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生没年 1893年4月30日~1946年10月16日


生涯編集

ドイツ西部ラインラント地方ヴェーゼル出身。

父親であるリヒャルトは平民から陸軍中佐になった叩き上げの人物であり、母親のゾフィーは大地主の娘。

長じたリッベントロップは、習得したフランス語と英語を駆使して1910年からカナダでドイツワインの貿易商として働き成功した。しかし1914年、祖国ドイツとカナダの宗主国イギリスの間で戦争が始まり帰国を余儀なくされた。

帰国したリッベントロップは陸軍に入隊し、東部戦線に従軍した。最終階級は中尉で、戦功により一級鉄十字章も授与する栄誉を得ている。また大戦末期にはコンスタンティノープルの駐独大使館付き武官となり、当時オスマン・トルコ第4軍参謀長だったフランツ・フォン・パーペン中佐の知遇を得た。

戦後は軍を退き、1920年にシャンパン醸造家の娘アンナと結婚。シャンパンの商売で財を成す一方、貴族の妻だった伯母に頼み込んで養子としてもらい、自らの名に「フォン」を付け加えた。

1930年にアドルフ・ヒトラーと出会い、32年に国家社会主義ドイツ労働者党へ入党した。リッベントロップの任務は首相となっていたパーペンとの折衝であり、ヒトラーからは高く評価されたがヨーゼフ・ゲッベルス等の古参党員からは忌み嫌われた。

一方で党の独自外交を仕切る立場ともなり、1935年にドイツ海軍の再軍備を事実上認める「英独海軍協定」と36年に日本をドイツ寄りにさせた「日独防共協定」の締結はリッベントロップなしでは成しえなかった。

同年、リッベントロップは駐英大使として独英連携を達成しようとしたが、尊大なリッベントロップにイギリス人は嫌悪感しか抱くことはできず果たせなかった。

1938年、外務大臣に就任。外交官に自分のシンパを加えて権力を増し、以後は急進的かつ強硬な外交姿勢を推し進めた。1939年に独ソ不可侵条約と東欧分割を約した「秘密議定書」の締結に尽力した。リッベントロップは対英のために独日伊ソ4国による「汎ユーラシア大陸ブロック」を形成することを考えたが、独ソ開戦により水泡に帰す。なおリッベントロップはヨシフ・スターリンソ連首相やヴァチェスラフ・モロトフ外相に個人的好意を抱いており、対ソ宣戦の時には酒をあおったうえで宣戦布告文書を渡したウラジミール・デガノゾフ駐独ソ連大使に縋り付いて「私は戦争に反対だったとスターリンやモロトフに伝えてくれ」「この戦争はドイツに多大な不幸をもたらすと分かっている」と言ったという。

第二次世界大戦の開戦以降は影響力を低下させていたが、1944年のヒトラー暗殺未遂事件に外交官が多く参加していたことでヒトラーからの信用も失っていた。

1945年の敗戦時、ハンブルクに潜伏していたがイギリス軍に逮捕されニュルンベルク裁判の被告席に立ち死刑となった。

最期の言葉は「神よ、ドイツを護り賜え。神よ、我を憐れみ給え。私の最後の望みは、ドイツが自らの運命を認識することと、平和の為に洋の東西が互いを理解し合うことです。世界が平和でありますように」だった。


息子のルドルフは武装親衛隊隊員(最終階級は大尉)として転戦。戦後はスパークリングワインの醸造業を営んだ。


余談編集

・米軍の捕虜になった際の拘留記録によると身長は178センチであった

・ニュルンベルク刑務所付心理分析官グスタフ大尉が、開廷前に被告人全員に

 対して成人知能検査によると、リッベントロップの知能指数は129であった

 補足※常人が知能指数100前後であり東大生はの平均知能指数120である


関連タグ編集

ナチス アドルフ・ヒトラー

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