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足利義氏(古河公方)

あしかがよしうじ

足利義氏とは第4代目古河公方・足利晴氏の次男で第5代目古河公方にして最後の古河公方。伯父・北条氏康の元で公方に就任するが、実権は持たなかった。(1541年-1583年)

概要編集

1541年、第4代目古河公方・足利晴氏と芳春院(北条氏綱の娘で北条氏康の異母妹)との間に誕生した。兄に藤氏、弟に藤政、輝氏、家国がいる。幼名は梅千代王丸


1552年に父・晴氏が北条家に攻められて降伏すると氏康は「長男・藤氏を廃し、我々北条一門出身の梅千代王丸を次期古河公方として認めるべし」(意訳)と強要した。2年後(1554年)に葛西城にて元服の式を受けて室町幕府第13代目将軍・足利義輝の一字を拝領し、義氏と名乗る。


1558年には葛西城を出て鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣し、8月には公方領国に帰還したが古河御所では無く関宿城への移動となった。これらの身上は全て北条家の政略上のものとして動かされた為に実質傀儡の公方となっていたのであった。


やがて長尾景虎が晴氏の長男・藤氏を正統な次期古河公方として擁立し、義氏を正統な後継者として認めずに何度も攻め入った。このために義氏は1569年の越相同盟にて北条家と上杉家が和睦するまで様々な場所を転々とした。やがて1569年に越相同盟が結ばれると上杉謙信から正統な古河公方として認められた事により、遂に古河御所へ復帰に成功するが、その代償として氏康の次男・北条氏照を後見人するという条件だったので傀儡に代わりなかった。


1583年に42歳で死去し、嫡男・足利梅千代王丸も早世していた為に義氏の死を以って古河公方は断絶した。しかし古河公方の家臣団達は義氏の娘で梅千代王丸の姉である足利氏姫を古河城主に擁立させたのであった。


創作物における足利義氏編集

特にネタにされやすいのが、太閤立志伝Vでこのステータスでありながら↓


統率武力政務智謀魅力
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ゲーム中2番目に強力な刀である「村雨」(装備すると武力+15)を所持しているが、装備させても武力がたったの34にしかならない事や、古河公方と称しているのに何故か小田原の町で浪人をやっているという何ともな扱いを受けている。更に強力な武器を求めているプレイヤーから村雨目当てで襲撃を受ける事も多々あり、この為かニコニコでは「村雨の人」と呼ばれる人になってしまった。

言い換えれば「村雨が本体」というべきか。


この動画がその原因である


なおこの事は公式からもちゃんと認知されているようで、リマスター版である「太閤立志伝ⅤDX」の広報プレイ動画でもしっかり紹介されている。


詳しくはこちら。


一応彼をプレイヤーにして天下統一させるとエンディングに「関東の足利が天下を統一しました」というナレーションが追加される。


  • 信長の野望

武将風雲録シナリオ2より初登場。次作・覇王伝では父・晴氏も登場したが、何故かこの時は血縁関係が無かった。

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