注意
本項目には自称・伝説・噂などの事実が確認できない情報、真面目な研究では相手にされていない創作実話の類なども多数含んでいることに注意(武勇伝というのは古今東西、そういう性格のものではあるが)。
概要
常人にはあり得ない、信じられない程の能力・偉業を列記して行く。
チート(Cheat)とは本来不正・インチキの意味で、オンラインゲームなどでプログラムの不正改造などにより普通であったらあり得ないゲーム結果を出すプレイヤーに対して非難する意味で使われる言葉であった。
ここから派生して常識では有り得ないような結果を残した実在の人物に対してこの「リアルチート」の言葉が使われている。ただ前述の通りチートは不正の意味であり、実在の人物に対して使うのは失礼極まりない行為である。彼らは才能と共に弛まぬ努力があったからこそこれだけの業績を上げたのであることはいうまでもない。
ただ、その上でこの表現にフォローを入れるとするならば、この場合のチートという表現は「そういわれた方がまだ納得が行くレベルに凄い能力を持っている」という尊敬の念を込めた意味合いであることもまた事実である。
"Real Cheat"はいわゆる和製英語で海外では悪口としか取られないが、似たニュアンスで称賛する場合は"Cheatish"となる。
日本の人物に関しては「リアルチート(日本)」を参照。
古代
当時としては空前絶後の大帝国:アケメネス朝ペルシアを建国する。バビロン捕囚の解放の際、当時はまだ諸民族の1つに過ぎなかったユダヤ人を救ったことから、後世には理想の帝王として讃えられることとなった。メソポタミヤを統一し、弾圧や圧政を廃して寛容な支配を行ったという自身の功績を記した「キュロスの円筒印章(キュロス・シリンダー)」は、人類最初の人権宣言とも呼ばれる。
アケメネス朝ペルシア3代目の王。キュロスが建てたペルシアを整備、盤石な国家へと仕上げ最盛期を築き上げた。西はギリシャ領(の一部)、南はエジプト、東はインダス川流域を収め歴史上初めてヨーロッパとアジアを繋げた。しかし彼自身が王家の血筋であるかは疑問があり、王座を簒奪した疑惑がある。だが彼が正当な王ではなかったとしても、王としてのダレイオスの功績は王座簒奪疑惑を補って余りある。異文化に対して寛容で理解がある人物でもあった。
上記のアケメネス朝ペルシアを1代で滅ぼしインドまで進撃した怪物。
アレクサンドロス大王の父でマケドニア王。息子がやったことが凄過ぎるせいで知名度は劣るが、そもそもド田舎であったマケドニアで様々な改革を行い、1代でギリシア世界最強国家にまで鍛えあげたのは他ならぬ彼である。
カルタゴの将軍。当時、地中海最強と謡われたローマ共和国に軍を率いて攻め込み、10年間に渡って勝利し続けたという天才戦術家。というか、余りの強さにローマ軍はハンニバルを見ただけで逃げる様になったとか。その見事な戦術は現在でも士官学校教材として使われている。
抜山蓋世とその強さを謳われた秦末漢初の群雄の1人。その絶大な武勇で(弱体化していたとはいえ)大帝国を殲滅せしめた秦の破壊者である。一時は劉邦をも圧倒していたが、人心の獲得と施政に失敗して身を滅ぼした悲運の英雄である。
特筆すべきはその戦歴で、10万の軍勢を率いて20万以上の秦軍を倒した鉅鹿の戦いや、寝込みを襲ったようなもとはいえ、3万の軍勢で56万の漢軍を殲滅した彭城の戦いなど、正しく戦神の申し子とも呼ぶべき驍将であった。
しかし対秦の反乱では降伏して来た秦軍の捕虜20万人を生埋めとした上、劉邦の助命を反故にして皇帝一族を皆殺しとし、首都咸陽で掠奪強姦を働いた上街を焼け野原に変えた。杜撰な論功行賞で新たな戦争の火種を蒔き、傀儡とはいえ主君であった義帝をご都合主義で殺害。それまで従えてた英布が離れた時彼の家族を殺害(戦乱の中国史でも相手の家族を殺すのはタブーであった)、垓下の戦いにおいて10万の部下を見捨て僅かな側近のみで逃亡するなど、王や政治家としてはてんでダメであった。
