ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

リアルチート

りあるちーと

リアルチートとは、普通じゃありえないコトを平然とやってのけてしまう、実在する存在のコトである。
目次 [非表示]

注意

本項目には自称伝説などの事実が確認できない情報を一部含んでいることに注意。(武勇伝というのは古今東西、そういう性格のものではあるが。)


概要

常人にはありえない、信じられない程の能力、偉業を列記していく。ただし本来これらの人々に対して「チート」などと呼ぶのは失礼極まりない行為である。彼らは才能と共に弛まぬ努力があったからこそこれだけの業績を上げたのであることは言うまでもない。


なおチート(Cheat)は元々の英語では不正という意味であり、そこに称賛の意味は全くない。失礼に当たる。"Real Cheat"はいわゆる和製英語で海外では悪口としかとられないが、似たニュアンスで称賛する場合は"Cheatish"となる。


日本の人物に関しては『リアルチート(日本)』を参照。


古代

当時としては空前絶後の大帝国:アケメネス朝ペルシアを建国する。バビロン捕囚の解放の際、当時はまだ諸民族の一つに過ぎなかったユダヤ人を救ったことから、後世には理想の帝王として讃えられることになった。メソポタミヤを統一し、弾圧や圧政を廃して寛容な支配を行ったという自身の功績を記した「キュロスの円筒印章(キュロス・シリンダー)」は、人類最初の人権宣言とも呼ばれる。


アケメネス朝ペルシア三代目の王。キュロスが建てたペルシアを整備し、盤石な国家へと仕上げ最盛期を築き上げた。西はギリシャ領(の一部)、南はエジプト、東はインダス川流域を収め歴史上初めてヨーロッパとアジアを繋げた。しかし彼自身が王家の血筋であるかは疑問があり、王座を簒奪した疑惑がある。だが彼が正当な王ではなかったとしても、王としてのダレイオスの功績は王座簒奪疑惑を補って余りある。異文化に対して寛容で理解がある人物でもあった。


上記のアケメネス朝ペルシアを一代で滅ぼしインドまで進撃した怪物。


アレクサンドロス大王の父でマケドニア王。息子のやったことが凄すぎるせいで知名度は劣るが、そもそもド田舎だったマケドニアで様々な改革を行い、一代でギリシア世界最強国家にまで鍛えあげたのは他ならぬ彼である。


カルタゴの将軍。当時、地中海最強とうたわれたローマ共和国に軍を率いて攻め込み、10年間に渡って勝利し続けたという天才戦術家。というか、あまりの強さにローマ軍はハンニバルを見ただけで逃げるようになったとか。その見事な戦術は現在でも士官学校の教材として使われている。


抜山蓋世とその強さを謳われた秦末漢初の群雄の一人。その絶大な武勇で(弱体化していたとはいえ)大帝国を殲滅せしめた秦の破壊者である。一時は劉邦をも圧倒していたが、人心の獲得と施政に失敗して身を滅ぼした悲運の英雄である。

特筆すべきはその戦歴で、10万の軍勢を率いて20万以上の秦軍を倒した鉅鹿の戦いや、寝込みを襲ったようなものだとはいえ、3万の軍勢で56万の漢軍を殲滅した彭城の戦いなど、正しく戦神の申し子とも呼ぶべき驍将であった。

しかし対秦の反乱では降伏して来た秦軍の捕虜20万人を生き埋めにした上、劉邦の助命を反故にして皇帝一族を皆殺しにし、首都咸陽で掠奪強姦を働いた上街を焼け野原に変えた。杜撰な論功行賞で新たな戦争の火種を蒔き、傀儡とはいえ主君であった義帝をご都合主義で殺害。それまで従えてた英布が離れた時彼の家族を殺害し(戦乱の中国史でも相手の家族を殺すのはタブーだった)、垓下の戦いにおいて10万の部下を見捨て僅かな側近のみで逃亡するなど、王や政治家としてはてんでダメだった。


上記の項羽を倒して400年続く漢王朝の初代皇帝に就任した人物。貴族出身の項羽とは違い農民出身で、若い頃は碌に働かない怠け者で戦闘力も頭の良さも皆無であった。しかし人心収攬と人材の活用に掛けては天才的なセンスの持ち主で、前述の無気力も王という天職に就いていなかったせいかも知れない。腹心の蕭何や張良の意見を取り入れて、秦への反乱で首都咸陽を制圧した後も残虐行為や婦女子への乱暴をせず、秦の皇帝一族の命も奪わなかった。出自も能力も多彩な人材を束ねる親分肌であり、宿敵項羽を討ち取った後は手厚く葬る仁義を見せた。

