喜連川氏
きつれがわし
元々は室町幕府初代将軍・足利尊氏の四男・基氏を祖とする鎌倉公方家を大本とする。その後基氏の曾孫・持氏は永享の乱で足利義教に滅ぼされたが、持氏の末子である成氏が鎌倉公方を再興した。しかし、享徳の乱で今川範忠(氏親の祖父)に鎌倉を占領され、下総古河(茨城県古河市)に本拠地を移し古河公方と名乗った。
1510(永正7)年頃、上杉顕定死後の山内上杉家の家督争いに絡んだ成氏の嫡子である古河公方2代当主・政氏と長男・高基との対立の最中、政氏の次男・義明が独立し古河公方家は三つ巴の争いになったが、のち高基と義明の嫡流争いとなり、1517(永正14)年に義明は小弓城(千葉県千葉市)を本拠に小弓公方を名乗る。一方の古河公方家では今度は高基と高基の長男・晴氏さらに義明と結んだ高基の次男・晴直の三者が互いに争った。その後、4代当主となった晴氏は相模の北条氏綱・氏康親子と手を結び1538(享禄4)年の第一次国府台合戦で義明と義明の長男・義純らは戦死し小弓公方家は滅亡した。晴直は上総宮原に隠棲し、義明の次男・頼純は里見義堯を頼って安房へ落ちのびた。
古河家も氏綱の死後、晴氏と氏康の関係が悪化し晴氏は1546(天文15)年、上杉憲政や上杉朝定らと共に河越城を攻めるも河越夜戦で氏康や北条綱成に大敗。晴氏は次男の義氏に家督を譲らされ自身は幽閉された。義氏は後北条氏の傀儡だったが1583(天正11年)に嫡男が無いまま没したため、その娘・氏姫が当主代行を務めた。
1590(天正18年)、豊臣秀吉による小田原攻めにより後北条氏が滅んだ後、頼純の長男・国朝が下野喜連川(栃木県さくら市)に4,000石を与えられるとともに、氏姫と結婚させられた。しかし、古河公方側からすれば国朝は古河公方に謀反を起こし独立した義明の孫、小弓公方側からすれば氏姫は義明の仇である晴氏の孫という認識であり双方の家臣は激しく対立した。1593(文禄2)年、国朝は文禄の役従軍中に安芸国で死去したため、弟の頼氏が跡を継ぎ氏姫と再婚した。
頼氏はのち姓を足利から喜連川に改め江戸時代になり喜連川藩主として明治維新後の廃藩置県まで続き、明治時代に足利の姓に復し子爵に叙爵された。