歴史
起源には諸説あるが、源流である琉球国時代の沖縄で発祥したとされる固有の拳法「手(ティ、『沖縄手』とも)」の時代に始まり、達人の一人であった安里安恒曰く琉球舞踊の要素からも発展して誕生したと語られている。
近年では、インド武術の一つカラリパヤットをルーツとするとも考えられており、本土の柔術などの日本武術を始め、中国拳法やシラット・古式ムエタイなどの東南アジア系の武術の影響も受けながら発展したとも言われる。
特に琉球はシャム王国(タイ王国)やマラッカ王国(現:マレーシア・シンガポール・インドネシア)との交易が盛んであったため、強い影響を受けたと思われる。
記録における最古の使い手は、16世紀の琉球の武術家・京阿波根実基(きょうあはごん じっき)とされている。
沖縄手(ティ)は大きく分けると、那覇で発祥した『那覇手』、首里で発祥した『首里手』、泊村で発祥した『泊手』の三系統がある。
その後、明治に入って沖縄の武術家たちが普及のために本土へ訪れ、体系化し修正を加えたうえで“空手”と称した。そのため、空手は沖縄手(手“ティ”)を源流にしているが、様々な差異があり、厳密には別の武術と見て良い。
本格的に普及していったのは大正時代以降だが、当時は兵士が戦場の白兵戦で使用する徒手格闘術が見直され始めていた時期であり、空手もその参考として、日本陸軍の陸軍戸山学校などで指導されていた。
特徴
拳足による打撃技が主体となっているのが特徴とされるが、これは明治時代以降に本土へ伝来し、その際に他の武道と差別化を計る目的などから打撃技に特化した形に改良されたためであり、それ以前は投げ技・関節技や武器術も併伝しており、現在でも流派によっては失われず、受け継がれ教えられている所もある。
武器術には主に棒・ヌンチャク・トンファー・釵・鎌などがあり、近世以降は薩摩から伝来した示現流剣術も教えられた。
京阿波根実基の最古の記録の表記は『空手』であるが、単に素手という意味かも知れないと議論が有り、その技は股裂きであると語り継がれている。。
本土伝来後は、長らく寸止めか軽く当てるライトコンタクトが主流だったが、極真空手を始めとした「フルコンタクト空手」と呼ばれる流派や、防具付き空手などは直接打撃制ルールを採用している。
この他にも投げ技・関節技や武器術を取り入れ、本土伝来前の姿である総合武術への回帰を目指す流派も、少数ではあるが存在する。
帯の色は入門者の白帯、四級以下は緑・黄・青・橙等、三級は茶・緑等、二級は茶・紫・灰等、一級は茶、初段以上は黒帯。
空手着と柔道着の外見は似ているが、一般に空手には掴み技が少ないため、空手着の方が薄手である場合が多い。
また、空手の中でも伝統派と呼ばれる流派は袖が長め、フルコンタクト系の流派は短めの傾向が見られ、後者では半袖やノースリーブに近いものもある。
流派によっては袴を着用している。
空手から派生した武術に躰道、格闘技にテコンドーやキックボクシングなどがある。
示現流との関係
琉球の武術家で、武士として薩摩へ渡り示現流を学んだ近代空手の始祖の一人である松村宗棍は、示現流を通じて日本武術の思想や構造を取り入れ、首里手を体系づけ確立させたとされ、その過程で武器術の一つに彼が持ち込んだ示現流の剣術も取り入れられた。
また、「キィエーイ!」と聞こえることで知られる示現流特有の裂帛の気合を込めた掛け声『猿叫』が取り入れられている。
空手と仏教
昭和4年(1929年)に、松濤館流の開祖とされる船越義珍が師範を務める慶應義塾大学唐手研究会が機関誌において、般若心経における色即是空の思想にある『空(くう)』の概念から、それまで「唐手」と呼ばれていた名称を「空手」に改める発表をしている。
「空手」の表記は、花城長茂が明治38年(1905年)より既に使用していたが、東京で改められたことによって、急速に広まっていった。
これに先立ち、唐手研究会の幹事たちは日本禅宗の一つ臨済宗の中興の祖である、白隠禅師の子孫である曉道慧訓管長のいる鎌倉の円覚寺へ招かれ、般若心経の講義を受けた後に、「空手という名称は、唐手術と呼ぶ従来の表現と少しも対立するものではなく、むしろ、それを包摂しつつ無限に展開することを意味するものである」という趣旨の講話を受けた。
船越師範も曉道慧訓師の前に参禅し、その指導の下で『唐手』を『空手』と改めたという。
また、東洋武術は基本的に仏教の主として禅などに近い要素が組み込まれているとされており(呼吸法など)、日本武道・武術もその例外ではない。
その中でも空手は、型の稽古を1人でも行えることから、その傾向が強いとされている(坐禅なども基本は1人で行えるため)。
流派
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有名な空手家
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内田真礼(某ゲームのとあるキャラが好きで、一時期空手を習っていた)