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エルヴィン・ロンメル

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エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル(Erwin Johannes Eugen Rommel)はナチス・ドイツの陸軍軍人である。
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概要編集

1891年11月15日にヴュルテンベルク王国で数学教師エルヴィン・ロンメルの次男として生まれる。

第二次世界大戦ドイツ国防軍による陸戦、戦車武装という面に大きく貢献した軍人。

最終階級は元帥フランスアフリカでの連合国との会戦で度々勝利を収め、北アフリカでの砂漠地帯における活躍(北アフリカ戦線)にちなんで砂漠の狐という渾名を持った。


数々の戦功だけでなく騎士道精神に溢れた行動と多才な人柄がSS親衛隊)ではなく、ナチスでの通常の軍隊ともいうべき国防軍の人間であったことなどから、当時のみならず現在でも各国での評価・人気が高い将帥の一人である。


第一次世界大戦ではフランス、ルーマニア、イタリア戦線などで戦い、特にイタリアでの山岳歩兵任務部隊の指揮官としての活躍は有名でありプール・ル・メリット勲章を受勲したが、コロヴラト山占拠は彼の後方奇襲によるものとしての戦功を認められず、マタイユール山ではその山と誤認して他の山を占拠した部隊長の手柄となった事に憤慨し、受勲理由はロンガローネ山占拠と込みでのマタイユール山占拠の功績であったがマタイユール山占拠の功績で得たと主張したという。

第一次世界大戦終結時は第64軍団参謀の大尉であった。


ヴァイマル共和国軍に残る事が出来、ヒトラーの台頭後の1937年に出版した「歩兵は攻撃する」での戦術論の内容が第一次世界大戦を前線で戦ったヒトラーの共感を呼び、以後ヒトラーに重用されヒトラー・ユーゲント国防省連絡将校、総統護衛隊長などに任じられ、1939年8月1日には少将に昇進し25日には総統大本営管理部長に就任した。


1940年2月15日、第7装甲師団長に任命された。これはロンメルが希望したものであり、ヒトラーのお気に入りである故の人事であった。

5月9日から始まったフランス戦では彼は第7装甲師団の先頭にたって進撃し、その時には上層部の停止命令を無視し、味方の架橋工具をくすねたりしてまでの猛烈な進撃と浸透ぶりは著しく「幽霊師団」の異名を得た。後にヒトラーもロンメルが何処に居るのか分からず心配したと述べたという。

もっとも21日にはアラスで英軍に側面を衝かれ撃退したものの苦杯を舐めている。この折に英軍はマチルダⅡを投入してドイツ軍戦車を圧倒したが、これに対してロンメルは高射砲である88㎜高射砲を使用して対抗するという柔軟さを出している。


1941年2月、窮地の北アフリカのイタリア軍への援軍としてドイツアフリカ軍団長に就任。

上層部からはきたるバルバロッサ作戦でのソ連侵攻が本命であり、あくまでも脇役の北アフリカに増援・補給はそう送れず防禦に徹するように求められていたが、3月24日には偵察名目で攻勢を開始し、31日にはもはや口実も設けず攻勢をはじめ10日あまりでキレナイカをほぼ奪回し、残ったトブルクを包囲する状況を作り出していた。


これに対して英側はトブルク包囲を解く為に6月15日にバトルアクス作戦を開始するも、ロンメルは圧倒的な兵力を持つ敵を相手にしてにそれを敗退させた。この功績もあり7月1日にロンメルは大将に昇進した。


だが11月18日に発動したクルセイダー作戦では第7機甲師団を包囲殲滅できる機会を得たり、ロンメルの鉄条網への突撃と称された彼自ら率いる部隊によるエジプト方面への突進で英側をパニックに陥らせ撤退さえる状況を作り出した事もあったが中東方面軍司令官クルード・オーキンレック大将が動じず第8軍司令官を更迭してまで攻勢を続けた為に空振りに終わり、結果的にトブルクは解放されロンメルは12月31日までにはキレナイカより撤退する事となった。


