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足利義栄

あしかがよしひで

足利義栄は、室町幕府の第14代将軍。堺公方を称した足利義維の嫡男であり、三好三人衆に擁立され将軍となるも、織田信長の上洛によりわずか半年余りで将軍の座を追われた。(1538年/1540年-1568年)
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生涯編集

天文7年(1538年)もしくは天文9年(1540年)、初代平島公方・足利義冬(義維)の長男として阿波の平島にて生を受ける。初名は義親(よしちか)または義勝(よしかつ)。父の義冬は11代将軍・義澄の次男で「堺公方」を称し、一時期将軍職を狙える立場にもあったが、義栄の生まれた頃は堺からも追われ阿波にて雌伏の日々を送っていた。

義栄もまた長らく不遇の時期を過ごしていたが、永禄8年(1565年)に転機が訪れる。5月に発生した「永禄の変」で、従兄の第13代将軍・足利義輝が討たれ、変の首謀者であった三好三人衆らは義栄に、義輝に代わる新将軍としての擁立を打診したのである。この時、父・義冬が中風を患い満足に動ける状態になかったのも、義栄擁立の一つの決め手ともなった。


将軍候補として擁立されたとはいえ、義栄の前途は多難であった。最大の庇護者である三好三人衆は主君である三好義継や、三好家中の第一人者であった松永久秀らと対立し、満足に将軍就任への働きかけを行える状態になかった。さらに前将軍・義輝の弟である一乗院覚慶も、還俗して義秋と名乗り次期将軍の座を狙っていたのである。

永禄9年(1566年)より畿内入りした義栄は摂津の普門寺城(現・大阪府高槻市)に本拠を置き、義秋に遅れる事半年で次期将軍候補が就任する「左馬頭」に任官される。翌永禄10年(1567年)には朝廷に対して将軍宣下を申請する事となるが、ここでも朝廷からの献金要求に応じられず、結局将軍宣下がなされたのはさらに数か月後の永禄11年(1568年)2月8日の事であった。


ともあれ、これでようやく第14代将軍に就任した義栄だったが、依然三人衆と久秀の抗争が続いていたのに加え、自身も背中の腫物のため入京が叶わずにいるうち、東からは大きな脅威が迫りつつあった。永禄11年9月、もう一人の将軍候補であった足利義昭(同年4月に義秋より改名)を奉じ、尾張の織田信長が上洛の途についたのである。

この動きに対し久秀は早々に信長側へ付き、三人衆は畿内で抵抗するも敗北。ここに至って義栄も将軍就任からわずか半年余りで、普門寺城からの逃走を余儀なくされた。これにより義栄は室町幕府が始まって以来、一度も入京を果たせずに終わった唯一の将軍となってしまったのである。


その後反攻の機会が巡る間もなく、予てからの背中の腫物の悪化により義栄は帰らぬ人となった。享年29もしくは31。没月日については9月の中頃から10月の下旬にかけてのいずれか、また最期の地も阿波、淡路、摂津の普門寺と様々な説があるが、いずれにしても信長の上洛開始からさほど日の経たぬうちの死去である事だけは確かである。

実家である平島公方は、5年後の天正元年(1573年)に父・義冬が没した後、義栄の弟である義助が継承した。


将軍としての業績編集

如何せん在任期間が半年余りと極めて短く、義栄の意向によって出された奉行人奉書もわずかに2通のみで、朝廷や春日大社に対してに馬と刀を献上した程度しか、将軍としての義栄の事績は伝わっていないとされる。そのためか足利氏の菩提寺で、歴代将軍の木像を安置している京都の等持院にも義栄の木像はなく、また書物によっては義栄の存在も一切無視されていたりと、歴代将軍として数えられていない場合もある。

そもそも父・義冬から受け継いだ義栄の政権の基盤はお世辞にも盤石であるとは言い難く、前将軍・義輝に仕えていた幕臣の取り込みも結果的に限定的なものとなった上、庇護者である三好氏も一枚岩とは言い難い状態であった事から、将軍として主体性を発揮出来る状況にはなかったとも考えられている。


とはいえ、三人衆と久秀の対立により彼らからの制約が弱まった事で、石清水八幡宮の人事への介入や、大徳寺と京都の住民との対立を仲裁するために奉行人を派遣するなど、これらの動きにも義栄が関与していた可能性が近年の研究から明らかにされつつある。


その後の平島公方家編集

義栄の死去から時代が下り、豊臣秀吉が全国政権を確立すると、阿波には蜂須賀家政蜂須賀正勝(小六)の子)が入り、平島公方家も蜂須賀氏(阿波徳島藩)の客将として遇せられるようになった。

とはいえ、蜂須賀氏の入部に伴い足利から平島へと改姓することとなり、また父・義冬以来の所領(6000石)は没収の上、初期の禄高もわずか100石かつ茶料扱い(正式な領地ではない)と、実際の暮らし向きに元々の権威や血筋が反映されない(もっとも秀吉は主君であった信長同様、12代将軍・足利義晴の系統を足利家の正統としていること。平島公方家を厚遇すれば義昭ひいては秀吉の権威が揺らぐことにもなりかねなかった。)という冷遇を、平島家は強いられることとなった。反面、小弓公方・足利義明直系子孫の喜連川家や義明の甥・晴直の末裔である旗本・宮原家は古河公方の後裔として高家扱いされ、義輝の子孫を称した熊本藩士・尾池玄蕃家なども厚遇されており、平島家とは天と地ほどの差があった。

それでも4代義次から5代義景の頃などには、旧領の一部の返還や若干ながらも知行の加増など、ある程度の待遇の改善も見られた。また8代義宜を始め歴代当主の中には、漢籍などに長けた者も少なからずおり、江戸期における平島は平島家を中心に、一大文化拠点のようなものを形成していた時期もあった。


しかしこうした盛んな文化的活動は、必然的により深刻な財政難を平島家に招くものでもあり、これを受けてのさらなる加増願いも聞き届けられなかった事から、結果として平島家は9代義根の頃に阿波を退去し、京都へ移ることとなる。義栄の頃から250年ほど後、19世紀初頭のことであった。

京都に移り住んでからは、紀州徳川家(阿波退去の後、義根の子である義寛を同家に仕官させる内約があったとされる)や、等持院など足利氏ゆかりの寺院からの援助で細々と食いつなぐ暮らしを余儀なくされた。その後明治期に入ると華族への復帰を願い出るも失敗に終わり、さらに阿波藩退去の経緯から脱藩浪人として扱われ士族にもなれないという、二重の悲哀を味わうことになった。


とはいえ歴史というのは皮肉なもので、将軍家の直系である足利義昭の血脈が早々に絶えたこともあり、21世紀現在では平島公方家と喜連川家の二系統の子孫が、足利氏(両家共に近世に入って復姓)として足利尊氏の血脈を伝えるに至っているのである。


ドラマでの演者編集

信長の野望編集

2020年現在、『天翔記』のみ登場。固有の顔グラフィックでステータスも政治面がやや高い程度だが、それ以外は微妙。再登場の機会も無いという扱いである。

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