皇帝に即位する前も後も、戦いに弱くとも戦いで陣頭指揮を取り、晩年も故郷を訪れ子供達と触れ合う民衆への慰撫を忘れず、死の間際も自分の死後の人材登用をしっかりしてから世を去る衰え知らずの慧眼を発揮。項羽と比べて遥かに人望があり、王の器量に相応しい人物であった。


国士無双の二つ名で知られる、上記の劉邦配下の大将軍として当時最強を誇った項羽を打ち倒した人物。当初は項羽の下に従える一兵卒であったが、自分の進言を聞いてくれない事に腹を立て脱走。その後劉邦の補給担当の蕭何の推薦で一兵卒からいきなり大将軍へと異例の大出世を遂げる。劉邦が項羽と対峙してる間それ以外の勢力を全て倒し、垓下の戦いで項羽をも倒し、その年はスキピオがザマの戦いでハンニバルを倒したのと同じ紀元前202年、彼の存在が無ければ中国は統一されず再び群雄割拠になっていたであろう歴史的影響力、排水の陣や国士無双といった個人的エピソードの多さ等々中華史上最高の名将と名高い。


古代ローマ共和国独裁官。軍人としても政治家としても飛びぬけた素質を持っており、ローマが共和制から帝政へと移行する道筋をつけた。要はローマの伝統をぶっ壊して自分が好き勝手できるよう作り変えてしまった。あまり美形ではなかったにもかかわらずプレイボーイとしての評判は知れ渡っており、元老院議員全員の妻と寝たという逸話もある。さらに文才も高く、「賽は投げられた」や「来た見た勝った」の名言で知られる。自身のガリアでの戦いをまとめた『ガリア戦記』はベストセラーになり、2000年後の現在でもラテン語の教科書として使われている。後に、「カエサル」という名前はローマ元首の称号になり、一国の最高権力者「皇帝(Kaiser)」の語源ともなる。ちなみに借金の莫大さも空前絶後。


「中国史上最高の名君」「聖王」の呼び声高き後漢の初代皇帝。彼の前漢の初代皇帝・劉邦の末裔であり、当時の王朝の皇帝であった王莽の、現実離れした悪政に苦しむ民を見兼ね、兄劉縯と共に挙兵。自らも兄を助けて先陣を切って戦い、新王朝の打倒に成功する。嘗ての祖先劉邦が築いた漢王朝を復興させるという唯一無二の事績を残した。豪放な兄とは対照的に大人しく物静かだったが、慎重にして思慮深く聡明な青年であった。とはいえ最初から皇帝になるつもりは無く、「地元役人のそこそこ良い職位に就いて、出来ればお嫁さんは近所のかわい子ちゃんが良いなー、なんて(笑)」と冗談めかすほど、慎ましやかな夢を持つ謙虚な性格だった。しかし反乱を起こしてからの凄まじい雄飛と仁愛ある気質が人気を呼び、周囲の後押しを受けて皇帝に即位。その近所の美少女こと陰麗華を本当に妻(=皇后)に迎えることになった。

戦後も驕る事なく政務に励み、国民や家臣を慈しむ仁政を敷いた。皇帝になった後も割とフランクな性格の持ち主でお忍びの外出に呆れた部下が彼を締め出した結果野宿する、しょうもない駄洒落を連発して周りを苦笑させる等の微笑ましい逸話が残る。その後も優しく美しい皇后との間に生まれた、これまた優秀な息子の二代皇帝・明帝に恵まれ、幸せに天寿を全うするというリアルなろう系主人公な生涯を送った。


三国時代のの基礎を作った武将・政治家・詩人・学者。カリスマ性に富み、多くの群雄を打ち破った名将であるとともに、組織運営を巧みに行う実務家としても傑出していた。文人・学者としても軍学から漢詩まで当時の学問・文芸のあらゆる分野で名を残したオールラウンド型の天才であった(当時行き過ぎた加筆によって訳が解らない状態と化していた兵書『孫子』を解りやすく再編纂したのは彼である)。若い頃は後漢に仕え、魏王となり王朝成立後、武帝と諡号される。

後世には『三国志演義』の影響で乱世の奸雄のイメージが強かったが、近代に至って人望に篤く才能ある人材を登用した実像が見直されるようになり、現在では中国史上有数の政治家・文人として高く評価されている。