上記の項羽を倒して400年続く漢王朝の初代皇帝に就任した人物。貴族出身の項羽とは違い農民出身で、若い頃は碌に働かない怠け者で戦闘力も頭の良さも皆無であった。しかし、人心収攬と人材の活用に掛けては天才的なセンスの持ち主で、前述の無気力も王という天職に就いていなかったせいかも知れない。腹心の蕭何や張良の意見を取入れて、秦への反乱で首都咸陽を制圧した後も残虐行為や婦女子への乱暴をせず、秦の皇帝一族の命も奪わなかった。出自も能力も多彩な人材を束ねる親分肌であり、宿敵項羽を討ち取った後は手厚く葬る仁義を見せた。
皇帝に即位する前も後も、戦いに弱くとも戦いで陣頭指揮を取り、晩年も故郷を訪れ子供達と触れ合う民衆への慰撫を忘れず、死の間際も自分の死後の人材登用をしっかりしてから世を去る衰え知らずの慧眼を発揮。項羽と比べて遥かに人望があり、王の器量に相応しい人物であった。
国士無双の2つ名で知られる、上記の劉邦配下の大将軍として当時最強を誇った項羽を打ち倒した人物。当初は項羽の下に従える1兵卒であったが、自分の進言を聞いてくれない事に腹を立て脱走。その後、劉邦の補給担当の蕭何の推薦で1兵卒から突如大将軍へと異例の大出世を遂げる。劉邦が項羽と対峙してる間それ以外の勢力を全て倒し、垓下の戦いで項羽をも倒し、その年はスキピオがザマの戦いでハンニバルを倒したのと同じ紀元前202年、彼の存在が無ければ中国は統一されず再び群雄割拠になっていたであろう歴史的影響力、排水の陣や国士無双といった個人的エピソードの多さ等々中華史上最高の名将と名高い。
古代ローマ共和国独裁官。軍人としても政治家としても飛びぬけた素質を持っており、ローマが共和制から帝政へと移行する道筋をつけた。要はローマの伝統をぶっ壊して自分が好き勝手出来るよう作り変えてしまった。余り美形ではなかったにもかかわらずプレイボーイとしての評判は知れ渡っており、元老院議員全員の妻と寝たという逸話もある。さらに文才も高く、「賽は投げられた」や「来た見た勝った」の名言で知られる。自身のガリアでの戦いをまとめた『ガリア戦記』はベストセラーになり、2000年後の現在でもラテン語の教科書として使われている。後に、「カエサル」という名前はローマ元首の称号になり、1国の最高権力者「皇帝(Kaiser)」の語源ともなる。ちなみに、借金の莫大さも空前絶後。
「中国史上最高の名君」「聖王」の呼び声高き後漢の初代皇帝。彼の前漢の初代皇帝・劉邦の末裔であり、当時の王朝新の皇帝であった王莽の、現実離れした悪政に苦しむ民を見兼ね、兄劉縯と共に挙兵。自らも兄を助けて先陣を切って戦い、新王朝の打倒に成功する。嘗ての祖先劉邦が築いた漢王朝を復興させるという唯一無二の事績を残した。豪放な兄とは対照的に大人しく物静かだったが、慎重にして思慮深く聡明な青年であった。とはいえ最初から皇帝になるつもりはなく、「地元役人のそこそこ良い職位に就いて、出来ればお嫁さんは近所の可愛い子ちゃんが良いなー、なんて(笑)」と冗談めかすほど、慎ましやかな夢を持つ謙虚な性格であった。しかし、反乱を起こしてからの凄まじい雄飛と仁愛ある気質が人気を呼び、周囲の後押しを受けて皇帝に即位。その近所の美少女こと陰麗華を本当に妻(=皇后)に迎えることになった。
戦後も驕る事なく政務に励み、国民や家臣を慈しむ仁政を敷いた。皇帝になった後も割とフランクな性格の持ち主でお忍びの外出に呆れた部下が彼を締め出した結果野宿する、しょうもない駄洒落を連発して周りを苦笑させる等の微笑ましい逸話が残る。その後も優しく美しい皇后との間に生まれた、これまた優秀な息子の二代皇帝・明帝に恵まれ、幸せに天寿を全うするというリアルなろう系主人公な生涯を送った。
三国時代の魏の基礎を作った武将・政治家・詩人・学者。カリスマ性に富み、多くの群雄を打ち破った名将であると共に、組織運営を巧みに行う実務家としても傑出していた。文人・学者としても軍学から漢詩まで当時の学問・文芸のあらゆる分野で名を残したオールラウンド型の天才であった(当時行き過ぎた加筆によって訳が分からない状態と化していた兵書『孫子』を解りやすく再編纂したのは彼である)。若い頃は後漢に仕え、魏王となり魏王朝成立後、武帝と諡号される。
後世には『三国志演義』の影響で乱世の奸雄のイメージが強かったが、近代に至っては、才能ある人材を登用した実像が見直されるようになり、現在では中国史上有数の政治家・文人として高く評価されている。
