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概要編集

テコンドー(跆拳道)は独立後の韓国に普及していた空手中国拳法を元にした現代武道であり、崔泓熙(チェ・ホンヒ)によって、1955年に名付けられた。

テ(跆)は、「足で跳ぶ、蹴る、踏む」といった足技を、 コン(拳)は、「拳で突く、砕く」といった手技を意味している。


独立後の韓国では、五大館と呼ばれる道場による空手の普及が進んでいた。

1950年、朝鮮戦争が勃発すると、諸団体の統合が叫ばれる様になり、大韓空手道協会が設立され、剛柔会の曺寧柱(チョ・ニョンジュ)が初代会長に就任した。

1954年、中央大学空手部(松濤館流)出身で、陸軍内で武術指導をしていた崔泓熙は、李承晩大統領の前で、部下達に空手の演武をやらせ、大統領を喜ばせた。

しかし、大統領が「これはテッキョンだ。」と言った為、反日家の大統領の機嫌を損ねてはまずいと考えた崔泓熙は、テッキョンに跆拳の字を当て、テコンドーの名称を考案。翌1955年に自身の傘下にある道場の流派名をテコンドーとした。


崔泓熙の傘下の道場では、空手の型の他に、彼と部下が創作した蒼軒流の型が指導されていた。

韓国内の流派を青軒流に統合しようとした崔泓熙は1959年、大統領の後援を受け、大韓空手道協会と、そこから分かれた大韓唐手道協会を併合。大韓テコンドー協会を設立した。

しかし、協会内の反対に遭い、流派統合は失敗。

そして1961年、クーデターによって李承晩は失脚。政権を取った朴正煕大統領によって、崔泓熙も軍職を解かれ、会長の座も失い、親マレーシア大使に任命される。事実上の左遷である。


更に、テコンドーの名称も白紙になり、協会内では流派名を空手道に戻そうとする動きが出てきた。しかし、崔泓熙の傘下だった道場はテコンドーの名称を支持した為、折衷案としてテスドー(跆手道)という流派名になった。


親マレーシア大使になった崔泓熙は、部下と共に、テコンドーの新しい型を作ったり、教本を書いたり、周辺国にテコンドーを紹介したりした。


そして1964年、再び会長の座についた崔泓熙は、民族武芸の創造と、日本武術からの脱却を唱え、流派名をテコンドーに戻す様に、協会内に呼び掛けた。

1960年代半ばになると、反日政策も浸透していた為、崔泓熙は若い武術家達の支持を受けた。

翌1965年には、韓国最大の空手団体・武徳館を味方に付け、流派名をテコンドーに戻す事に成功した。

しかし、崔泓熙は自分と部下だけでテコンドーを作ろうとした為、協会内の武術家達との軋轢が大きくなり、翌1966年、協会を独断で動かしているとして、会長を解任された。


同年、崔泓熙は大韓テコンドー協会を牽制すべく、国際テコンドー連盟(ITF)を設立。

自身の創始したテコンドーの海外普及に乗り出した。

一方、ITFの勢力拡大に危機を感じた大韓テコンドー協会は、金雲龍(キム・ウンヨン)会長の下、自分達での型や競技ルール制定を急ぎ、1969年には自分達で海外普及に乗り出した。日本でも、この年に大韓テコンドー協会日本総本部が設立されている。


1972年、崔泓熙の亡命に伴い、ITFはカナダに本部を移転。

翌1973年、大韓テコンドー協会はITFに対抗する世界組織として、世界テコンドー連盟(WTF)を設立。金雲龍が初代総裁に就任する。

前者は武道として、後者はスポーツとして、海外に広まっていった。


流派編集

テコンドーには様々な流派があるが、特に有力なのは、国際テコンドー連盟(ITF)とワールドテコンドー(WT)(旧:世界テコンドー連盟、WTF)の二流派である。

流派によって、型や競技ルール、用語等に違いが有る。


国際テコンドー連盟(ITF)

武道としてのテコンドー。

創始者は崔泓熙。

本部は韓国→カナダ→オーストリア→現在は複数の団体に分裂。

韓国陸軍内で指導されていた空手(松濤館ベース)から派生した流派。

崔泓熙が名誉館長を務めていた青濤館(松濤館系)で開発された蹴り技が多く取り入れられている。

日本には、1980年代にカナダから伝わり、在日コリアンの援助を受けて、広まった。

国内のテコンドーの8割はITFである。

道着は空手着の様に腕を袖に通した後、前側をマジックテープで固定する。有段者は道着の側面に黒いラインが入る。

型はトゥル(枠)と呼び、天地、檀君、鳥島、元暁、栗谷、重根、退渓、花郎、忠武、廣開、圃隠、階伯、義菴、忠壮、主体、三一、庾信、崔瑩、淵蓋、乙支、文武、西山、世宗、統一の24の型が有る。