三国時代の蜀の皇帝。圧倒的な求心力で人心を集め、時に非情な行動をしても批判の声があがらないという優れた人心の持ち主。戦争にも強く、何よりその魔性とも言えるカリスマ性は多くの群雄を翻弄させ、ついに皇帝の座を掴んだ。


中世・近世

中世イングランド国王。無政府時代で絶え間なく続いた長い内戦で疲弊したイングランドを立て直し、フランスに多数の領地を獲得してブリテン島からピレネー山脈までに至る広大な「アンジュー帝国」を築き上げる。これほど広大な国家はフランク王国以来とも言われる。内政面でも荒廃したイングランドを復興させただけでなく裁判に近代的な陪審制を採用するなどして政治の改革も行い、現代イギリスの諸法制度の基礎は彼によって築かれたとさえも言われる。しかし晩年は教皇との対立と息子達の反乱に苦しみ、そして溺愛していた末っ子にまで裏切られた事にショックを受けて死去した。


没落した少部族から領土面積約3300万km²・地球上の陸地の約25%を支配し当時の人口は1億人を超えていた史上最大国家モンゴル帝国を1代で築き上げた。1ケタまで兵が減っても繰り返し復活・再編をしてきた不死鳥でもある。


明王朝の初代皇帝。元王朝末期、貧しい農民の家に生まれ、飢饉によって家族全員を失い乞食僧にまで転落するが、元末の紅巾の乱で頭角を表し、悪政を敷く元を倒し漢民族王朝「明」を建国するという豊臣秀吉も真っ青になる絵に描いたような成り上がり人生を送った。

戦後は元の悪政で疲弊した国を復興させ清代まで続く皇帝独裁制の仕組みを築くが晩年は猜疑心に囚われ、建国の功臣を次々と処刑する大粛清おじさんとなってしまった。


ベトナムの将軍。三度に渡ってモンゴル軍の侵略を跳ね返した。特に三度目の侵攻を迎え撃った時、モンゴル軍の軍船を焼き払ったおかげでモンゴルの三度目の日本への侵攻が中止された。


中世フランス国王にしてアンジュー帝国ぶっ潰すマン。イングランドが所有していた領土を奪回して北部諸侯を抑え、イングランドと神聖ローマ帝国に南北から挟み撃ちにされてもブーヴィーヌの戦いで返り討ちにして両国に対する優位を確立し、アルビジョワ十字軍でフランス南部に王権を及ぼし、更に内政面でも都市の整備やパリ大学の設立を行うなどして民衆の支持を集め、フランス国民としての統一意識を高めた。その数々の功績から、初代ローマ皇帝アウグストゥスにちなんで「尊厳王(Auguste)」と称された。


東ローマ帝国の将軍。ゴート戦争において東ゴート王国の大軍相手に寡兵で戦いながらも、そのほぼ全ての戦いで勝利を収め、かつての帝国の首都ローマを東ゴート王国より奪還した名将である。彼の活躍は、東帝国嫌いの歴史家エドワード・ギボンをして「大スキピオの再来」と言わしめた。


蹄鉄を飴のように曲げたり伸ばしたりできる驚異的な怪力の持ち主で強健王の異名がある。また伝説的な精力絶倫ぶりで絶倫王とも呼ばれた。本人も実子の数が多すぎて何人いるか知らなかったが、365〜382人くらいの子持ちだったようだ。

革命期フランスの軍人。政治家。

彼が軍人となったフランスはフランス革命の波及を恐れた欧州諸国による対仏大同盟の侵略を受け、崩壊寸前の危機にあった。ナポレオンはその軍事的才能により頭角を現し、たびたび諸国の軍勢を打ち破りついに大同盟の軍勢を国外に敗走させて救国の英雄となった。

また、末端とは言え貴族階級の出だった事から、革命軍の中では比較的地方貴族や聖職者に対して寛容であった。ライバルのオッシュ将軍の宥和策を発展させる形でフランス西部のヴァンデやブルターニュで起こっていた土着中小貴族と農民の連合軍の反乱を慰撫して内戦を終結させ、カトリックとも「フランスの法律を尊重すると宣誓した聖職者の中からローマ法王が司教等を任命する」と歩み寄りを見せて宗教問題を解決に導いた。また、内戦で荒廃した地域の復興や生産・流通網の再建にも辣腕を振るい、封建的身分特権は失ったものの家屋敷とその周囲で直営可能な農地を返還されて富農として再出発した地方貴族や内戦で被害を受けていた農民達の支持も獲得して行った。

