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太田資正

おおたすけまさ

武蔵国(現在の埼玉県)出身の戦国武将。別名・太田三楽斎(〜さんらくさい)。近在一の弓の名手であり、戦国時代末期に関東で武勇を振るった隠れた名将。日本で初めて軍用犬の実践運用をこなした人物ともされる。「反北条氏」を掲げて後北条氏と生涯戦い続けた。
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概要

大永2年~天正19年 (1522〜1591)

摂津源氏源頼政の末裔である岩槻太田氏の4代目当主。

太田資頼(二代目当主)の次男。

上杉朝定北条氏康佐竹義重佐竹義宣に仕えた。


経歴

曾祖父は日本初の足軽戦法の実践採用者であり、足利義政に和歌の諮問を受けるほどの歌人でもあった太田道灌


3代目当主である兄・資顕との不和により、一時的に岩槻城を出奔して妻の実家である松山城に身を寄せる。1547年10月に兄が没すると、12月には岩付城の留守を突いて軍を率い、城を占拠して半ば強引に家督を相続した。

当初は兄や父に倣って扇谷上杉家当主・上杉朝定に仕えていたが、北条氏康との戦いである河越夜戦にて主君・朝定は戦死してしまう。この事への遺恨なのか、1547年に後北条氏支配下にあった松山城を攻め落とし、これを狼煙として後北条氏から離反する。だが氏康もすぐさま報復に出ていき、松山城も預けていた上田朝直が寝返ったことで奪還し返されてしまい、居城である岩槻城を包囲されてやむなく降伏。

しばらくは氏族の高貴さゆえに氏康からも丁重に扱われ、氏康の娘を息子・氏資の嫁にもらうなど厚遇を受けるものの、これに資正がやすやすと乗ることはなかった。


その後も畿内に上った織田信長と誼(よしみ)を交わしたり、上杉謙信の関東侵攻に乗じて氏康と衝突を繰り返すも、遂に親北条派であった氏資によって一族から追放されてしまう。その後は佐竹義重を頼って客将となり片野城を与えられ小田氏治を度々破る。そして武蔵国の自領と岩付城奪還に執念を燃やしていくことになる。

晩年、天下統一を目前に控えた豊臣秀吉と小田原討伐の際に謁見の機会を得て、自領奪還の機会を掴む。しかし、秀吉が放った「北条の者は思い切って殲滅してみようかと思う」と自分の戦力自慢の発言を「それは猪鹿懸かり(いのしかがかり)といって品のある武士のすることではないですな」と率直に笑い飛ばしてし、反対に秀吉からは臆病者扱いされてしまう。そして二度と謁見の機会も得ることはなくなってしまった。

宿敵・後北条氏の滅亡を見届けたその翌年に病床で死去。

生涯を戦の中で生き抜いた武将であった。


人物像

根っからの武辺者であり、為政者としての性格の強かった兄・資顕とはそりが合わず、犬猿の仲でさえあったという。その一方で曾祖父からの遺伝か、和歌に精通し歌人としての素養を持つ文化人的な側面も持ち合わせていたという。


また好きで知られ、城下に100頭以上の犬を飼っており、さらにその犬好きが高じて『日本初の軍用犬運用者』とも呼ばれる戦略を考案、実戦投入して功績を挙げている。

犬好きな戦国史ファンからは、「戦国のトップブリーダー」と呼ばれているとか、ないとか。


直江兼続からは「わが国の大小の名将中で、主君謙信と太田三楽に及ぶ者はない」評されるほどの戦達者で知られ、特にの腕前は近在の武将たちにも名手として知られるほど。

武辺者としての荒々しさと卓越した戦略化の二面性を同居させており、その武と智の絶妙なバランス感覚で生涯七十九度という合戦を生き抜いた。


一方、政治家としてはいささか振るわなかった節があり、特に上述の経歴でも一貫して反北条を貫いて周囲から孤立し、生地を追われて戦に明け暮れたその生涯を見るに、時流に反骨する性質が窺える。


余談

陰日向になりがちな武将であるが、何気にリアルチートだったりする。

なにせ、生涯七十九度の戦で一番槍二十三回・組打三十四回という記録を達成しており、個人的な戦闘能力でも明らかに常人離れした節が見受けられるからである。

一番槍とは最初に首級(敵武将の首を取ること)を挙げること。

そして組打(くみうち)とは、小太刀一本だけ携えてステゴロで相手を組み伏せて首級を挙げるという現在の柔道空手の源流となった格闘術であり、武士の武功でも特筆されるべきものとして挙げられていた。


彼の息子は3人いたが、長男・氏資は上記の通り父を追放して家督を継ぐも1567年に起こった里見義弘との戦い(三船山合戦)にて殿軍を務めたが戦死。


次男・政景は父共々兄に追放されて佐竹家に仕え梶原姓を名乗る。一時は後継者として選ばれたものの、1584年の沼尻合戦(北条軍と佐竹・宇都宮連合軍の戦い)にて北条家に寝返った為、後継者候補から外されてしまった。後に越前松平家臣となり結城秀康松平忠直親子の福井藩2代に仕えている。


三男・資武は兄の政景が沼尻合戦にて北条家に寝返った事に伴い、父から後継者として任命される。のちに兄と同じく越前松平家に仕官するが、大阪の陣では功を立てており忠直の弟であり3代目福井藩主である松平忠昌の代では7900石も加増されている。


なお彼の娘の継子、つまり義理の孫にあの甲斐姫がいる。

何かにつけて武辺に事欠かない人物である……。


各メディアの太田資正

信長の野望シリーズ

武将風雲録より初登場。初期は経歴からすると冷遇されているさえと言われてきたが、近年の作品では底上げ(特に知略面)され里見義堯らに匹敵するほどになった。シナリオによっては大名として登場したりとコーエーからは割と優遇されてる。

ただし大名としてプレイする場合は近隣に北条家と武田家が隣接してるので難易度はかなり高い方。

また天道では河越夜戦のイベントの選択肢によっては上杉朝定が死亡し太田資正が当主を

継ぐという展開もある。


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太田資正太田資正


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リアルチート

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