1942年1月20日、ロンメルは攻勢に出た。兵力差は著しく、英軍のカモフラージュ工作が成功して実際の彼我の差よりも少ないと判断してのものであり(それでも英軍優勢)無謀ともいえるものであったが、ロンメル達の卓越した指揮、英側が不意を衝かれたことや、ドイツ空軍のマルタ島攻撃で同島からの妨害で途絶えがちだった補給状態が改善されたり、補給零の状態だった部隊に奇跡的に補給が届く幸運などもあり苦戦の末に6月22日にはトブルクも陥落させキレイナイカを再び奪取する事に成功した。

この戦い最中にドイツアフリカ軍団は軍に昇格し、ロンメルもまた柏葉・剣付騎士鉄十字章を受勲し1月30日に上級大将となっていたが、ガザラでの勝利はヒトラーの彼への評価を更に高め、6月22日に国防軍最年少の元帥に昇進した。


だが、もはやドイツアフリカ軍は彼我の戦力差を覆すだけの力の限界を超える事は無かった。

6月29日より始まったエジプトでの第一次エル・アラメインの戦いは思わしくなく、8月30日から31日のアラム・ハルファの戦いで攻勢は明確に阻止され、また健康問題でロンメルは9月23日にアフリカを離れドイツに帰国した。

しかし10月23日に新任の第8軍司令官バーナード・モントゴメリー指揮する英軍が攻勢に出て、ドイツ側はロンメルの後任のゲオルク・シュトゥンメ大将が心臓発作で死去するアクシデントもあり、ロンメルは25日にアフリカに戻るももはやその物量を押し留める事は出来ず11月4日にようやくヒトラーより撤退の許可を取り敗走のような撤退を行う。

また8日にはチュニジアに米英軍が上陸しアフリカの枢軸軍は挟み撃ちの形となり、ロンメルはエル・アゲイラ死守の命令を覆そうとドイツに帰国してヒトラーに直談判をするも拒絶され、その後は死守命令を無視してチュニジアまで撤退した。


1943年3月9日、アフリカ軍集団司令官となっていたロンメルは解任され帰国し、療養後はギリシャ方面のE軍集団長、次にイタリア方面のB軍集団長に就任し、11月にB軍集団はフランスに移動した。

ロンメルはきたるべき英米連合軍の侵攻に対して物量に勝り制空権も得るであろう相手には予備兵力が前線に辿り着く事も容易でないとし、総力をあげての水際撃滅でなければ撃退できないと主張、訓練よりも大西洋の防壁と称された未完成だらけの海岸防衛ラインの強化の工事に兵を動員することに努め、兵力配置も機動予備兵力となる装甲師団さへも海岸線近くの配置を望んだが、上司である西方総軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥は何処に敵が上陸しても対応できるように後方への配置を望み対立したが、ヒトラーのとりなしで半分の装甲師団がロンメル配属となり、残りは総統大本営直属として後方に配置されるという折衷案となる。


1944年6月6日はロンメルの妻のルーツィエの誕生日であり、荒天で上陸作戦は不可能と予報されたため、ヒトラーへの増援要請もかねて帰国したが、それは彼がドイツ軍にも連合軍にも「最も長き日」となると予測した英米連合軍のノルマンディー上陸の日であった。


7月7日、前線視察中にスピットファイア戦闘機の機銃掃射で頭蓋骨骨折の重傷を負い入院。そして20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件で暗殺の関連容疑者となってしまう。

同年10月14日に、療養先の自宅である軍人から「反逆罪で裁判を受けるか、名誉を守って自殺するか」と脅しのような言動を受けて、大切な家族の身分を守るために「私は軍人であり、最高司令官(カイテルもしくはヒトラー)の命令に従う」と、暗殺事件への関与に関して一切弁明せずに服毒自殺を遂げる。


この時は戦傷で療養していたので、彼の死は名誉なる戦死だと国民に伝えた。

本当にロンメルが暗殺に関与していたかは不明で、彼の栄光を抑えて潰そうとした他の軍人や政治家による陰謀ではないかとも言われる。


逸話編集

アフリカ戦線ではその采配振りから敵の英軍にまで神格化され、上層部から「彼は人間である、アフリカ枢軸軍を指す時にロンメルの軍と言うな。」などの訓示が出たと言われる。


