概要
マルティン・ルートヴィヒ・ボルマン(1900年6月17日~1945年5月2日)
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)官房長。総統アドルフ・ヒトラーが自殺するまで側に仕え、ヒトラーに上げる情報を統制していた。
両親は熱心なルター派キリスト教徒で、名前はマルティン・ルターから採られた。
第一次世界大戦後、叔父の経営する農園で会計係として働いていたが、所属する民兵組織「ロスバッハ義勇軍」の内ゲバに関連し逮捕された。
出所後、1927年にナチスに入党。
1928年、テューリンゲン大管区の報道部長に就任したが、演説が下手で何を言いたいのかよく分からなかった。ボルマンが演説台に上がっただけで聴衆から嘲笑がおこるので、党から演説を禁じられ、テューリンゲン大管区の会計責任者となった。突撃隊の救済基金の責任者になると大いに利益を出し、党の救済基金部門に昇格させた。
1933年、副総統ルドルフ・ヘスの個人秘書兼幕僚長に任ぜられるとヘスの無能さに漬け込んで実権を奪う。
1941年、ヘスが独断でイギリスへ飛行して副総統が不在になり、ボルマンがその後継候補にあがったがヘルマン・ゲーリングを筆頭に幹部の多数が反対したため、一段下の官房長官に任命される。
しかしヒトラーが戦争で軍務にかかり切りだったので党務を掌握して大きな権勢を誇り、1943年に総統の秘書兼個人副官に任命された。ヒトラーに媚びへつらいつつ彼に上げる情報はボルマンが選択し、ボルマンの許可なしには総統府に入る事もできなくなり、ヒトラーに対し大きな影響力を持つようになった。
1945年4月30日、ソ連軍がベルリンを包囲する中、ヒトラーが自殺。ボルマンは遺言執行人、ドイツ国党大臣に任命された。5月1日深夜、総統地下壕からの脱出を図ったが果たせず、服毒自殺を遂げた。
戦後
ボルマンの遺体は発見されず、行方不明のままだったため、南米でナチス残党を率いているなどという噂がまことしやかに囁かれた。
ナチ残党を扱ったフィクション作品ではボルマンを指導者的ポジションにいる描写が多く見られた。
1972年、ベルリンの工事現場で2体の人骨が掘り出され、家族のDNAと照らし合わせた結果、ボルマンとヒトラーの主治医ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガーのものであることが確認された。遺体の口にはカプセルのガラス片と青酸の痕跡が認められた。
人物
仮にボルマンが生き延びていたとしても、南米に逃げたナチ残党を率いることができたかははなはだ疑問である。
というのも上司に媚びへつらう一方で部下に冷酷に接する態度や、副官に「スカートをはいた物なら何でも追い回す」と評されるほど酷い女癖が悪かったせいでヒトラー以外のほとんどから嫌われていたからである。
どれほど嫌われていたかというとナンバー2のゲーリングが「ヒトラーがもっと早く死んで、私が総統になっていたら真っ先にボルマンを消していただろう」と発言し、ナチス幹部で一番の常識人と言われるアルベルト・シュペーアさえ「ヒトラーがボルマンについて少しでも批判的な事を言ったなら、彼の敵は全員その喉首に飛びかかっただろう」と評するだった。他にもヒトラーの愛人で後に妻となるエヴァ・ブラウンからも嫌悪され、同じくナチス幹部でヒトラーの個人秘書だった実弟のアルベルト・ボルマンとも仲が悪く、戦後のインタビューで兄の話題を避けるなど終生嫌われていた。
本人もそれを自覚していたらしく、妻への手紙に「僕は人間の嫌な面をこれでもかというほど知らされた。総統が必要としてくれる間はどうにもならないが、いずれ僕は政治から離れる。決心したんだ!」と書いている。
そうしたこともあって、ベルリンから多くの幹部が避難する中、ボルマンはヒトラーのそばに侍り続けた。もしヒトラーから離れてしまえば忽ち権力を失うのは明白であり、どさくさに紛れて殺される可能性が高かったからである。
『BLOOD+』
マルティン・ボルマンがモデルのキャラクター「マルティン・ボルマン」が登場する。
ディーヴァ側シュヴァリエの三男。
アドルフ・ヒトラーの側近として活躍するが、ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンに擬態していたディーヴァと内通した為、アンシェルの怒りを買い、アンシェルの命を受けたソロモンによって1945年に殺害される。