中世・近世
中世イングランド国王。無政府時代で絶え間なく続いた長い内戦で疲弊したイングランドを立て直し、フランスに多数の領地を獲得してブリテン島 - ピレネー山脈までに至る広大な「アンジュー帝国」を築き上げる。これ程広大な国家はフランク王国以来ともいわれる。内政面でも荒廃したイングランドを復興させただけでなく裁判に近代的な陪審制を採用するなどして政治改革も行い、現代イギリスの諸法制度の基礎は彼によって築かれたとさえもいわれる。しかし、晩年は教皇との対立と息子達の反乱に苦しみ、そして溺愛していた末っ子にまで裏切られたことにショックを受けて死去。
- チンギス・ハーン(チンギス・ハンまたは大ハーン)
没落した少部族から領土面積約3,300万km²・地球上の陸地の約25%を支配し当時の人口は1億人を超えていた史上最大国家モンゴル帝国を1代で築き上げた。1桁まで兵が減っても繰返し復活・再編をして来た不死鳥でもある。
明王朝初代皇帝。元王朝末期、貧しい農民の家に生まれ、飢饉によって家族全員を失い乞食僧にまで転落するが、元末の紅巾の乱で頭角を表し、悪政を敷く元を倒し漢民族王朝「明」を建国するという豊臣秀吉も真っ青になる絵に描いたような成り上がり人生を送った。
戦後は元の悪政で疲弊した国を復興させ清代まで続く皇帝独裁制の仕組みを築くが晩年は猜疑心に囚われ、建国の功臣を次々と処刑する大粛清おじさんとなってしまった。
ベトナムの将軍。3度に渡ってモンゴル軍侵略を跳ね返した。最初モンゴルに侵略された時、弱気の国王に対して「降伏するぐらいなら私の首を跳ねて差し出せ」といってモンゴル軍を迎撃した。特に3度目の侵略時、川での戦いにおいて潮の道引きを利用、浅瀬に杭を打ってモンゴル軍の軍船を動けなくして焼き払った。お陰でモンゴルの3度目の日本への侵略が中止された。
中世フランス国王にして「アンジュー帝国ぶっ潰すマン」。イングランドが所有していた領土を奪回して北部諸侯を抑え、イングランドと神聖ローマ帝国に南北から挟撃されてもブーヴィーヌの戦いで返討ちにして両国に対する優位を確立。アルビジョワ十字軍でフランス南部に王権を及ぼし、更に内政面でも都市の整備やパリ大学の設立を行うなどして民衆の支持を集め、フランス国民としての統一意識を高めた。その数々の功績から、初代ローマ皇帝・アウグストゥスにちなんで「尊厳王(Auguste)」と称された。
東ローマ帝国将軍。ゴート戦争において東ゴート王国の大軍相手に寡兵で戦いながらも、そのほぼ全ての戦いで勝利を収め、かつての帝国首都・ローマを東ゴート王国より奪還した名将である。彼の活躍は、東帝国嫌いの歴史家エドワード・ギボンをして「大スキピオの再来」と言わしめた。
- アウグスト2世(ポーランド王)
蹄鉄を飴の様に曲げたり伸ばしたり出来る驚異的な怪力の持ち主で「強健王」の異名がある。また伝説的な精力絶倫振りで「絶倫王」とも呼ばれた。本人も実子の数が多過ぎて何人いるか知らなかったが、365 - 382人くらいの子持ちであった様である。
明朝末期の農民反乱軍の指導者。史上最悪の殺人鬼の一人。300万人の人口を擁する豊かな土地であった四川省を徹底的に破壊し、四川はほぼ無人の荒野と化した。部下に命じて自分の息子や妻妾たちを皆殺しにしたなどの逸話も。人民を虐殺した人数で言えば20世紀のスターリンや毛沢東などの方が多いが、張の異常性はもっぱら殺戮のための殺戮を好んだところにある。下手をすれば魔術師か狂戦士として召喚されそうな人である。
- ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝)
革命期フランスの軍人・政治家。
彼が軍人となったフランスはフランス革命の波及を恐れた欧州諸国による対仏大同盟侵略を受け、崩壊寸前の危機にあった。ナポレオンはその軍事的才能により頭角を現し、度々諸国の軍勢を打破り、遂に大同盟軍勢を国外に敗走させて救国の英雄となった。