こうして彼はナポレオン1世として、フランス第一帝政の皇帝になる。これによって軍事独裁政権でありながら革命の精神による共和制でもあるという政体を打ち立ててフランスの混乱を収拾する。さらには軍事的勝利を重ね、革命の精神を諸国に輸出することでイギリスを除くヨーロッパの大半を勢力下に置いた。一方で一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたといわれている。

フランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、自身が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって再び結成させた第六次対仏大同盟にライプツィヒの戦いで敗れ、彼自身の帝国が滅亡した挙げ句エルバ島に流罪という皮肉にも飼い犬に手をかまれる結果に終わった。

後に諸国の混乱に乗じてエルバ島から脱出し、いったんフランス帝国を復興させるも、最後はワーテルローの戦いに敗れた後英領セントヘレナ島に流罪・幽閉され、数年後に病死。今際には最愛の妻ジョゼフィーヌの名とフランスの国名を叫んで没したという。死因は公式には胃癌とされているが、立場が立場だけに暗殺説が長く流布された(死後19年経って発見された遺体がほとんど腐敗していなかった事からヒ素中毒と言う説もある)。その後セントヘレナに墓が建てられた。

しかし、生前に用いて広めた法・政治・軍事等の制度は、その後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播していったこと以上の影響を世界に与えたと見ることもできる。

死後、1840年に遺体はフランスに返還され、現在はパリにあるオテル・ド・サンヴァリッド(廃兵院)地下の巨大な棺に眠る。



「不敗のダヴー」という異名を持つ、ナポレオン・ボナパルトに仕えた将軍。2.5倍の戦力差を覆したアウエルシュタットの戦いを始め、彼の生涯に敗北の二文字は無く、厳格な統率と規律をもって軍を巧みに動かし、俗に地上最強で知られるフランス帝国軍「大陸軍(グラン・ダルメ)」の勝利に貢献してきた。だがあまりにも厳しい性格から部下や同僚から大いに嫌われ、友人が少なかったという。


18世紀のロシア帝国の大元帥。ダヴーと同じく一度も負け知らずの軍人で、ナポレオンがどうしても勝てなかった敵将の一人。しかしとてつもない変人で、氷の張った湖に眠気覚ましと称して頭から突っ込んだり、朝早くに鶏の鳴き真似をして兵士たちを起こして回ったり、高齢にもかかわらず酒をガバガバ呑んで、奇声を上げたり、お医者さんごっこをしたりとやりたい放題の人であった。その奇行ぶりに加え歯に衣着せぬ物言いのせいで、何度も左遷や追放の憂き目に遭っている。そんな彼だが幼少期は病弱で、どうしても軍人になりたかったため凄まじい猛訓練で体を鍛えたという。多分それが性格に影響したのではなかろうか。

とある絵画で、スヴォーロフ率いるロシア軍がアルプスを超える様子がどう見ても楽しそうで、「ヒャッハー!」と歓声をあげながらスキーをするかの如く急斜面を下って行く様子が描かれている。おそロシア…。一方、ナポレオンはロバでのそのそと登って行ったという。


ロシア帝国初代皇帝。身長2mを超す巨人で、しかも常に斧やハンマーを振るっていたためにとんでもない怪力だった。その握力は「銀製の皿を素手でくるくる巻いて管にできる」ほど強かったという。また彼はとにかく手先が器用で、様々な物を自ら手作りしていた。

勿論政治・外交面でも活躍しており、大北方戦争での勝利や数多くの近代化政策によりそれまでの「東欧の辺境の国ロシア」を「列強国ロシア」にまで引き上げた実績を持つ。

とにかく技術を身につけることが好きで、大工仕事から花火作り、外科・歯科手術などまで習得しており、趣味は家臣の虫歯を抜くことだった。

学者

万有引力で有名な自然哲学者ニュートンだが、ただそれだけに留まらずニュートンがおおむね完成させたニュートン力学はアインシュタイン登場以前には「物理学を終わらせた」と言われていた。つまりニュートン力学で物理学はほぼ完成しており、あとは細かな修正が待つのみだと思われていたのである。これは19世紀のマックスウェルらによる電磁気学の発展により揺るがされ(電磁気の挙動について古典力学で説明できない部分が見つかった)、20世紀に至ってアインシュタインの相対論・量子論の登場によりついに覆されたが、現在でも近似としてはニュートン力学は有効である。