組手はマッソギと呼び、グローブとフットガード装着によるライトコンタクト。ポイント制。

顔面と胴体へのパンチ可。下半身への攻撃は禁止。

サインウェーブという重心移動による身体操作が特徴。

北朝鮮テコンドーと呼ぶ人間もいるが、間違いである。崔泓熙の存命時、ITFは北朝鮮に本部を置いた事は無い。あくまで加盟国の一つである。北朝鮮には1981年にカナダからITFが伝わっている。

崔泓熙の死後、カナダ派、ユーロ派、北朝鮮派等、複数の団体に分裂し、団体毎に道着のデザインや試合ルールに違いが有る。


ワールドテコンドー(WT)(旧:世界テコンドー連盟、WTF)

スポーツとしてのテコンドー。

韓国内の空手諸団体がテコンドーの名の下に統合したもので、特定の創始者はいない。

本部は韓国。国技院(クッキウォン)を総本山とする。

民間の空手道場で指導されていた様々な空手や中国武術から派生した流派。

空手由来の蹴り技の他に、中国武術やテッキョン由来の蹴り技も多い。

日本に伝わったのは、こちらが先。

道着はポンチョ型。

型はプムセ(品勢)と呼び、太極一章~八章、高麗、金剛、太白、平原、十進、地胎、天拳、漢水、一如の17の型の他、飛脚等の競技用の型が有る。

組手はキョルギと呼び、ヘッドギアと胴体防具着用によるフルコンタクト。ポイント制。

パンチは胴体のみ可。下半身への攻撃は禁止。

未成年者には、段位の代わりに品(プム)位1~4が与えられる。品位者は赤黒帯で、有段者の黒帯と区別される。

1988年のソウルオリンピックで公開競技になり、2000年のシドニーオリンピックで正式競技になった。

2017年、世界テコンドー連盟の略称であるWTFが英語の悪口の「What the fuck」の略字の同じ事から、マイナスイメージを避ける為に、流派名をワールドテコンドー(WT)に変更した。


その他にも、ITFから独立した河明生が創始した日本の日本テコンドー協会(JTA)、アメリカテコンドーの父と呼ばれる李俊九が創始したジュン・リー・テコンドー、アメリカに移住した韓国軍人の李幸雄が創始したアメリカテコンドー協会(ATA)、ITFから独立したパク・ジョンテが創始したカナダのグローバルテコンドー連盟(GTF)等、様々な流派が存在する。


蹴り技編集

韓国に伝わった時の空手は、前蹴り、横蹴り、後ろ蹴り、二段蹴りぐらいしかなく、蹴りの稽古をしない道場もあった。

しかし、韓国、特に五大館が設立されたソウルとその周辺では、元々、喧嘩で蹴りを多用する文化が有った。船越義珍門下の李元國(イ・ウォングク)の開いた青濤館では、他団体に先駆け、蹴り技の研究が始まり、後に青濤館の名誉館長に就任した崔泓熙の開いたITFに採用された。

一方、その他の団体も、中国武術やテッキョンを研究し、様々な蹴りを開発。後のWTの技法の元となった。


ここに有名な蹴り技を一部紹介する。

パンデ・トルリョチャギ(ITF)、ティフィリギ(WT)...後ろ回し蹴り。パンデ・トルリョチャギは青濤館の嚴雲奎(オム・ウンギュ)が開発したとも、その分館である吾道館のパク・ジョンテが開発したとも云われる。ティフィリギは彰武館が中国武術の技法を元に開発した技である。

ネリチャギ(正確にはネリョチャギ)...ネリョ(降ろす)+チャギ(蹴り)。別名・チギ。いわゆるかかと落とし。1972年の大会でハ・ソククァンという選手が初めて使った技。テッキョンのバルタギ(相手の頬を狙う内転蹴り)をアレンジした技。WTでは足の裏を相手の顔に落とす場合もある。

ナレチャギ...別名・ヤンバルチャギ。ダブルキック。ラピッドキック。ナレ(翼)+蹴り(チャギ)。WTを代表する蹴り技の一つ。両足で走るように蹴る連続回し蹴り。テッキョンのナンサン(跳び上がり、相手の顔以上の高さを蹴る技)をアレンジした技。


テコンドーを使用するキャラクター編集


テコンドーを題材にした作品編集


関連タグ編集

格闘技 スポーツ 韓国 ファイトフィーバー 空手 中国武術 テッキョン


関連動画編集

テコンドーの命名者・崔泓熙

ITFの試合

WTの試合

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