また、末端とはいえ貴族階級の出であったことから、革命軍の中では比較的地方貴族や聖職者に対して寛容であった。ライバル・オッシュ将軍の宥和策を発展させる形でフランス西部のヴァンデやブルターニュで起こっていた土着中小貴族・農民連合軍反乱を慰撫して内戦を終結、カトリックとも「フランスの法律を尊重すると宣誓した聖職者の中からローマ法王が司教等を任命する」と歩み寄りを見せて宗教問題を解決に導いた。また、内戦で荒廃した地域復興や生産・流通網再建にも辣腕を振るい、封建的身分特権は失ったものの家屋敷とその周囲で直営可能な農地を返還されて富農として再出発した地方貴族や内戦で被害を受けていた農民達の支持も獲得して行った。
こうして彼はナポレオン1世として、フランス第1帝政の皇帝となる。これによって軍事独裁政権でありながら革命の精神による共和制でもあるという政体を打立ててフランスの混乱を収拾する。さらには軍事的勝利を重ね、革命の精神を諸国に輸出することでイギリスを除くヨーロッパの大半を勢力下に置いた。一方で一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたといわれている。
フランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、自身が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって再度結成させた第六次対仏大同盟にライプツィヒの戦いで敗れ、彼自身の帝国が滅亡した挙げ句エルバ島に流罪という皮肉にも飼い犬に手をかまれる結果に終わった。
後に諸国の混乱に乗じてエルバ島から脱出、1度フランス帝国を復興させるも、最後はワーテルローの戦いに敗れた後英領セントヘレナ島に流罪・幽閉、数年後に病死。今際には最愛の妻・ジョゼフィーヌの名とフランスの国名を叫んで没したという。死因は公式には胃癌とされているが、立場が立場だけに暗殺説が長く流布された(死後19年経って発見された遺体がほとんど腐敗していなかったことからヒ素中毒という説もある)。その後、セントヘレナに墓が建てられた。
しかし、生前に用いて広めた法・政治・軍事等の制度は、その後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播して行ったこと以上の影響を世界に与えたと見ることも出来る。
死後、1840年に遺体はフランスに返還。現在はパリにあるオテル・ド・サンヴァリッド(廃兵院)地下の巨大な棺に眠る。
「不敗のダヴー」という異名を持つ、ナポレオン・ボナパルトに仕えた将軍。2.5倍の戦力差を覆したアウエルシュタットの戦いを始め、彼の生涯に「敗北」の2文字はなく、厳格な統率と規律をもって軍を巧みに動かし、俗に地上最強で知られるフランス帝国軍「大陸軍(グラン・ダルメ)」の勝利に貢献して来た。だが、余りにも厳しい性格から部下や同僚から大いに嫌われ、友人が少なかったという。
18世紀のロシア帝国の大元帥。ダヴーと同じく一度も負け知らずの軍人で、ナポレオンがどうしても勝てなかった敵将の1人。しかし。とてつもない変人で、氷が張った湖に眠気覚ましと称して頭から突っ込んだり、朝早くに鶏の鳴き真似をして兵士達を起こして回ったり、高齢にもかかわらず酒をガバガバ呑んで奇声を上げたり、お医者さんごっこをしたり…とやりたい放題の人であった。その奇行ぶりに加え歯に衣着せぬ物言いのせいで、何度も左遷や追放の憂き目に遭っている。そんな彼だが幼少期は病弱で、どうしても軍人になりたかったため凄まじい猛訓練で体を鍛えたという。多分それが性格に影響したのではなかろうか。
とある絵画で、スヴォーロフ率いるロシア軍がアルプスを超える様子がどう見ても楽しそうで、「ヒャッハー!」と歓声をあげながらスキーをするかの如く急斜面を下って行く様子が描かれている。おそロシア…。一方、ナポレオンはロバでのそのそと登って行ったという。
ロシア帝国初代皇帝。身長2mを超す巨人で、しかも常に斧やハンマーを振るっていたためにとんでもない怪力であった。その握力は「銀製の皿を素手でくるくる巻いて管に出来る程」強かったという。また、彼はとにかく手先が器用で、様々な物を自ら手作りしていた。
勿論政治・外交面でも活躍しており、大北方戦争での勝利や数多くの近代化政策により、それまでの「東欧の辺境の国ロシア」を「列強国ロシア」にまで引上げた実績を持つ。