カメラが好きでよく前線でも撮影をしていたと言われる。


積極的だが補給の重要性を無視しがちであり、また上層部から脇役で防衛しろと言われた何の資源もないアフリカ戦線で命令を無視して攻勢に出て、本来必要の無かった補給などの負担を軍にかけるなど問題もあり、師団長クラスの役職がロンメルには一番向いていたという意見もある。


フランス侵攻戦、北アフリカで多大な功績をあげた反面、自らの栄誉を求めんが為に上層部からの命令無視や他師団の架橋用資材を勝手に横領して返さなかったりなど独善的なものも多かったが、これは第一次世界大戦でコロヴラド山脈114高地占領の折はその背後のモンテ・クク山を攻撃する事でイタリア軍をパニックに落としいれ後退させたがプール・ル・メリット勲章は漁夫の利を得る形で114高地を占拠したフェルディナント・シェルナー少尉に与えられ、またマタイユール山を攻略したにもかかわらず、自隊がマタイユールを占拠したと誤認したヴァルター・シューニバー中尉にプール・ル・メリット勲章が与えられた経験から、上層部たるプロイセン貴族軍人への不信と冷遇されたゆえの渇望的な名誉欲があったのではないかという説もある。


1936年9月のニュールンベルク党大会でヒトラーの護衛隊長を務め、彼より命令された彼の後に従う車は6台にするようにとの命令を厳守しヒトラーに注目されたという。

もっとも後に同じようなシチュエーションでも命令を厳守したが、そのせいでヒトラーに追随できなかったマルティン・ボルマンの恨みを買い、ロンメルの自決にもボルマンは関ったとも言われる。


敵に対しては敬意を示し捕虜や相手の死者は丁重に扱った。また捕らえたゲリラ抵抗運動の者を処刑することはその者を英雄にするだけだと殺さず、アフリカ戦線は比較的綺麗な戦争であったと称される土壌を作った。


フランス、北アフリカで最前線で指揮を執る姿は兵から人気があったが、北アフリカでは将校と兵では扱いに格段の差があるイタリア軍の兵士にとって、将軍であるにも関らず自分達と同じ前線にあり、同じ食料をとるロンメルへの人気は高かったといわれる。またロンメルは食事には関心は無いほうであったがパスタは好んだという。


危機に関する直感的なものが備わっていたのか、北アフリカで前線を視察中にどうもこの場所は良くないと言い始め、部下達が何の目標も無い砂漠では何処も同じだと述べたのに対して、自説を曲げずその地を皆で移動した途端に、その居た場所に英軍の砲弾が命中したという。


B軍集団長として副官のヘルムート・ラング大尉に地図の海岸線を指差して「敵を海に追い落とすチャンスはたった一度しかない。それは彼等が海に居る時だ。岸に着こうともがいている時だ。その瞬間に予備部隊が間に合うはずもないし、そんな事を考えるのも愚かな事だよ。主抵抗線は此処だ。此処に全兵力を集結させねばならぬ。本当だよラング大尉。敵が上陸してからの24時間が我々にとってもアングロ・サクソン連合軍にとっても最も長き一日となる」と力説したという。


彼がノルマンディーで負傷した付近の村はサント・フォワ・ド・モンゴメリであり、皮肉にも北アフリカからのライバルであるモントゴメリーの名(フランス読みで)がついていたという。


ムダヅモ無き改革でのロンメル編集

第四帝国と登場したナチスの残党勢力においても元帥の階級にあり、地球への侵攻決闘・神々の黄昏決戦中に、第四帝国の領土のにおいてヒトラーに叛旗を翻す。

帝国よりも強い政治家が存在する地球との戦闘は危ないと、国家の将来を考えた上での反乱で、一時はロンメル側の優勢に入るが、覚醒したヒトラーの力が遥かに想定を超えており、敗北、死亡した。

同作に登場する空軍のルーデル、親衛隊のスコルツェニーと並ぶ最高の軍人で、もしヒトラーの侵攻に協力していたら、帝国は勝利に近づいたかもしれない。


関連イラスト編集

ロンメル


関連タグ編集

ロンメルナチス第三帝国北アフリカ戦線砂漠の狐

ドメル(宇宙戦艦ヤマトの登場人物。ロンメルをモデルにしているとされる。)

ロマンシングサガ2(デザートフォックスという陣形は、戦場の最前線で指揮を執るロンメルの姿をモデルにしているとされる。)

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