空(仏教)
くう
梵(サンスクリット語): śūnyatā , シューニャター
巴(パーリ語): suññatā, スンニャター
仏教における空とは、「固定的実体」もしくは「我」のないこと(無我)、または実体性を欠いていることを意味するとされ、「固定観念に執らわれない」「執らわれない心」や仏教における悟り(正覚)の境地を示すとも言われる。
仏教ではすべての物事は他との関係性、縁起によって生起するものであるとし、故に一切の物は他に依存して存立しており、自身で独立して存在することを否定する。
全ては縁起によって成り立つので永遠不変な固定的実体はなく(無常・無我/無自性)、「空」なのであるとする。
要するに、一切物の成り立ちが因果関係と関連性によるとする縁起の思想から固定的普遍的本質(イデア)を否定する、ということである。
分かりやすく言い換えると、空とは「あるものはなく、ないものはある」という状態を考えている。ある意味で量子論的状態にも近い。
全ての物が流動的で本質的実体がないことを「一切皆空」ともいい、そうした見方を「空観」という。
また、全ては無だ、と思って無意味に執着することを「但空(観)」といって戒められている。
全部空だからと言ってニヒリズムに陥ってもダメだよ、ということを先回りして指摘している。仏教って素敵だね!
「空」の思想が強調されるようになったのは釈迦の入滅後数百年が経過し、大乗仏教が生まれて、般若経という仏典が集成されるようになってから。
原始仏教ではそこまで強調されていなかったという経緯に注意しておく必要がある。
空思想は大乗仏教のナーガルージュナが更に思想を付け加えて進歩させている。
日本の武術の1つ空手の名称にある「空」の字は、この「仏教の“空”」からきている。
昭和4年(1929年)に、松濤館流の開祖とされる船越義珍が師範を務める慶應義塾大学唐手研究会が機関誌において、般若心経における色即是空の思想にある『空(くう)』の概念から、それまで「唐手」と呼ばれていた名称を「空手」に改める発表をだしている。
空手の表記は、花城長茂が明治38年(1905年)よりすでに使用していたが、東京で空手表記に改められたことによって急速に空手表記が広まっていった。
これに先立ち、唐手研究会の幹事たちは日本禅宗の一つ臨済宗の中興の祖である、白隠禅師の子孫である曉道慧訓管長のいる鎌倉の円覚寺へ招かれ、般若心経の講義を受けた後に、「空手という名称は、唐手術と呼ぶ従来の表現と少しも対立するものではなく、むしろ、それを包摂しつつ無限に展開することを意味するものである」という趣旨の講話を受けた。
船越師範も曉道慧訓師の前に参禅し、その指導の下で『唐手』を『空手』と改めたという。
また、東洋武術は基本的に、仏教の主に禅などに近い要素が組み込まれているとされており(呼吸法など)、日本武道・武術もその例外ではない。
その中でも空手は、型の稽古を1人でも行えることから、その傾向が強いとされている(坐禅なども基本は1人で行えるため)。