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足利氏姫

あしかがうじひめ

足利氏姫とは安土桃山時代から江戸時代前期の人物。院号は徳源院。

生没年 1574(天正2)年~1620(元和6)年

第5代古河公方・足利義氏の娘。母は北条氏康の娘・浄光院。

生涯

1583(天正11)年父・義氏が死去するが、唯一の男子であった弟の梅千代王丸は夭折していたため、氏姫が古河公方家の家督を相続した。

1590(天正18)年、豊臣秀吉小田原攻めによって後北条氏が滅亡すると、古河公方家のかつての居城であった鴻巣御所300石を除いて没収されたため、それまでの居城だった古河城から移り住むことになった。

翌天正19年、秀吉の命によりかつての仇敵であった小弓公方家の足利国朝と結婚。これにより関東公方家が名目上統一されたものの、古河・小弓両公方家の政治的対立は収まらなかったため氏姫は鴻巣御所に住み続けた。さらに国朝も1593(文禄2)年に死去したためその弟である喜連川頼氏と再婚した。

頼氏との再婚後も亡くなるまで鴻巣御所に住み続けたが、頼氏との間に1男1女をもうけたため名実ともに関東公方家の統一を果たすことができた。ただ政治的対立は収まらず、1647(正保4)年には家中争い(喜連川騒動)が起こり、氏姫の孫である3代藩主・尊信が隠居させられることになる。

関ヶ原の戦い後、頼氏と氏姫を祖とする喜連川藩は最大でも5,000石の小藩ながら幕末まで続き、明治維新後に足利に改姓。令和の現在まで家名をつなげている。

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