エーリヒ・フォン・マンシュタイン
えーりひふぉんまんしゅたいん
フリッツ・エーリヒ・フォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタインは1887年11月24日、プロイセン王国のベルリンにてエドゥアルト・フォン・レヴィンスキー大将の息子として誕生。生まれる前からレヴィンスキー大将の義弟ゲオルグ・ファン・マンシュタイン中将の養子と決まっていた。
代々軍人の家柄の子息らしく陸軍幼年士官学校、第三親衛歩兵連隊の大隊長副官、プロイセン陸軍大学とエリート街道を歩み、1914年7月の第一次世界大戦勃発で陸軍大学を教育課程途中で卒業する。
1918年11月の第一次世界大戦終結時は第213歩兵師団主任作戦参謀の大尉であった。
戦後はヴァイマル共和国軍に残り、ブレスラウの国境警備隊、第5歩兵連隊の中隊長、兵務局、第2軍管区司令部、第4軍管区司令部、第4歩兵指導者司令部、第4歩兵連隊の猟兵大隊長、第3軍管区参謀長、参謀本部作戦部長、参謀本部第1部長、第18歩兵師団長などを務め、1939年8月の第二次世界大戦勃発時には南方軍集団参謀長の中将であった。
1939年9月からのポーランド戦役に参加。
10月24日、A軍集団参謀長となる。
1940年2月1日、第38歩兵軍団長に左遷される。
1940年5月からのフランス侵攻に参加。
6月1日、フランス戦での功績とフランス侵攻計画のマンシュタイン・プランの起草者としての功績を認められ大将に昇進。
1941年2月15日、第56装甲軍団長に就任。
6月22日からのソ連侵攻作戦バルバロッサに参加。レニングラードを目指し26日にはデュナブルクを占領。
9月12日、第11軍司令官に任命される。
24日、クリミア戦を開始。11月にはクリミア半島をほぼ制圧し、12月17日にセヴァストポリ要塞攻略を開始するも26日にケルチ半島にソ連軍が上陸し攻略を中止。ケルチ半島からソ連軍を追い落とすのに1942年5月まで費やす事となる。
3月7日、上級大将に昇進。
6月よりセヴァストポリ要塞攻略を再開し、掻き集めた列車砲などのあらゆる大砲による猛砲撃と空軍の支援のもと7月3日にセヴァストポリ要塞を陥落させる。
7月1日、セヴァストポリ要塞攻略の功績により元帥に昇進。
8月、第11軍はレニングラード戦線に転戦する。
11月22日、新設されたドン軍集団司令官に就任。(第11軍は解体され、ドン軍集団に統合)
12月11日、包囲されたスターリングラードの第6軍を救出する為に第4装甲軍による冬の嵐作戦を開始するも、作戦中にロストフへのソ連軍の攻勢が始まり第6装甲師団を派遣して対処したことで作戦の勢いは衰え、更に包囲下の第6軍が脱出を拒み、攻勢は頓挫。26日に作戦は断念された。
1943年2月19日、スターリングラード包囲から始まった一連のソ連軍の攻勢にクルスク、ハリコフ、ベルゴロドを占領され退却しながらも反撃の準備を整えていたマンシュタインは補給の伸びきったソ連軍に対して南方軍集団(ドン軍集団より改名)の反撃を開始。3月にはベルゴロド、15日にはハリコフを奪還する。
7月4日、クルスクを中心とした突出部を包囲殲滅する為のツィタデレ作戦が開始され、南方より攻撃するマンシュタインの南方軍集団は北部の第9軍の歩兵で突破口を穿ち、予備の装甲師団で突破する方針でなく、装甲師団も最初から攻勢に投入する事で第9軍と違いソ連軍戦線を突破し、膨大な損失をソ連軍に強要するも、英米連合軍のシチリア上陸に対処する為に第4装甲軍主力の第2SS装甲軍団が抽出されることとなり、また北部ではオリョールに対するソ連軍の反攻が開始され、作戦は中止された。
8月5日にオリョール、23日にはハリコフが陥落。9月には焦土作戦を命じて遅滞戦術をはかるも後退は止まらず11月6日にはキエフが陥落し、その奪還の作戦もソ連軍の抵抗で頓挫した。
1943年1月18日よりのソ連軍攻勢でチェルカッシー―コルスンの第8軍は包囲され、2月16日までの戦いで大損害を受けつつも過半の兵を脱出させた。
3月4日から始まったソ連軍の攻勢により第1装甲軍が包囲殲滅の危機に晒されるも包囲網よりの脱出を敢行し4月5日に第6軍と合流に成功し戦線崩壊の危機を免れるも、マンシュタインは3月20日に解任され予備役となった。
1945年8月26日、英軍により逮捕される。
1946年12月より始まったニュールンベルク継続裁判で東部戦線での犯罪行為容疑で裁判を受け、1949年に18年の懲役を下されるが1950年に12年に減刑され、ヴェルル刑務所に投獄された。
1953年5月7日、恩赦で釈放される。
1973年6月10日、イルシェンハウゼンにて脳卒中の為に死去。
プロイセン陸軍大学で電撃戦で有名なハインツ・グデーリアンとは同期だった。また対フランス戦でアルデンヌの森を装甲部隊で突破するマンシュタイン・プランを相談したのも彼である。もっとも親しかったからか、それとも自分のプランに賛成しそうな異端児だったからかは定かではない。回想録ではグデーリアンが持ち主から取り上げた農場をヒトラーからの援助金で購入したのではないかというようなエピソードをマンシュタインは記述している。
フランス侵攻作戦計画、第三次ハリコフ戦などで示された軍事能力に対する評価は高く「ドイツ陸軍最高の頭脳」と評される。また戦時中のアメリカのタイム誌に醜悪に修正されること無く表紙となり「最も恐れるべき敵」と記されたという。