18世紀の数学者。

8桁同士の掛け算は2秒で十分」と言う生きるコンピューター

途中で視力を完全に失うも、むしろ失う前より結果を出すようになった。死を迎える当日になるまで、孫の面倒を見ながら研究に没頭していた。


ドイツを代表する文豪であり、政治家。詩人であり、劇作家であり、小説家である。哲学者でもあり、自然科学者。さらにはヴァイマル公国の宰相まで務め、のちには貴族にも列せられている。


ハンガリーの数学者。あまりにもの頭の良さ(特に計算能力と記憶力の高さ)に当時は「悪魔の頭脳」「火星人」などと評価されていた。当時のコンピューターよりも速く暗算したとか、IQ(知能指数)は史上最高の300に達していたといった数々の伝説で知られる(実際には知能指数は170以上の極端な高スコアについてはあまり意味がないとされる)。


スイスの特許庁という当時の物理学界の最前線から遠く離れたところにいながら独自に研究を続け、1905年に当時の常識をひっくり返す特殊相対性理論・光量子論・ブラウン運動の理論を立て続けに発表する。この三つ全てノーベル賞級であり、この1905年は「奇跡の年」と呼ばれて物理学界の記念年になっている。その後も研究を続け一般相対性理論を初めとして現代物理学の基礎となる重要な研究理論を多数発表。ノーベル賞は一人一回なので光量子論だけがノーベル賞を獲得しているが、そうでなければアインシュタイン一人で10回くらいノーベル賞受賞しててもおかしくない。


18世紀イギリスの外科医。兄のウィリアムはイギリス初の解剖塾を開いた人物で、ジョンはそこで使うための死体を犯罪まがいの方法で調達していた。後に自分も外科医となったが、ありとあらゆる生物や珍しい特徴を持った死体の解剖に凝り始め、葬儀屋を買収するなどして死体を集め続けた。

その一方でそれまで一般的であった、意味もなく瀉血したり水銀を飲ませたりといった非科学的な治療法を否定し、医学の近代化に大きく貢献した。さらに「不妊で悩む夫婦の相談を受け、温めた注射器で精液を注入するという方法で人類史上初の人工授精を成功させる」「静電気を蓄積するライデン瓶を使い、電気ショックで心肺蘇生を行う」「あらゆる動物を解剖しているうちに、ダーウィンより先に生物の進化に気づく」など、未来人かと疑うレベルの偉業も成し遂げている。また患者に高額な治療費をふっかけ、金持ちからは遠慮なく金を取る一方、貧乏人が必死で金を工面してくると「よく頑張ったね」とだけ言って無償で治療したという。どこかに似たような外科医がいたような……

また彼の弟子には天然痘から人類を救ったエドワード・ジェンナーがいた。

実業家

食品会社の徒弟から身を起こし、クリミア戦争で武器の密輸に関わりいわゆる死の商人として巨万の富を得た。事業をたたんでから、それまで「ホメロスの創作」と言われていたトロイアの発掘を志して大学で学び、トロイアの遺跡を発見。元々はズブの素人でありながら古代史を塗り替える業績をあげ、古代ギリシアの考古学の先鞭をつけた。シュリーマンによると、幼少のころにホメーロスの『イーリアス』に感動したのがトロイアに関心を持つきっかけだったという。仕事の合間の勉強で18ヶ国語を話せた(自称)ことでも有名。

イスラム

20いくつの頃、一人でウマイヤ朝を再興する。

幼い頃モンゴル軍に両親を殺されて奴隷として売られるが、その後マムルーク朝(エジプト)で将軍となる。さらにアイン・ジャールートの戦いでアラブ世界からモンゴル軍を撃退して復讐を果たし、スルタンにまでのし上がった。ついでに十字軍も撃退している英雄中の英雄。眼帯でバリ強いとか厨二病が興奮間違いなしの偉人。

奴隷の身から這い上がって北インドを支配する王朝を造り上げる。


WW1・WW2の軍人

第一次世界大戦エースパイロット。元祖赤い悪魔(自機を赤く塗っていたことが由来)。WW1中最高の撃墜数を記録するだけでなく、容姿端麗で責任感が強く統率力に溢れ、態度も紳士的(もちろん変態がつく方ではない)であり女性からの人気も高い。一方で戦闘では熱くなりすぎて周りが見えなくなるという軍用機乗りとしては致命的な欠点があり、そのため幾度となく窮地に陥り、最終的には英軍機を深追いしすぎてオーストラリア軍の対空砲火に撃墜され戦死した。