とにかく技術を習得することが好きで、大工仕事から花火作り、外科・歯科手術などまで習得しており、趣味は家臣の虫歯を抜くことであった。
学者
万有引力で有名な自然哲学者ニュートンだが、ただそれだけに留まらずニュートンが概ね完成させたニュートン力学はアインシュタイン登場以前には「物理学を終わらせた」といわれていた。つまり、ニュートン力学で物理学はほぼ完成しており、後は細かな修正が待つのみと思われていたのである。これは19世紀のマックスウェルらによる電磁気学発展により揺るがされ(電磁気挙動について古典力学で説明出来ない部分が見付かった)、20世紀に至ってアインシュタインの相対論・量子論登場により遂に覆されたが、現在でも近似としてはニュートン力学は有効である。
18世紀の数学者。
「8桁同士の掛け算は2秒で十分」という生きるコンピューター。
途中で視力を完全に失うも、寧ろ失う前より結果を出す様になった。死を迎える当日となるまで、孫の面倒を見ながら研究に没頭していた。
ドイツを代表する文豪であり、政治家。詩人であり、劇作家であり、小説家である。哲学者でもあり、自然科学者。さらにはヴァイマル公国宰相まで務め、後には貴族にも列せられている。
ハンガリーの数学者。余りにもの頭の良さ(特に計算能力と記憶力の高さ)に当時は「悪魔の頭脳」「火星人」などと評価されていた。当時のコンピューターよりも速く暗算したとか、IQ(知能指数)は史上最高300に達していたといった数々の伝説で知られる(実際には知能指数は170以上の極端な高スコアについては余り意味がないとされる)。
スイス特許庁という当時の物理学界最前線から遠く離れたところにいながら独自に研究を続け、1905年に当時の常識をひっくり返す特殊相対性理論・光量子論・ブラウン運動理論を立て続けに発表。この3つ全てノーベル賞級であり、この1905年は「奇跡の年」と呼ばれて物理学界の記念年になっている。その後も研究を続け一般相対性理論を初めとして現代物理学の基礎となる重要な研究理論を多数発表。ノーベル賞は1人1回なので光量子論だけがノーベル賞を獲得しているが、そうでなければアインシュタイン1人で10回くらいノーベル賞受賞しててもおかしくない。
18世紀英国の外科医。兄・ウィリアムは同国初の解剖塾を開いた人物で、ジョンはそこで使うための死体を犯罪まがいの方法で調達していた。後に自分も外科医となったが、ありとあらゆる生物や珍しい特徴を持った死体解剖に凝り始め、葬儀屋を買収するなどして死体を集め続けた。
その一方でそれまで一般的であった、意味もなく瀉血したり水銀を飲ませたりといった非科学的な治療法を否定し、医学の近代化に大きく貢献した。さらに「不妊で悩む夫婦の相談を受け、温めた注射器で精液を注入するという方法で人類史上初の人工授精を成功させる」「静電気を蓄積するライデン瓶を使い、電気ショックで心肺蘇生を行う」「あらゆる動物を解剖しているうちに、ダーウィンより先に生物進化に気付く」など、未来人かと疑うレベルの偉業も成し遂げている。また患者に高額な治療費をふっかけ、金持ちからは遠慮なく金を取る一方、貧乏人が必死で金を工面して来ると「良く頑張ったね」とだけいって無償で治療したという。どこかに似た様な外科医がいた様な……。
また彼の弟子には天然痘から人類を救ったエドワード・ジェンナーがいた。
実業家
食品会社の徒弟から身を起こし、クリミア戦争で武器密輸に関わり、いわゆる「死の商人」として巨万の富を得た。事業を畳んでから、それまで「ホメロスの創作」といわれていたトロイア発掘を志して大学で学び、トロイアの遺跡を発見。元々はズブの素人でありながら古代史を塗り替える業績をあげ、古代ギリシアの考古学の先鞭をつけた。シュリーマンによると、幼少のころにホメーロスの『イーリアス』に感動したのがトロイアに関心を持つきっかけであったという。仕事の合間の勉強で18ヶ国語を話せた(自称)ことでも有名。
イスラム
20いくつの頃、1人でウマイヤ朝を再興。