軍集団長に就任後は、対ソ連軍への戦術として土地に固執する事無く、軍隊の損失を抑え温存させる為に敵の攻勢に対して後退し、突出や補給が途絶えた相手に反撃を加えて撃滅する機動防禦を主張し、実際に第三次ハリコフ戦ではそれを用いてソ連軍に多大な損害を与えてハリコフを奪取し、スターリングラードで第6軍を失って戦線に大穴があき、崩壊寸前だった状況を建て直す事に成功した。
しかし彼の戦術はせっかく占領して産出・生産などの軌道に乗り始めた資源地帯を破棄する事や重要な都市を失ってドイツの対外的な威信が失墜する事も意味しており、それを危惧したヒトラーの横槍で上手く機能したとは言い難い面もあった。
尊大で冷淡、頑固な一面を持っていたといわれる。自分の考えに沿う人物には好意的だが、そうでない人物とは人間関係で激しくぶつかる事もあったようである。また優秀さは認められるも人間的には惹かれなかったという人物もいたようである。
兵務局作戦部時代に後のOKW(国防軍最高司令部)総長となる編成部長ヴィルヘルム・カイテル(当時中佐)のプランの不具合を指摘し、上にそれを認めさせ修正したことでカイテルとの仲は悪くなり、1938年4月、ヒトラーに仕組まれたスキャンダルで国防相と陸軍総司令官が罷免されたブロンベルク罷免事件の煽りを受けてマンシュタインは参謀本部第1部長から第18歩兵師団長に左遷され参謀総長の道を絶たれたが、それにはOKW総長の大将カイテルの意志も反映されたという。
参謀総長フランツ・ハルダー大将のベルギーからのフランス侵攻計画を批判し、マジノ戦線の敵主力を迂回して相手の意表をつきアルデンヌの森を装甲師団も含む主力で突破するプランをたて、ハルダー達から危険な案と冷遇されA軍集団参謀長から第38歩兵軍団長に左遷された。
兵務局第1部長時代の部下達の運動で1940年2月17日にヒトラーに総統官邸に招かれ自身のフランス侵攻計画を披露する機会を得る。このときヒトラーはマンシュタインが総統官邸を辞した後にその才能を賞賛すると共に「彼を信用しない」と述べたとも言う。後のヒトラーとマンシュタインの関係はその言葉に集約され、元帥にまで昇進させ、軍集団長とするまでその才能を評価し厚遇すると共にマンシュタインの歯に衣着せぬ言動や占領地に固執する事無く軍隊を温存する為に後退して突出した敵を叩く機動防禦を主張する彼のやり方にヒトラーは反感と不信感を持っていたといわれ、最終的にマンシュタインの更迭となった。
一方でドイツ陸軍総司令官であったヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将と上司であった参謀総長ルートヴィヒ・べック上級大将の事をマンシュタインは尊敬しており、自宅の机の上に常に二人の写真を置いていたという。
フリッチュが濡れ衣の同性愛者疑惑で解任され、自身も左遷された折には失望のあまりベルリンに購入していた家を二度と戻らぬつもりで売り払い、またポーランド戦で自殺のような戦死を遂げたフリッチェの事を回想録で記述している。
またべックが参謀総長を辞任する折、それを翻意させようとしている。
プロイセン保全主義者で民主主義よりはかってのドイツ帝国のような独裁的な国家の指導者を望んでいた。その為か軍人は政府に忠実であるべきであるという考えを持ち、敬意を払っていた参謀総長べックがヒトラーに反発し軍首脳全員での抗議としての辞任を考えたのに対して反対し、べックのみが辞任した。
またヒトラーに解任され予備役となってからヒトラー失脚計画への協力を求められても「プロイセン軍人は反逆しない」と拒絶したという。
もっともこの態度には高潔なプロイセン軍人という評価と中立的立場をとって厄介ごとから逃げているという批判もある。
ナチス政権に対しては、ユダヤ人を公職につけないアーリア条項を国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク上級大将が1934年2月に導入した事に反対する建白書をべックに提出してブロンベルクの怒りを買ったという。
また6月30日から7月2日にかけてのヒトラーによる突撃隊粛清である「長いナイフの夜」にて、そのどさくさに紛れ陸軍のクルト・フォン。シュライヒャー名誉大将とフェルディナント・フォン・ブレドウ少将も殺された事に対してブロンベルクへの抗議も試みた。
しかしクリミア半島で作戦中の第11軍司令官だった折に、同地域では悪名高いアインザッツグルッペンがユダヤ人をはじめ抵抗勢力となりそうな者達を虐殺しており、ニュールンベルク継続裁判でマンシュタインはそのような事実は知らず、またアインザッツグルッペンに命令できる立場ではなかったと述べたが、事実は同隊は第11軍司令部の管轄化にあり、彼等の虐殺を目撃した第11軍の将校がマンシュタインに訴えても前線の後方の事は任務外とばかり相手にされず、それどころか口外無用とされたという。
釈放後はドイツ連邦軍創設に尽力し、西ドイツ国防委員会顧問も務めた。
1955年に出版された回想録「失われた勝利」は軍事書としては日本でも翻訳され有名。
戦後、独ソ戦の経緯はマンシュタインの著作を元に語られてきたが、現在ではマンシュタインが自分に不都合な事を伏せている部分が多々判明している(ヒトラーがウクライナ占領を命じてモスクワ進撃のスケジュールが遅れて敗北した → 緒戦でマンシュタインが赤軍に包囲された部隊を見捨てて逃げてくるなどしたため、側面を強力な敵に晒す訳にはいかずウクライナの赤軍を殲滅に向かわざるを得なかった……等)。