享元年(1487年)には近江守護の六角高頼を征伐すべく、義尚自ら2万余もの軍勢を率いて出陣している。これは高頼による近江国内の将軍家やその家臣の所領、寺社所領の押領が発覚したのを受けてのものであり、応仁の乱を経て失墜しつつあった将軍権力をこの征伐を機に回復しようという意図があった。
また幕府軍が拠点とした近江鈎の陣所には奉行衆も同行させる一方、伊勢貞宗らを始めとする義政側近を京に留めるなど、後世「長享・延徳の乱」とも呼ばれるこの征伐は義尚にとって単なる反抗勢力の鎮圧と将軍権威の回復に留まらず、隠居の身ながらも未だ幕政に隠然たる影響力を持つ義政から幕政の実務機能を切り離し、その実権を自身が完全に掌握するための意味合いも持っていた。
幕府軍は高頼の籠もる観音寺城に一斉攻撃を仕掛けるも、六角勢が早々に城を放棄しゲリラ攻撃へと切り替え反攻を続けており、加えて征伐軍内でも参陣していた諸大名の足並みが揃わぬ状態が続くなど、次第に戦況は膠着状態へと陥っていった。
また六角征伐の主目的であった「幕府権力の回復」も一旦は成るものの、長期在陣に伴い義尚が側近達を重用し政治の一切を任せる事が多くなったため、今度は彼らによる幕府権力の専横と寺社本所領の押領が深刻化。押領された側の領主達からはこの件への義政の関与が期待されるなど、結果として「将軍による幕府権力の完全な掌握」という義尚の意図とは裏腹に、義政の政治的な発言力を却って強める形となってしまった。
在陣の長期化に加え、予てからの過度の酒色が込むうちに義尚の健康も次第に悪化していった。長享2年(1488年)には義煕(よしひろ)へと改名するも、翌長享3年(1489年)、陣中に駆け付けた母・富子に看取られ25年の短い生涯を終えた。
義尚の死により、その後の半年余りは父・義政が病身を押して政務を代行、その間新たに将軍後継に指名された足利義材(足利義視の嫡男、義尚の従弟に当たる)が、延徳2年(1490年)に義政が没した後10代将軍に就任する事となる。また義尚が晩年心血を注いだ六角征伐も、義尚の早逝によって一旦は中断となるも、義材が将軍に就任した後の延徳3年(1491年)に第二次征伐が敢行され、高頼から守護職を取り上げ一族の虎千代と北近江の京極高清に半分ずつ担当させることで、一応の終結を迎えることとなった。(以上、榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)
関連タグ
松岡昌宏 - 1994年のNHK大河ドラマ『花の乱』にて義尚役を演じている。
骨喰藤四郎 - 六角征伐の折、義尚がこれを用いたとの記録が残されている。