幼い頃モンゴル軍に両親を殺されて奴隷として売られるが、その後マムルーク朝(エジプト)で将軍となる。さらにアイン・ジャールートの戦いでアラブ世界からモンゴル軍を撃退して復讐を果たし、スルタンにまでのし上がった。ついでに十字軍も撃退している英雄中の英雄。眼帯でバリ強いとか厨二病が興奮間違いなしの偉人。
奴隷の身から這い上がって北インドを支配する王朝を造り上げる。
WW1・WW2の軍人
WW1のエースパイロット。元祖赤い悪魔(自機を赤く塗っていたことが由来)。WW1中最高の撃墜数を記録するだけでなく、容姿端麗で責任感が強く統率力に溢れ、態度も紳士的(勿論変態が付く方ではない)であり女性からの人気も高い。一方で戦闘では熱くなり過ぎて周りが見えなくなるという軍用機乗りとしては致命的な欠点があり、そのため幾度となく窮地に陥り、最終的には英軍機を深追いし過ぎてオーストラリア軍の対空砲火に撃墜・戦死した。
既に蒸気船が主力であったWW1に当たり、帆船ゼーアードラー号を駆って通商破壊戦を行い、約30,000tの船舶を拿捕、撃沈させたドイツ帝国の軍人。様々な計略をもって英軍鎖を破り追撃を振り切って大海原を暴れ回った、自艦乗組員のみならず、敵兵にもほとんど死傷者を出さなかったことから騎士道精神の持ち主と讃えられた。
あのイタリアが産んだ最強の戦艦キラー。当時オーストリア・ハンガリーに苦しめられていたイタリア海軍にあって、僅か排水量20tの魚雷艇で警備厳重なオーストリアの軍港に侵入、海防戦艦を単独撃沈・無事帰還。さらにその後、攻めて来たオーストリア・ハンガリー軍の迎撃作戦に参加し、そこで同じく魚雷艇で弩級戦艦「セント・イシュトバーン」の弾幕を全て回避し、至近距離で魚雷を発射。見事に排水量2万tの戦艦を撃沈したのだった。この功績が認められ、当時大尉だった彼は最終的に少将にまで昇進した。
WW1・2を筆頭とした様々な大戦に従軍した英軍兵士。「ブリティッシュ舩坂弘」といえば大体説明出来る。
いわずと知れた「空の魔王」。
WW2におけるリアルチートの代表。撃破スコア:出撃回数2380回のうち戦車500↑・車両800↑・火砲(100mm口径以上)150門・装甲列車4・戦艦マラート(ルーデルが出撃するために記録を捏造したので、実際はこれよりも多いとされる)。
史上最多の352機撃墜を達成した「黒い悪魔」。坂井三郎と並び、僚機を1度も失わなかったことも有名。
撃墜数300機超えしたエース・パイロット。
ハルトマンとは、戦友でもあり親友でもあった。300機以上撃墜したのは、後にも先にもこの2人だけである。
「アフリカの星」と呼ばれたエース・パイロット。
西側連合軍機撃墜数ではドイツ空軍第1位。1ヶ月で54機・1日で17機・10分で8機撃墜するなど驚異的な記録を有する。その戦績と容姿端麗さからファンレターが殺到した。
その他のドイツ空軍戦闘機部隊エース達は撃墜数100機越えでやっと中堅扱いとなる。
ドイツ国防陸軍元帥。第2次世界大戦で活躍した将帥達の中でもとりわけ有能な将帥として知られる。特に評価が高い戦術はバックハンドブローに代表される様に全盛期のナポレオンを凌ぐぐらいの作戦レベルの機動を行い相手の戦力が低下した所を狙って戦力を集中して叩き付けるという戦術の教科書の理想通り、そして戦術の教科書に名前を残す程の名将。
戦車138両・対戦車砲132門の撃破数を誇る武装親衛隊のティーガーエース。
特に単騎で英軍戦車部隊に壊滅的打撃を与えたヴィレル・ボカージュの戦いは有名。
東部戦線で活躍した国防軍のティーガーエース。敵戦車撃破数は150両以上。
歩兵と戦車連携を重視し、事前に地形偵察を欠かさず行うなど、戦術面でも優れた人物である。
銃弾が飛び交う近代の戦場において何故か剣(と弓)を装備しての無双プレイを敢行するというもう英国面とかそういう次元の話じゃない様な男。
そんな無茶を続けながら数多の戦いで勝利しており、最後の方こそ負けたもののそれでもしっかり生き残っちゃう豪運の持ち主。
ムーミン谷の生んだ「白い死神」。
史上最強のスナイパーである妖精兵士。
フィンランドのもう1人の死神。実在したか怪しいといわれる。
上記の「白い死神」ことシモ・ヘイヘの上官。
コッラー川の戦いではヘイヘ含むフィンランド陸軍の部隊を率い、僅か32名の狙撃兵で4,000人の旧ソ連兵を撃退。他にもピクニック気分で戦車5両を破壊して対戦車砲2門を鹵獲して来たり、猛砲撃の中でも持参品のロッキングチェアで完全にくつろいでいたり、戦争前はフランス外人部隊でモロッコ植民地戦争を戦い「モロッコの恐怖」と恐れられたり……ついでにいうと、下記のエイノは弟である。
フィンランド空軍の無傷の撃墜王。
437回の出撃で唯一被弾したのが、機関弾がかすって塗装が剥げた1回のみという恐るべき操縦の腕と運の良さを持っている。上記のアールネは兄である(一体どうなっているこの兄弟)。
上記とは逆に運のなさがチート級。
乗機故障が度々あり、貴重な戦闘機を複数壊したことから爆撃機隊に飛ばされたこともある。そうして付いた渾名が「ついていないカタヤイネン」
しかしながら、普通なら死んでいてもおかしくない状況でも毎回生還し続けたことはとても運が良いともいえるため、後に「とてもついているカタヤイネン」とも称された。
独ソ戦初期から志願し参戦、各地を転戦しドイツ兵309名を狙撃した旧ソ連の英雄(女性)。
後方勤務を蹴ってまで狙撃手として志願。初陣で2名狙撃を皮切りに、オデッサ攻防戦の2ヶ月半で187名を狙撃。その後も戦果を重ね、英雄の死を恐れた上層部から後方勤務を命じられるまで最前線で戦い続けた史上最高の女性狙撃手。
第2次世界大戦中の旧ソ連兵士。フル装備のドイツ軍部隊53人を斧1本と3個の手榴弾のみ使ってたった1人で全員撃退した化物。
WW2後の軍人
米国の狙撃手。狙撃手としては上記のシモ・ヘイヘと双璧を成す名手。愛用の迷彩用帽子に白い羽を留めていたことから「ホワイト・フェザー(White Feather)」の異名で知られる。狙撃訓練課題コースで250ポイント中248ポイントという、とんでもない記録を叩き出した。なお、この記録は現在においても破られていない。一撃で必ず敵を仕留める彼の正確無比な射撃能力から、現在も米国海兵隊狙撃手の代名詞として「One shot, One kill(一撃必殺)」が残っている。
韓国の軍人。朝鮮戦争時代の韓国陸軍将軍であるが、当時の韓国軍がまだ設立から日が浅かったこと、以前は満州国軍に在籍していた軍出身者であったことから、20代で将官にされてしまった(正確には29歳で准将に昇格)。それはまだ良いが、朝鮮戦争で第1師団師団長を務めていた際は、マラリアを罹患しながら敗残兵を率いて師団長自ら陣頭突撃し、突撃に成功(ちなみに当時の韓国軍は朝鮮半島南端の釜山に追込まれており、しかもご存知の通り良い所なしでもあったため、この突撃が失敗すれば米軍に見捨てられ、釜山にも北朝鮮軍が雪崩れ込んでいた。つまり、韓国の存亡を賭けた突撃であったのである)。他にも満州国軍時代の経験を活かし、韓国国内で活動する赤色ゲリラの鎮圧作戦を悉く成功させたり、開戦初期には粘り強い遅滞戦闘を見せ、仁川上陸作戦後の反撃では地の利を活かし、非機械化部隊を率いて機械化された米軍部隊よりも先に平壌入城を果たしている。
日本においては、満州国軍所属の過去を責めるごく一部の批判を針小棒大に強調され「親日派として冷遇されていた」とか「実は韓国より日本での評価の方が高い」とか、もっともらしく言われていたりもするが、実際には韓国でも「救国の英雄」とされ多くの名誉に輝いている。朝鮮戦争休戦後は韓国陸軍初の大将となり、退役後は外交官、交通部長官などを歴任。2009年には韓国軍史上初の名誉元帥に内定した。
政治家(軍人を兼ねている場合がある)
トルコ共和国建国の父であり、元帥、初代大統領。欧州諸国による侵攻を受けたオスマン帝国の危機を救うと共に同国のスルタン支配に引導を渡し、独裁者として国民国家トルコを築いた。端的にううと「明治維新をたった1人でやった男」。
フィンランドの軍人・政治家。フィンランド独立の父でありフィンランドを旧ソ連侵略から守った英雄。
旧ソ連の脅威に対抗するべくフィンランドの軍需産業を支援、フィンランド軍近代化に成功した。冬戦争ではフィンランド軍25万に対し、旧ソ連軍は100万という圧倒的な戦力差の前に巧みな戦術を用い、様々な要因が絡み合ったことで旧ソ連に大打撃を与えることに成功した。
フィンランドでは現在も民族的英雄として高い人気を誇り、2004年に同国で放送された番組『最も偉大なフィンランド人』では、投票数1位を獲得した。
チートのアナグラムの様な名前のユーゴスラビアの指導者。WW2真っ最中に対ナチスパルチザンとして名を上げ、枢軸陣営を国土から叩き出し共産主義国家を設立。王制時代から根深い民族対立で纏まったことがなかったユーゴスラビアをその英雄然としたカリスマと政治的バランス感覚で切り従えた東欧第3世界の巨魁。彼のアクロバット飛行的な国家運営を真似出来る後継者が存在せず、死後にユーゴが血みどろの紛争でバラバラに崩壊したことで「あんな直ぐに殺し合いを始める火薬庫をまとめていた凄い奴が昔にいた」と現在となって評価されているのは何とも皮肉な話。
チェ・ゲバラ、実弟のラウルら18人の仲間と共にキューバ革命に成功。なお最初は仲間は82人いたが、バチスタ政権襲撃でここまで数が減ってしまった。この時カストロは「18人も生き残った。これでやつら(バチスタ政権)の命運は尽きたも同然」と叫んだ。チェはカストロが悲嘆の余り気が狂ったのではないかと思ったという。しかし、その後のカストロ軍は連戦連勝で仲間は雪ダル式に増加、遂にバチスタ政権を追い落とす。政権掌握後もCIAなどに命を狙われること数知れず、2006年に閣僚評議会議長権限を暫定的にラウルに移譲するまでに暗殺を638回計画されたといわれ、命を狙われた回数が最も多い人物としてギネスブックに掲載された。
ベトナムの軍人、政治家。元々は高校歴史教師で正式な軍事教育は1度も受けていなかったが、軍事マニアが高じて、ひょんなことからベトナム軍総指令官となってしまった、珍しい経歴の持ち主である。
インドシナ共産党活動家として活躍、日本敗戦後には政権中枢に入り込み、以降政治家として活躍。
軍の総司令官としては、インドシナ戦争でフランス、ベトナム戦争では米国、中越戦争では中国にと、ベトナムが数々の大国を相手に勝利し続けた最大の立役者であった。フランスからは「赤いナポレオン」と恐れられた。
シンガポール初代首相にして建国の父。マレーシアから追放により独立せざるを得なくなったシンガポールを、1代にしてアジア一の経済大国とした。
マレーシアの政治家で、22年の長きに渡り同国首相を務め、日本をモデルにした「ルックイースト政策」でマレーシアの国力を飛躍的に増大させた人物。多数派のマレー人と経済実権を握っていた華人の根強い民族対立で纏まることがなかったマレーシアを、硬軟取り混ぜた施策で纏め上げ、強力なリーダーシップでマレーシアを工業国に脱皮させた。アジア通貨危機に当たっては他国がIMFに従って緊縮財政と高金利政策を採用する中で、逆に大規模な財政出動と金利引下げを採用。主流派経済学者からは非難を浴びたが、マレーシア経済を一早く立て直らせた。経済安定を見届けて2003年に引退。しかし、ナジブ首相政権運営に国民の不満が高まる状況の中、2016年に新党を立ち上げ、2018年の下院議員選挙に出馬し、若者を始め多くの有権者の圧倒的な支持を得て当選、92歳で政界復帰。90代の人物が選挙で勝利し、国家首班に就任したのは前代未聞である。下院議員出馬時は首相時代と変わらない若々しい姿が話題となった。
ウクライナの政治家で現同国大統領。元々は芸能人で、高校教師が腐敗した政治にキレてそれがSNSで拡散されて大統領となる、というドラマを演じたらそれが大ヒット。その勢いで本当の大統領選に出馬したら本物の大統領となってしまったという稀有な人物。大統領就任当初は余りパッとしなかったが、ロシアによるウクライナ侵攻においてウクライナ国民を徹底的に鼓舞、ロシアの侵略に立ち向かう姿勢を示し、国際的にも一目置かれる英雄となった。
芸能人時代、ロシア語系ウクライナ人であるにもかかわらずオレンジ革命・マイダン革命などの自由主義革命に肯定的で、ロシア軍の軍事介入後は知名度を持つロシア語圏での反発を恐れず、ウクライナ軍に多額の寄付を行う一方で、当時のポロシェンコ政権によるロシア文化弾圧には強く反対した気骨ある人物である。
分割された記事
該当する項目追加はこちら。
日本
独立項目を参照⇒リアルチート(日本)
アスリート
独立項目を参照⇒リアルチート(スポーツ選手)
人外
独立項目を参照⇒リアルチート(人外)