すでに蒸気船が主力であった第一次世界大戦にあたり、帆船ゼーアードラー号を駆って通商破壊戦を行い、約30,000トンの船舶を拿捕、撃沈させたドイツ帝国の軍人。様々な計略をもってイギリス軍の封鎖を破り追撃を振り切って大海原を暴れ回った、自艦の乗組員のみならず、敵兵にもほとんど死傷者を出さなかったことから騎士道精神の持ち主と讃えられた。


あのイタリアが産んだ最強の戦艦キラー。当時オーストリア・ハンガリーに苦しめられていたイタリア海軍にあって、わずか排水量20トンの魚雷艇で警備厳重なオーストリアの軍港に侵入し、海防戦艦を単独で撃沈・無事帰還。さらにその後、攻めてきたオーストリア・ハンガリー軍の迎撃作戦に参加し、そこで同じく魚雷艇にて弩級戦艦「セント・イシュトバーン」の弾幕を全て回避し、至近距離で魚雷を発射。見事に排水量2万トンの戦艦を撃沈したのだった。この功績が認められ、当時大尉だった彼は最終的に少将にまで昇進した。


第一次・第二次大戦を筆頭とした様々な大戦に従軍した英軍兵士。ブリティッシュ舩坂弘といえばだいたい説明できる。


言わずと知れた空の魔王

第二次世界大戦におけるリアルチートの代表。撃破スコア:出撃回数2380回のうち戦車500↑、車両800↑、火砲(100㍉口径以上) 150門、装甲列車4、戦艦マラート(ルーデルが出撃するために記録を捏造したので、実際はこれよりも多いとされる)。


史上最多の352機撃墜を達成した黒い悪魔。坂井三郎と並んで、僚機を一度も失わなかったことも有名。


撃墜数300機超えしたエース・パイロット。

ハルトマンとは、戦友でもあり親友でもあった。300機以上撃墜したのは、後にも先にもこの二人だけである。


アフリカの星と呼ばれたエース・パイロット。

西側連合軍機の撃墜数ではドイツ空軍第一位。一ケ月で54機、一日で17機、10分で8機撃墜するなど驚異的な記録を持つ。その戦績と容姿端麗さから、ファンレターが殺到した。

その他のドイツ空軍の戦闘機部隊エースたちは、撃墜数100機越えでやっと中堅扱いとなる。


ドイツ国防陸軍元帥。第二次世界大戦で活躍した将帥たちの中でもとりわけ有能な将帥として知られる。特に評価の高い戦術はバックハンドブローに代表されるように全盛期のナポレオンを凌ぐぐらいの作戦レベルの機動を行い相手の戦力が低下した所を狙って戦力を集中してたたき付けるという戦術の教科書の理想どおり、そして戦術の教科書に名前を残す程の名将。


戦車138両、対戦車砲132門の撃破数を誇る武装親衛隊ティーガーエース。

特に単騎で英軍の戦車部隊に壊滅的打撃を与えたヴィレル・ボカージュの戦いは有名。


東部戦線で活躍した国防軍のティーガーエース。敵戦車撃破数は150両以上。

歩兵と戦車の連携を重視し、事前に地形の偵察を欠かさず行うなど、戦術面でも優れた人物である。


銃弾飛び交う近代の戦場において何故か剣(と弓)を装備しての無双プレイを敢行するというもう英国面とかそういう次元の話じゃないような男。

そんな無茶を続けながら数多の戦いで勝利しており、最後の方こそ負けたもののそれでもしっかり生き残っちゃう豪運の持ち主。


ムーミン谷の生んだ白い死神

史上最強のスナイパーである妖精兵士。


フィンランドのもう一人の死神。実在したか怪しいと言われる。


上記の「白い死神」ことシモ・ヘイヘの上官。

コッラー川の戦いではヘイヘ含むフィンランド陸軍の部隊を率い、わずか32名の狙撃兵で4000人のソ連兵を撃退。他にもピクニック気分で戦車5両を破壊して対戦車砲2門を鹵獲してきたり、猛砲撃の中でも持参品のロッキングチェアで完全にくつろいでいたり、戦争前はフランス外人部隊でモロッコ植民地戦争を戦い「モロッコの恐怖」と恐れられたり……ついでに言うと、下記のエイノは弟である。


フィンランド空軍の無傷の撃墜王

437回の出撃で唯一被弾したのが、機関弾がかすって塗装が剥げた一回だけという恐るべき操縦の腕と運の良さを持っている。上記のアールネは兄である(どうなってんだこの兄弟)。


