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概要 

生没年 寛正6年(1465年)11月23日~長享3年(1489年)3月26日
 室町幕府・第8代将軍足利義政と義政の正室・日野富子の嫡男として生まれる。
 

義尚誕生前史

 寛正年間、8代将軍であった義政は政務に倦み、花見や紅葉見物、酒宴などを頻繁に行い遊びふけるようになっていた。さらに義政は建築や造園に力を注いでおり、室町殿の復旧も行って邸内に新殿や泉を作り、母・日野重子のために新しい邸宅を造営し、設計から工事まですべて義政が中心となって進行している。その治世下にあって世間は水害や干害、地震などが頻発したことにより、大飢饉が慢性化していた。台風の氾濫によって流通手段が分断され、京の都であっても餓死者が続出し、その死体によって川の水がふさがるほどだったという。(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)

 寛正4年(1464年)、義政は浄土寺の僧になっていた弟・義尋を還俗させて「義視」を名乗らせ、自分の後継者とする。このとき義政29歳、跡を継ぐべき男子がいなかったことから「たとえ世継ぎとなる男子が出生しても、必ず将軍職を譲る」との誓紙をしたため、渋る義尋を納得させている。
 寛正5年(1465年)春、後顧の憂いをなくした義政は大原野で盛大な花見を催した。衣服や調度などが前代未聞といわれるほどの華美さだったという。

義尚誕生と応仁の乱

 ところが、同じ年の11月に正室・日野富子に男子が誕生する。当然ながら富子は我が子を次の将軍にしたいと思い、守護大名の中でも有数の実力者である山名持豊(山名宗全)を頼り、一方の義視も同じく幕府有数の実力者である細川勝元を頼ることになり、畠山・斯波両氏の後継問題に加え将軍後嗣問題が絡む事で、幕府権力の二分化と対立はより先鋭化の一途を辿って行った。

 応仁元年(1467年)1月、家督を争っていた畠山義就畠山政長の軍勢が京に集結、同年5月には全面戦争へと発展し、乱は地方に拡散した。乱に当たり、当初は幕府方(東軍)についていた義視は兄・義政と不和となって山名方(西軍)につき、山名方(西軍)に迎えられていた義尚は逆に幕府方(東軍)につくなど、乱の最中には両軍の旗頭が入れ替わるという事態も発生している。

 乱の勃発から6年後の文明5年(1473年)、義尚は9歳の若さで9代将軍に就任するが、幼年の新将軍には当然政務を満足に司れる訳もなく、在職の初期は義政・富子夫妻や伯父にあたる日野勝光らが中心となって、政務を代行する状態が続いた。また将軍就任の少し前には、乱の中心人物であった山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなるも、長きに渡る内乱が終結を見るのは文明9年(1477年)まで待つこととなる。

将軍就任後

 文明11年(1479年)、御判始、評定始、御前沙汰始を行うようになり、一条兼良に政道の教えを請い、政道指南書である『樵談治要』や『文明一統記』を兼良から授けられる。
 ところが義尚が長ずるに及んで、幕政の実権を握る父・義政に仕える文官集団の奉行衆と、義尚側についた武官集団の奉行衆の対立が先鋭化。文明17年(1485年)にはその対立がさらに顕在化し、奉公衆と奉行衆の抗争事件にまで発展している。
 政務外でも、側室を巡って父子間の対立があったと伝えられており、さらに幼少の頃から公私を問わず過干渉を繰り返す母・富子との関係も悪化するなど、その深刻な家庭内不和から養育係だった伊勢貞親の息子・貞宗の屋敷に移り住み、酒を飲んだり趣味の世界に没頭するなどの悪癖を見せるようになる。しかしながら、文化的素養はあり歌人として『常徳院集』という歌集を残し、「後土御門天皇が義尚に絵画を提出するようご所望された」という記録が『御湯殿上日記』に残されている。

 このような状況にありながらも、長享元年(1487年)には近江守護の六角高頼を征伐すべく、義尚自ら2万余もの軍勢を率いて出陣している。これは高頼による近江国内の将軍家やその家臣の所領、寺社所領の押領が発覚したのを受けてのものであり、応仁の乱を経て失墜しつつあった将軍権力をこの征伐を機に回復しようという意図があった。
 また幕府軍が拠点とした近江鈎の陣所には奉行衆も同行させる一方、伊勢貞宗らを始めとする義政側近を京に留めるなど、後世「長享・延徳の乱」とも呼ばれるこの征伐は義尚にとって単なる反抗勢力の鎮圧と将軍権威の回復に留まらず、隠居の身ながらも未だ幕政に隠然たる影響力を持つ義政から幕政の実務機能を切り離し、その実権を自身が完全に掌握するための意味合いも持っていた。

 幕府軍は高頼の籠もる観音寺城に一斉攻撃を仕掛けるも、六角勢が早々に城を放棄しゲリラ攻撃へと切り替え反攻を続けており、加えて征伐軍内でも参陣していた諸大名の足並みが揃わぬ状態が続くなど、次第に戦況は膠着状態へと陥っていった。
 また六角征伐の主目的であった「幕府権力の回復」も一旦は成るものの、長期在陣に伴い義尚が側近達を重用し政治の一切を任せる事が多くなったため、今度は彼らによる幕府権力の専横と寺社本所領の押領が深刻化。押領された側の領主達からはこの件への義政の関与が期待されるなど、結果として「将軍による幕府権力の完全な掌握」という義尚の意図とは裏腹に、義政の政治的な発言力を却って強める形となってしまった。

 在陣の長期化に加え、予てからの過度の酒色が込むうちに義尚の健康も次第に悪化していった。長享2年(1488年)には義煕(よしひろ)へと改名するも、翌長享3年(1489年)、陣中に駆け付けた母・富子に看取られて息を引き取った。享年・25歳。 
 義尚の死により六角征伐は一旦中断となるも、義尚の従弟で10代将軍に就いた足利義材に引き継がれており、延徳3年(1491年)に義材が敢行した第二次征伐では高頼から守護職を取り上げ、一族の虎千代と北近江の京極高清に半分ずつ担当させることで、一応の終結を迎えることとなった。(以上、榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)

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室町時代 室町幕府 足利義政 日野富子
松岡昌宏 - 1994年のNHK大河ドラマ花の乱』にて義尚役を演じている。

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