上記とは逆に運の無さがチート級。

乗機の故障が度々あり、貴重な戦闘機を複数壊した事から爆撃機隊に飛ばされた事もある。

普通なら死んでいてもおかしくない事故で生き残っているあたり、とても運がいいといえるのかもしれないが。


独ソ戦初期から志願し参戦、各地を転戦し309名のドイツ兵を狙撃したソ連の英雄(女性)

後方勤務を蹴ってまで狙撃手として志願。初陣で2名狙撃を皮切りに、オデッサ攻防戦の二ヶ月半で187名を狙撃。その後も戦果を重ね、英雄の死を恐れた上層部から後方勤務を命じられるまで最前線で戦い続けた史上最高の女性狙撃手。


第二次世界大戦中のソ連軍兵士。フル装備のドイツ軍部隊53人を斧一本と3個の手榴弾のみを使ってたった一人で全員撃退したバケモノ。

WW2後の軍人

アメリカ合衆国の狙撃手。狙撃手としては上記のシモ・ヘイヘと双璧を成す名手。愛用の迷彩用帽子に白い羽を留めていたことから『ホワイト・フェザー(White Feather)』の異名で知られる。狙撃訓練課題のコースで250ポイント中248ポイントという、とんでもない記録を叩き出した。尚この記録は現在においても破られていない。一撃で必ず敵をしとめる彼の正確無比な射撃能力から、現在もアメリカ海兵隊の狙撃手の代名詞として『One shot, One kill一撃必殺)』が残っている。


韓国の軍人。朝鮮戦争時代の韓国陸軍将軍だが、当時の韓国軍がまだ設立から日が浅かったこと、以前は満州国軍に在籍していた軍出身者だったことから、20代で将官にされてしまった(正確には29歳で准将に昇格)。それはまだいいのだが、朝鮮戦争で第1師団師団長を務めていた際は、マラリアを罹患しながら敗残兵を率いて師団長自ら陣頭突撃し、突撃に成功(ちなみに当時の韓国軍は朝鮮半島南端の釜山に追い込まれており、しかもご存知の通り良い所なしでもあったため、この突撃が失敗すれば米軍に見捨てられ、釜山にも北朝鮮軍が雪崩れ込んでいた。つまり韓国の存亡を賭けた突撃だったのである)。他にも満州国軍時代の経験を活かし、韓国国内で活動する赤色ゲリラの鎮圧作戦を悉く成功させたり、開戦初期には粘り強い遅滞戦闘を見せ、仁川上陸作戦後の反撃では地の利を活かし、非機械化部隊を率いて機械化された米軍部隊よりも先に平壌入城を果たしている。

このため「あの李舜臣なんかよりよっぽど軍神」と評価する声が(特に日本国内から)上がる一方、満州国軍にいたことから親日的人物と見做され、特に文政権時代には韓国国内で批判の的にされてたりする。朝鮮戦争休戦後は韓国陸軍初の大将となり、退役後は外交官、交通部長官などを歴任。よど号ハイジャック事件にも立ち会った。2009年には韓国軍史上初の名誉元帥に内定した。

韓国より日本やアメリカでの評価の方が高いとまで言われており、何ならニコニコ大百科に記事が作られている程



軍人兼政治家

トルコ共和国の建国の父であり、元帥、初代大統領。欧州諸国による侵攻を受けたオスマン帝国の危機を救うとともに同国のスルタン支配に引導を渡し、独裁者として国民国家トルコを築いた。端的に言うと「明治維新を一人でやった男」。


フィンランドの軍人・政治家。フィンランド独立の父でありフィンランドをソ連の侵略から守った英雄。

ソ連の脅威に対抗するべくフィンランドの軍需産業を支援し、フィンランド軍の近代化に成功した。冬戦争ではフィンランド軍25万に対し、ソ連軍は100万という圧倒的な戦力差の前に巧みな戦術を用い、様々な要因が絡み合ったことでソ連に大打撃を与えることに成功した。

フィンランドでは現在も民族的英雄として高い人気を誇り、2004年にフィンランドで放送された番組「最も偉大なフィンランド人」では、投票数一位を獲得した。


チートのアナグラムのような名前のユーゴスラビアの指導者。WW2真っ最中に対ナチスパルチザンとして名を上げ、枢軸陣営を国土から叩き出し共産主義国家を設立。王制時代から根深い民族対立でまとまったことが無かったユーゴスラビアをその英雄然としたカリスマと政治的バランス感覚で切り従えた東欧第3世界の巨魁。彼のアクロバット飛行的な国家運営を真似できる後継者が存在せず、死後にユーゴが血みどろの紛争でバラバラに崩壊した事で「あんなすぐに殺し合いを始める火薬庫をまとめていた凄い奴が昔にいた」と現在になって評価されているのは何とも皮肉な話。


チェ・ゲバラ、実弟のラウルら18人の仲間と共にキューバ革命に成功。なお最初は仲間は82人いたのだがバチスタ政権の襲撃でここまで数が減ってしまった。この時カストロは「18人も生き残った。これでやつら(バチスタ政権)の命運は尽きたも同然だ」と叫んだ。チェはカストロが悲嘆の余り気が狂ったのではないかと思ったという。しかしその後のカストロの軍は連戦連勝で仲間は雪だるま式に増え、ついにバチスタ政権を追い落とす。政権掌握後もCIAなどに命を狙われること数知れず、2006年に閣僚評議会議長の権限を暫定的にラウルに移譲するまでに暗殺を638回計画されたといわれ、命を狙われた回数が最も多い人物としてギネスブックへに掲載された。


ベトナムの軍人、政治家。元々は高校の歴史教師で正式な軍事教育は一度も受けていなかったが、軍事マニアが高じて、ひょんなことからベトナム軍総指令官になってしまった、珍しい経歴の持ち主である。

インドシナ共産党の活動家として活躍し、日本の敗戦後には政権の中枢に入り込み、以降政治家として活躍。

軍の総司令官としては、インドシナ戦争でフランスに、ベトナム戦争ではアメリカに、中越戦争では中国にと、ベトナムが数々の大国を相手に勝利し続けた最大の立役者であった。フランスからは「赤いナポレオン」と恐れられた。


 シンガポールの初代首相にして建国の父。マレーシアから追放により独立せざるを得なくなったシンガポールを、一代にしてアジア一の経済大国にした。


マレーシアの政治家で、22年の長きにわたり同国首相を務め、日本をモデルにした「ルックイースト政策」でマレーシアの国力を飛躍的に増大させた人物。多数派のマレー人と経済の実権を握っていた華人の根強い民族対立でまとまることのなかったマレーシアを、硬軟とりまぜた施策でまとめあげ、強力なリーダーシップでマレーシアを工業国に脱皮させた。アジア通貨危機に当たっては他国がIMFに従って緊縮財政と高金利政策を採用する中で、逆に大規模な財政出動と金利引き下げを採用。主流派の経済学者からは非難を浴びたが、マレーシア経済をいち早く立て直らせた。経済安定を見届けて2003年に引退。しかし、ナジブ首相の政権運営に国民の不満が高まる状況の中、2016年に新党を立ち上げ、2018年の下院議員選挙に出馬し、若者をはじめ多くの有権者の圧倒的な支持を得て当選、92歳で政界復帰。90代の人物が選挙で勝利し国家首班に就任したのは前代未聞である。下院議員出馬時は首相時代と変わらない若々しい姿が話題になった。


ウクライナの政治家で現在同国大統領。元々は芸能人で、高校教師が腐敗した政治にキレてそれがSNSで拡散されて大統領となるというドラマを演じたら、それが大ヒットしてその勢いで本当の大統領選に出馬したら本物の大統領になってしまったという稀有な人物。大統領就任当初はあまりパッとしなかったが、ロシアによるウクライナ侵攻においてウクライナ国民を徹底的に鼓舞しロシアの侵略に立ち向かう姿勢を示し、国際的にも一目置かれる英雄となった。

芸能人時代、ロシア語系ウクライナ人であるにもかかわらずオレンジ革命、マイダン革命などの自由主義革命に肯定的で、ロシア軍の軍事介入後は知名度を持つロシア語圏での反発を恐れず、ウクライナ軍に多額の寄付を行う一方で、当時のポロシェンコ政権によるロシア文化の弾圧には強く反対した気骨のある人物である。


分割された記事

該当する項目の追加はこちらへ。

日本

独立項目を参照⇒リアルチート(日本)


アスリート

独立項目を参照⇒リアルチート(スポーツ選手)


人外

独立項目を参照⇒リアルチート(人外)


関連タグ

チートキャラ チート

関連記事

親記事

チート ちーと

子記事

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

pixivに投稿された小説 pixivで小説を見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 363273

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました