概要
ドイツ(ナチス・ドイツ時代)の政治家。日本語では「ヒットラー」とも。かつては「ヒットレル」とも表記されていたことがある。
独ソ戦で激突したスターリンと共に20世紀最恐最悪な独裁者として、その悪名は国境・時代を超えて世界中に広く知られ、独裁者の代名詞となっている。
1889年オーストリア生まれ。オーストリア帝国は民族ドイツ人と非ドイツ系諸民族を包含する多民族帝国であったが、第一次世界大戦末期の1918年に領邦が次々と独立し崩壊、ドイツ人居住地域のみの小国になった。ヒトラーは零落していく母国への帰属意識を持ちきれずにドイツ民族意識を肥大化させた大ドイツ主義者の一人である。
生涯
1889年4月20日、オーストリアとドイツとの国境にある都市ブラウナウで、アロイスと3番目の妻クララの間に生まれる。異母兄弟と実の兄弟を含めて8人いて6番目。母とは相性が良かったが、父とは仲が悪かった。
父からは度々虐待を受けており、その影響から成人後も奇妙な寝言を発したり夜中にうなされることがあったという。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインと同い年で、幼少時は同じ学校に通っていた。会ったことがあるかどうかは不明。
地元の実業学校を中退して(そのため、ヒトラーの最終学歴は父と同じく小学校卒業である)画家(途中から建築家)を志し、ウィーンに遊学し、水彩画を多く描くかたわらワーグナーとドイツ民族主義思想に熱狂するその日暮らしのニート生活を送る。父アロイスは、小学校卒業が最終学歴だったが、靴職人から税関の上級職員にまで上り詰めるという、当時のドイツでは異例な出世を遂げた努力家であり、遺産は相当なものであったため、このような生活が可能であった。ただ、その遺産も、さすがに一生遊んで暮らせるほどの額ではなかったので、母クララは息子が進学も就労もしない事に悩んでいたようである。なお、全く働かなかったわけではなく、絵葉書などを売って生活費の足しにはしていた。ただ、ヒトラー本人は、職人のような仕事は軽蔑しており、そういった労働につく気はなかった。
勉強家であり、しばしば図書館に通いつめていた。ただ、読む本は自分の好みに合った物が中心であり、体系だった学問ではなかった。反ユダヤ主義や疑似科学などの怪しげな本を乱読し、のちのナチズムにつながる思想が形成された。そんなある日オーストリア政府から召集令状が届くが、大ドイツ主義者のヒトラーは多民族国家オーストリアの兵士になる事を忌避しドイツ・ミュンヘンに逃亡してしまう。
ミュンヘンでは絵を定期的に買ってくれる画商を獲得するなど画家としての生活を確立しつつあったが、第一次世界大戦が起こると志願して1914年にドイツ軍に入隊。戦場では伝令兵として勇敢に働いて不死身の男と呼ばれ、六回も受勲した。彼が受勲した一級鉄十字章は本来ヒトラーの階級では貰えない異例のものであり、終生これを誇りとして身に付けていた。
ただし、当時の上官によれば「強兵ではあるが統率力はない」と見られており、兵長までしか昇進していない。(陸軍長老から総統ヒトラーは陰で「ボヘミアの伍長殿」と馬鹿にされたが、これは野戦任官で伍長扱いとなった為である)
1918年にイープル戦で毒ガスにより目をやられ、野戦病院で敗戦を迎えた。なお、ヒトラー自身は、この治療中に自分の使命が「ドイツを救うこと」にあると確信したと話している。
敗戦後も軍に残って、しばらく軍務を続けた。ドイツでは苦しい状況から革命が起き、各地で共産主義を標榜する地方政権が生まれていた。
その時に、軍人カール・マイヤーによってスパイとしてスカウトされ、ヒトラーは革命政権を支持する兵士達や、新興政党の調査を行うこととなった。この一環として「ドイツ労働者党」の調査をしていたが、党の反ユダヤ主義、反資本主義に魅せられ、逆に党へと加わった。
ちなみに、ヒトラーはマイヤーに許可を得てから入党している。マイヤーは、初めは「ドイツ労働者党」に好意的であったが、後に批判者となり、ヒトラーの政権獲得後は強制収容所に送られて、イギリス空軍の空爆に巻き込まれて死亡している。
その後、ヒトラーは政治家としての才能を発揮し、演説の才能をもって党の顔となり、さらには党の実権を掌握、《国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチス)》に改称し、民族主義と反ユダヤ主義を掲げた。
当時のドイツは、敗戦後の莫大な賠償金が課せられたことで、国内の経済が混乱していた。
これに乗じて、ヒトラーたちは革命・ミュンヘン一揆を起こしたが、失敗し投獄される。しかし当時、経済同様に混乱していたドイツ政界、特に法曹界は保守的な風潮が強かったこともあってヒトラーを強く抑えることが出来ず、結局は釈放した。ヒトラーは、釈放後に政治活動を再開すると同時に、失敗を反省して、あくまで選挙という合法的手段による政権獲得を目指すようになる。
1933年、ドイツ首相に就任し、翌34年には大統領と首相を兼務した《総統》に就任。ナチス政権下ドイツを神聖ローマやドイツ帝国に次ぐ、《ドイツ第三帝国》と称した。
もちろんナチスの選挙における勝利も要因の1つだが、総統にまで就けたのは議会を軽視し閣僚を自分の好みや側近の薦めだけで選んでいたヒンデンブルク大統領の助力によるところが大きい。全権委任法などに代表される独裁政治の確立には、選挙の勝利、ナチスの巧みな議会工作・暴力など様々な要因が絡んでおり、「ナチスは煽動により民衆からの圧倒的支持を得て選挙に大勝、それによりヒトラーは総統の地位を得た」などと単純化して考えない方がよい。
ナチスは極端なインフレとデフレを繰り返していたドイツ経済の混乱を止めるため物価統制や世襲農場法(一種の農地改革)、大規模な公共事業、貯蓄奨励などを行い、これらの政策が功を奏して、ドイツの経済基盤は一応の安定を見る(しかし食糧不足・資源不足は最後まで解決されなかった)。
アウトバーンの建設や軍備拡張で重工業部門での雇用が増加し、徴兵制が再開されたことで、失業問題が解決した。ただしこれらの政策はヒトラーの発案によるものではなく、経済政策に全権を任せられた経済相ヒャルマル・シャハトらの貢献によるものである。
しかし雇用者の大部分を占めたのは軍隊、軍需産業であり、その軍事費調達の為に204億ライヒスマルクを捻出した割引手形であるメフォ手形などの手形を発行するなど戦争ありきな経済体制であったため、閣僚が「戦争をしなくても、崩壊する」と思ったほどの財政赤字を抱えており、その債務履行期限は1939年だった。
1939年1月には軍事費増大による手形残高の増大でインフレーションが起こっているとして軍事費獲得の手形発行などの経済政策の中止を求めた元経済相のシャハトは、ライヒスバンク総裁を解任されている。
そして償還の見込みのないなか、ドイツはポーランドに侵攻する事となる。
ヒトラーは民族の再興のための東方への生存圏拡大(=東欧への侵略)を信念としていたため、オーストリア・ドイツ国境付近のズデーテン地方割譲やオーストリア併合、チェコスロバキア併合、枢軸同盟を経て、1939年にソ連と共謀してポーランドへ侵攻。
フランスやベネルクス三国を占領し、イタリア・北欧・バルカン諸国・東欧各国(ハンガリー・ブルガリア・ルーマニア・旧ユーゴスラヴィア)を枢軸同盟国とし、快進撃を続けてソヴィエトを含むヨーロッパの大部分を支配したが、イングランド・スイス・スウェーデン・スペイン・ポルトガル・アイルランド・アイスランド・トルコ・フィンランドの9ヵ国には結局侵略しなかった(できなかった)。
(※ただし、ナチスは陸続きでないイングランドには空爆で序盤は激しく攻め立てたが、イングランドは対空無線などでドイツ飛行隊の位置を事前に把握できるようになってからは、逆にイングランド空軍に迎撃されるようになり甚大な被害を被り、イングランド侵略を断念せざるを得なくなった。同じく陸続きでないアイルランドとアイスランドには全く攻撃対象としなかった。陸続きのスペインにも1937年ゲルニカで世界初となる空爆を「スペイン内戦」の混乱に乗じて遂行しただけで、陸軍を用いて全く侵略しなかった(もっともスペインのフランコ総統がドイツから距離を置き始めた折にはスペイン侵攻作戦は計画されている)。同じく陸続きのスイス・スウェーデン・ポルトガル・トルコにも全く攻撃対象としなかった。敵の敵は味方論法もあり、ソヴィエトと敵対・交戦していたフィンランドも全く攻撃対象としなかった)
そして、支配・侵略の過程でユダヤ人へのホロコーストを終戦まで絶え間なく続けた。
しかし、独ソ戦でスターリングラードの戦いで敗北し、連合軍のノルマンディー上陸作戦で戦況が逆転し戦局はさらに悪化。
米ソ連合軍が東西挟み打ちで迫り、ベルリンの総統官邸地下壕に留まっていたヒトラーは、1945年4月30日15時半頃、結婚を交わしたエーファ・ブラウンと共に自殺。56歳没。遺体はソ連軍に回収されマグデブルクで一度埋葬され1970年4月4日に発掘、完全に焼却されエルベ川に散骨された。
ソヴィエトによる情報統制がしかれたため生存説などがしばしばささやかれるが、ソヴィエトの崩壊後ヒトラーの遺体に関する公文書が開示されたこと、近年でも改めて法医学者による残された遺体の検査で歯形や頭蓋骨の形から、ヒトラーが1945年にベルリンで死亡したことは明らかである。また、仮に生き延びていたとしても、1945年時点で56歳だったヒトラーは、2023年時点では130歳を超えている事になるので、現在、生きている可能性はゼロである(現時点の人類の最高齢は122歳)。
人物像
体格
身長は1914年時点で約175cm。体重は1944年時点で約104kg。よく《チビのチョビ髭》と言われるように、ちょび髭は見た目で一番の特徴だが、身長は当時のドイツ人としては比較的長身である。
ちょび髭は労働者党の初期の幹部の一人ゴットフリート・フェーダーからまねたもの。奇しくもこの特徴はヒトラーと同い年のコメディアンチャップリンと同じ(ただしチャップリンのものは付け髭)で、後に映画『独裁者』で揶揄されることになった。
碧眼で幼少期は金髪だったが、成人後は黒髪に変化(金髪が黒髪に変わるのは、欧米人にはよくあることである)。遺伝的に薄毛で、晩年は生え際が後退している。
好きなもの
愛犬家で知られ、第一次大戦の戦場でテリア犬のフクスルを拾い、総統になってからはジャーマンシェパードのブロンディを飼っていた。犬を追いかけた結果、爆死から免れたというエピソードもある。
実はディズニーファンでもあり、後に対抗意識が芽生えて、国営アニメスタジオを立ち上げた。
自動車や飛行機などの乗り物好き。本人は自動車を運転しなかったが、ポルシェを愛好した(社長であるポルシェ博士とも懇意にしており、兵器製造でポルシェ博士は度々ヒトラーに便宜を図ってもらっていた)。
大の競馬好きでもある。競馬に熱を入れていたのはナチ党結成から政権を握るまでの間であるものの、彼が最期を迎える直前まで軽種馬の血統改良を行っていたほどだった。ベルリンにあるホッペガルテン競馬場でヒトラーは自ら馬主となって、自分の馬を応援する姿がよく見られたという。政権を執ってから多忙になったヒトラーは、競馬場に行く事が出来なくなった代わりに、サラブレッドの血統改良に乗り出し、「トラケーネンファーム」という一つの町位の大きさの大牧場を作ると、すぐさま300頭の肌馬(繁殖牝馬)に様々な種牡馬を配合し、サラブレッドの改良に力を注いでいる。また、ドイツには世界的な種牡馬がいないことに悩んだ末、ナチス・ドイツ軍が侵略した国から様々な種牡馬をトラケーネンファームに送り込んだ。この時の最大のターゲットとなったのはフランスで、フランスの至宝的名馬・ファリスをはじめ、多くの名種牡馬をドイツに運び込んでいる。
尚、ヒトラーの死から丁度50年が経った、東京競馬場で行われた1995年の第15回ジャパンカップにおいて、史上初にして現在に至るまで唯一のドイツ産馬として優勝したランド(鞍上はマイケル・ロバーツ騎手で、外国人騎手として初めて日本馬でGⅠを制覇した事で知られている)は血統を辿って行くと父方の祖先がトラケーネンファームに所属していた軽種馬育種である事が近年判明されており、ヒトラーの長年の夢が半世紀の時を超えて競馬界に栄光を残す偉業を成し遂げている。
音楽ではリヒャルト・ワーグナーを特に好み、マニアックな知識を披露して周囲を驚かせたこともあり、一族が主催するバイロイト音楽祭はナチス時代は国家的行事であった。
ワーグナーはとっくに死去していたため当然面識はないが、ワーグナーの妻のコジマ(リストの娘でもある)と面会したことはある。
ちなみにワーグナーも反ユダヤ主義だったため、イスラエルでは現在でも二重の意味でワーグナーは禁忌である。
終生自分を芸術家であると自負していた。主に風景画を描き、建物の描写を得意としたが、人物絵がほとんど描けなかったようだ。
権力を握った後は、自分の好みに合う芸術は進んで保護したが、一方で自分の好みに合わない芸術は徹底的に弾圧した。皮肉にも、ヒトラーの残した直筆の絵は「『写真のような絵』や『絵に関する知識が無い人が巧いと思うような絵』は得意だったが、当時流行っていたタイプの絵は描けなかった」と評される事が多い。絵の基礎はそこそこは出来ていたが、自分の画風を確立出来なかった訳である。
ヒトラーの希少な友人であったアウグスト・クビツェクの話では、共にワーグナーの音楽の演奏会に行く時に室内装飾人の父の仕事を手伝って待ち合わせの時間に遅れた彼に「そんなモノの為に崇高な芸術を犠牲にするとは何事だ」という内容で怒ったという。そして彼の父親を説得してクビツェクに音楽家の道を歩ませるようにしてくれたのも彼であったという。
母親のクララを愛しており、彼女が死んだ時の嘆きぶりを見た医師エドゥアルド・ブロッホはあれほど深く悲しみに打ちひしがれた人間は見た事が無いと述べている。
一方、愛情はあったものの異母姉アンゲラと妹パウラは「愚かな鵞鳥」と呼び、パウラには家父長的に接して、平手打ちをする事もあったという。
秘書からは仕事のミスにも叱らない優しい人物だったと証言されている。
その一方で、男性は女性より優れるが女性に優しくする必要はない。女性に優しい国家は衰退するという発言もしている。
プロパガンダの為に子供と共にいる写真を多く撮った。ヨーゼフ・ゲッベルスの子供達からは「アディおじさん」と呼ばれ懐かれ、アルプスの別荘ではユダヤ系の少女ローザ・ベルニール・ニナウと親しかった。
恋愛、交際は下手だった。
この辺りは、父のアロイスが、結婚している身でありながら、他の女子に手を出しまくるなど奔放な性生活を送っていたのとは対照的である。
クビツェクの話では10代後半にシュテファニー・イサクという少女に恋をするも、自身は偶然を装って会っての挨拶程度しかアプローチせず、クビツェクに彼女の事を調べさせ、彼女との将来の結婚生活の妄想や彼女が下級将校と仲が良い事への嫉妬などを彼に語っていたという。
姪のゲリ・ラウバルには愛情を注いだが、彼女の自殺に大きなショックを受けた。
専属写真家の助手だったエーファとは、女子層の支持を気にして1930年代前半から死の直前まで結婚せず愛人関係のままだった。
それなりに恩義には報いる性格であり、母クララの癌を診ていた医師エドゥアルド・ブロッホはユダヤ人であったが、ヒトラーは彼に対しては弾圧をせず、アメリカへの亡命をも許可した。
また第一次世界大戦で上官であり、ヒトラーの勲章叙勲を推薦してくれたエルンスト・ヘスが反ユダヤ法で判事を辞職し、苦衷を記した書簡を送ったきた時にはヒムラーに彼を庇護する命令を出している。
一方でユダヤ人であっても親しい者には甘く、突撃隊や親衛隊設立に関わり、ヒトラーの運転手も務め、互いにファーストネームで呼び合う程に親しかったエミール・モーリスは曽祖父がユダヤ人であったが「名誉アーリア人」と認定してヒムラーから守り、アルプスの別荘で自分と誕生日が同じという事で親しくなったローザ・ベルニール・ニナウという少女が祖母がユダヤ人であると知ってもマルティン・ボルマンが彼女と彼女の母親にヒトラーと会わないように釘を刺すまで親交を続け、ボルマンの措置に「私のあらゆる楽しみを台無しにするのが本当に上手い連中がいる」と不満を漏らしたという。
また政権に役立つとみたユダヤ人300人以上を戸籍偽造などで保護して登用したという。
各国の経済状況などに対する知識は会見した軍人達を感心させる程であったが、アメリカとソ連に関しては前者は情報不足、後者は人種的偏見からか当初はその国力を過小評価気味であり、それが彼を破滅させたのかも知れない。
ただ、実は国防軍も第一次世界大戦時の経験から、ソ連・ロシアを甘く見ていたという話もあり、第二次大戦を生き残った高級軍人達には、自分の作戦ミスや虐殺への関与などを隠してヒトラーとナチ党に敗因の一部を押し付けているという指摘もある。
食生活
食生活に関しては中年になってからは気合の入った菜食中心で、独裁者とは思えないほど節制していた。溺愛する姪ゲリの自殺に痛嘆して《死体を食べるようなものだ》とハムを拒否したのが始まりとされている。
当初はソーセージやレバーまでは禁じておらず、総じて世間の肉嫌いと大差ない程度であったが、最晩年には完全な菜食に移行していたようで、遺歯からは肉の痕跡が全く見つからなかった(参照)。
また、母の嗜好や、父の死(酒と煙草の過剰摂取による脳卒中)の影響から酒を控えており、煙草には殆ど手を出さなかった。煙草に関しては、周囲に吸う人がいれば度々止めるように勧めており、禁煙を含めた健康政策を進めていた。
酒は断っていたというわけではなく、ビールやワイン程度なら時々飲んでいたのだが、上記の宣伝のために、どうも周囲には《飲めない》と思われていたようだ。
第二次大戦末期、ある作戦の初期戦況が良好だったため前祝いでワインを口にし、側近が素で驚愕したというエピソードがある。
ともあれ、上記のような潔癖ぶりはゲッベルスの宣伝によって美化され、清廉な禁欲主義者というイメージが形作られていった。
健康面
母がガンで亡くなった事などから健康に不安を抱いていたが、それが昂じて不安障害を抱えており、1920~30年代に精神科で治療を試みたがうまくいかなかった。
政権獲得後のストレスと疲労で健康状態が悪化し、テオドール・モレル医師を紹介されたが、彼は安易に劇薬を処方する面があり、次第に体は蝕まれていった。
戦争後半に別の侍医がモレルの処方を疑い、モレルがヒトラーに処方した薬を試しに飲むと、日ごろヒトラーが訴える症状が出たというエピソードもある。
また、1941年ごろからパーキンソン病を発していた(またはモレルの処方する劇薬による薬剤性パーキンソニズム)と言われており、戦争後半の無理な作戦指導の一因となったと言われる。
資産
ヒトラーは贅沢な生活にはあまり興味がなかったが、いわゆる銭ゲバだった。任期中党のスポークスマンは「無給で働き、口座もない」と喧伝していたが実際は受け取っていたし、口座もあった。その上税金の滞納は常態化しており税務署から何度も催促されても無視、しまいには「総統は免税対象である」と脱税を正当化してしまった。
この他にも新婚家庭に半強制的に購入させていた我が闘争の印税、切手や写真の肖像権、基金や囚人から押収した財産を横領するなどして莫大な資産を築き、一説には4000億円もの資産を有していたという。これらは主に党幹部や社会の支配層を繋ぎ止めるために使われていた模様。
遺書において、ヒトラーは自分の兄妹とその家族に「中産階級の生活が送れる程度の」遺産を贈与するとしている。おい、4000億円はどこへいった。
『我が闘争』
『我が闘争』(Mein Kmpf)はヒトラーが1923年ミュンヘン一揆の失敗後、獄中で口述筆記を始めた著書。
この中でヒトラーは自らの理念と指針、民族復活の計画をまとめ、非科学的根拠の元に《民族の人種的優越、東方への生存圏獲得》を説いている。
この中で、東洋人である日本人に対して「文化追従種」「二等種」など蔑視的記述も見られ、戦前戦中はそれらの部分をのぞいた翻訳本が日本で出回っていた。
東洋人蔑視の一方で「黄禍論はユダヤの扇動」と語って東洋との友好を説くなど、歪な対外観が窺える。
ヒトラー死後はバイエルン州が著作権を持っており、ドイツでは事実上の出版禁止となっていた。
ドイツやオーストリア以外の国では、書店において翻訳版が出版、発売されており、誰でも普通に読むことができる。
しかし、原書のドイツ語版は出版されておらず、古書としてしか読むことができなかったのだが、インターネットで簡単に読むことができることから、2016年2月、ドイツ・バイエルン州で学術書として出版、比較的高額であり、ナチスの政策に批判的な注釈をつけているとはいえ、ヒトラー信奉者はその部分を飛ばして読むのではないかとの懸念・批判が、現在起こっている。
軍事面
ヒトラーは軍事面を極めて重要視し、軍事こそ国家の礎と見なしていた。
政権掌握直後から軍部を掌握し、戦時指揮も直接行うほど熱がこもっていた。
兵器では通常兵器に重点を置きながら、一年以内に配備可能な新兵器の開発に力を注いでいた。機甲部隊の設立を許可したのは彼であるが電撃戦理論には否定的であり予算もまわさなかった。
側近から原子力開発(=原爆開発)を度々提案されたが、ヒトラーは否定的だった。
完成には一年以上もの長期的時間を要したため後回しにされ、さらに原子力の基礎理論である相対性理論がユダヤ人のアインシュタインによるものだったため、原子力をユダヤ的と見なして反ユダヤ主義のヒトラーは受け入れるはずがなかった。
また、ナチスの科学者が作ったかの毒ガス兵器サリンも結局最後まで使用許可を出すことはなかった。これは先述の毒ガスによる負傷から毒ガス自体を憎んでいたとも、毒ガスによる報復を恐れたためとも言われている。
反ユダヤ主義
ヒトラーが反ユダヤ主義であった事は疑いのない事実であるが、その反ユダヤの意識が、彼の生い立ちの中、どのような過程で育まれたのかについては数々の研究にもかかわらず未だ決定的な理由は見つかっていない。
少なくとも、幼少期には極端な反ユダヤの行動は見られておらず、青年になってからもユダヤ人との付き合いが確認されている。
ただ、政治家としての道を歩み始めた30歳頃には、演説で《ユダヤ人は寄生動物》と堂々と発言しており、この頃には徹底した反ユダヤ主義を持っていたと推察されている。
そして、これは彼個人の狂気ではなく、多くのドイツ人支持者は、そのような演説を聞いても選挙においてヒトラーとナチスに投票していた。
ヒトラーは「総統」の地位につくまでに、数々の非合法スレスレな手段も使っているが、その前提となる《国会議員》の資格をヒトラーに与えたのは、紛れもなくドイツ人の支持があったからである。
ホロコーストについても、ヒトラー個人だけでは絶対に不可能な規模であり、ユダヤ人虐殺を積極的に支持するドイツ人を筆頭とするヨーロッパ人がいて、初めて可能となった。ドイツが進駐したヨーロッパ各国では、ホロコーストを積極的に手助けした多くの地元民が確認されており、その圏外でも、逃げてきたユダヤ人をドイツへ追い返した例は枚挙に暇がない。
このように、反ユダヤ主義は当時のヨーロッパで決して珍しいものではなく、ヒトラーのそれも取り立てて特別視するほど強いものでもなかった。例えば、ヘルマン・ゲーリングは、学生時代に「尊敬する人物」という題材での作文の宿題に、育ての父とも言える者の名前を書いたところ、「そいつはユダヤ人だ」と校長からこっぴどく叱られた上に「我が校の生徒がユダヤ人を尊敬することなど許されない」として「ユダヤ人を賛美した作文は二度と書きません」という文を100回も書かされたあげく、級友からも「私の代父はユダヤ人だ」というプラカードを付けられるといういじめを受けた経験がある。本人がユダヤ人でなくとも、ユダヤ人と付き合いがあるだけで攻撃を受けるというのが、当時のドイツの風潮であった。
しかし、それを法的に正当化し、ユダヤ人という特定の民族を絶滅対象とする考えを政策として実行した点で、ヒトラーが後世に与えた歴史的影響は果てしなく大きい。
対日観
当初のヒトラーの対日観は上述の『我が闘争』でも書くほど否定的だったが、同盟関係が結ばれて以降は肯定的な発言を増やしていった。その根拠としてもユダヤ人はしばしば引用され、「ユダヤ菌に汚染されていない日本は好ましい」という極めて差別的な言葉遣いで日本を称賛している。
当の日本では日猶同祖論(日本人とユダヤ人の始祖は同じであると言う言説)があったくらいなのだが。
人種の優劣を説き世界征服を目指すヒトラーにとって、建前とは言え植民地解放と大東亜共栄圏を目指す日本は脅威でしかなく、日独関係は日英同盟のように一時的に共通の敵に対抗するものでいずれは解消されるとしていた。さらに将来的にドイツは日本と対立し、敵国として対決すると口にしていた。接見した満州重工業の総裁に対して、皇室の伝統を称賛しながらも「日本は絶対に機械作りで我が国に勝てないだろう」と軽蔑的な心境を吐露している。
しかし、同盟関係が深化するに連れてこの様な蔑視は減り、国民に和食普及や日本語教育を試みるなど、日本文化に傾倒。日本軍が真珠湾攻撃に成功した知らせを聞いた時にヒトラーは、「我らは戦争には絶対に負けようがない! 今我らには3000年間、征服されたことがない同盟国があるのだから」と勝利の確信を叫んでいる。
神風特攻隊についても、ナチスや報道局は「英雄」(ヘルト)と誉め讃えつつ戦果を強調した。カミカゼの影響は大きく、ヒトラーやハヨ・ヘルマンなどの幹部達が、ドイツも「自己犠牲攻撃」を行う必要があると考えて「エルベ特攻隊」(ゾンダーコマンド・エルベ)を設立し、パイロット達を敵軍に体当たりさせた程であった。
戦局悪化と共にヒトラーの考え方は悲観的になって行き、敗戦直前の遺書では「我々にとって日本は如何なる時でも友人であり、この戦争の中で我々は彼らを益々尊敬することを学んだ。ドイツと日本は一緒に勝つか、それとも、共に亡ぶかである」と滅びの美学的な賛辞を送っている。その後の日独が一緒に敗戦したにもかかわらず、ドイツは亡び、そして日本は生き残った結果を鑑みると、皮肉な賛辞であった。
もっとも、大日本帝国もその国体は滅び、領土の多くを失った結果を考えればある種間違ってはいないともいえるが。
家族
母・クララや姪・ゲリ・ラウバルなど親しい親族もいたが、父・アロイスとは折合いが悪く、男の兄弟は早逝している。父は性に奔放であり、浮気性でもあったため、異母兄弟が多くいた。
この様な複雑な家族構成であったためか、アドルフ・ヒトラーは《一族》という概念自体を嫌っていたとされ、有名となってからも家族や親戚のことを探られるのを極端に嫌った。
独裁者になると、要職を親族間で分け合って、国家財産を独占することも珍しくないが、ヒトラーはこの例に当てはまらなかった。親族はほとんど遠ざけて、マスコミからも隠す様にしていた。
「私は自分の一族の歴史について何も知らない。私程知らない人間はいない。親戚がいることすら知らなかった」
と、ヒトラー自身が語っている程、ヒトラーは親族について探られることを嫌った。
このため、ドイツ史上最高権力を手にした独裁者が親戚でありながら、ヒトラーの親族は、ほとんどその恩恵に預かれず、せいぜいが閑職を世話されるくらいが関の山であった。
しかし、戦後はヒトラー一族というだけで迫害され、投獄されたり、殺害されたりした者もいるなど、悲劇に見舞われた。
なお、アドルフ・ヒトラーには子供はいなかったとされている。
ただ、1972年にジャン・マリー・ロレットなるフランス人が「自分はヒトラーの息子である」と名乗り出たことがある。ジャンによれば、母・シャーロット・ロブジエが1918年(第1次世界大戦中)、当時はまだ単なる兵士であったヒトラーと情を交わし、ジャンが誕生したという。
ごく僅かながら彼の話を支持する歴史家も現れたが、具体的な証拠がないため、作り話とされることが大半である。
ヒトラーの親族の中で、変わり種といえば、ウィリアム・パトリック・ヒトラーが挙げられる。ヒトラーの腹違いの兄弟の息子、つまりは甥に当たる。アイルランド人との混血として、イギリスに生まれる。1930年代にドイツを訪問し、当時は既に政治家として頭角を現していた叔父アドルフに、半ば脅迫混じりに仕事を世話するように要求。閑職を世話されるも、それに満足しないと、米国に渡って、米軍に入隊したという、かなり変わった経歴を持つ。なお、当初、米軍は彼の背後にヒトラーがいるのではないかと疑い、入隊を許可しなかった。入隊が出来たのは、1944年と遅く、このため彼は前線には配されなかった。ただし、負傷はしており、そのために勲章を貰っている。
ウィリアムが、叔父・ヒトラーをどう考えていたのかについて、残された資料はない。ただ、ウィリアムは戦後、姓をスチュアート=ヒューストンに改めている。ヒトラーとの決別かとも思われるが、一方で、この姓は、小説家・ヒューストン・ステュアート・チェンバレンから取ったのではないかとの説がある。チェンバレンは、強い反ユダヤ主義の持ち主であり、ヒトラーに様々な影響を与えたとされる。この様な姓を選んだウィリアムの本心は、今でも謎のままである。
メディア
ヒトラーは様々なメディアで人心を掌握して行った。彼の部下であるゲッベルスは、国家戦略的なプロパガンダの先駆者として名高い。
ヒトラーとナチズムを風刺したチャップリンの映画『独裁者』をヒトラー本人が2度鑑賞した記録があるが、感想は残っていない。
発言例
ヒトラーは象徴的・神話宗教的な表現を多用しており、その発言には《神》等が良く登場する。
彼の思想によればアーリア人種(ドイツ人種)は《天才》《神的》《神人》で、全人類文化はアーリア人種起源であり、一方ユダヤ人は《吸血鬼》《細菌》《獣的大衆》《半獣》である。
- 『わが闘争』上巻(角川文庫)
- 「この遊星は既に幾百万年も、エーテルの中を人間なしで動いていた」(375ページ)
- 「我々が今日、この地上で賞賛している全てのもの ── 科学・芸術・発明 ── はただ少数民族、恐らく元来は《唯一》の人種の独創力の産物であるに過ぎない(375ページ)
- 「文化創始者としてのアーリア人種」(377ページ)
- 「アーリア人種のみがそもそもより高度の人間性の創始者であり、それ故、我々が「人間」という言葉で理解しているものの原型を作り出した」(377ページ)
- 「アーリア人種は、その輝く額からは、いかなる時代にも常に天才の神的ひらめきが飛び出し、そしてまた認識として、沈黙する神秘の夜に灯を灯し、人間にこの地上の他の生物の支配者となる道を登らせたところのあの火を常に新たに燃え立たせた人類のプロメテウスである」(377ページ)
- 「全人間の創造物の基礎や周壁は彼ら[アーリア人種]によって作られており、ただ外面的な形や色だけが、個々の民族のその時々に持つ特徴によって、決定されているに過ぎない。…日本は多くの人々がそう思っている通り、自分の文化にヨーロッパの技術を付け加えたのではなく、ヨーロッパの科学と技術が日本の特性によって装飾されたのである」(377 - 378ページ)
- 「実際生活の基礎は、例え、日本文化が ── 内面的な区別なのであるから外観では余計にヨーロッパ人の目に入って来るから ── 生活の色彩を限定しているにしても、最早特に日本的な文化ではないのであって、それはヨーロッパや米国の、従ってアーリア民族の強力な科学・技術的労作なのである」(378ページ)
- 「人類の文化発展の担い手であったし、今でもそうである《唯一の》人種 ── アーリア人種」(382ページ)
- 「アーリア人種はこの内面的な志操によってこの世界における彼らの地位を得たのであり、世界に人間が存在しているのもその志操のお陰である」(388ページ)
- 『ヒトラー語録』(原書房)
- 『霊性進化論の光と闇』
- 「人間は、生物学的に見るならば、明らかに岐路に立っている。新しい種類の人類はいまその輪郭を示し始めている。完全に自然科学的な意味における《突然変異》によってである。 … 創造力は、すべて新しい種類の人間に集中することになろう。この二種類の人間は、急速に、相互に逆の方向へ発展している。一方は、人間の限界の下へ没落していき、他方は、今日の人間のはるか上まで上昇する。両者を《神人》及び《獣的大衆》と呼ぶことにしたい。 … 《人間とは生成途上の神である》。人間は、自己の限界を乗り超えるべく、永遠に努力しなければならない。立ちどまり閉じこもれば、衰退して、人間の限界下に落ちてしまう。半獣となる。《神々と獣達》。世界の前途は今日、その様なものとして我々が行く手にあるのだ。こう考えれば、全ては、何と《根源的で単純》となることか」(102ページ。初出は『永遠なるヒトラー』296 - 297ページ)
- 『ヒトラー(上):1889 - 1936 傲慢』(白水社)
- 『ヒトラー(下):1936 - 1945 天罰』(白水社)
- 「敵は最早人間ではない。連中は獣だ」(432ページ)
- 「戦後に全面的な解決策を見出さねばならないのは明らかだ…それは、キリスト教的な世界観とゲルマン英雄的な世界観の間の解決不能な対立なのだ」(480ページ)
- 「もしユダヤ人が思うままに振る舞ったら、彼らは彼らの計画を実行するであろう。それは人類にとってペストの発生源となる…何故なら、ある国家がたった1つのユダヤ人家族の存在を国内で認めただけで、それが新たな解体を引起こす細菌発生源となるからだ」(500ページ)
- 「思うに、法律家というのは皆、生まれ付き欠陥があるか、それともやがてそうなるかのどちらかに違いない」(535ページ)
- [松岡洋右外相について]「米国の聖書宣教師の偽善と、日本的、アジア人的な狡猾さを併せ持つ」(398ページ)
- [大日本帝国の真珠湾攻撃について]「我らは戦争には絶対に負けようがない! …今われらには3000年の間、征服されたことがない同盟国があるのだから」(473ページ)
注意
規制の現状
ドイツ国内では、ナチスやヒトラーを賞賛したりするのは法律で禁じられており、ネオナチが度々処罰対象となっている。
正確には《民衆扇動罪》であるが、ドイツでは反ナチ法の基本ともなっている。また、オーストリアやフランスなどでも法的に禁止されている。
冗談でもドイツ人やユダヤ人の前でナチス式敬礼を行ったり、ドイツをナチス聖地巡礼として訪れたり、ナチス軍服をコスプレと称して着て街中を歩くことをしてはならない。不謹慎を通り越して身柄を拘束される恐れがある。
ただし鉤十字さえ外せば個人でやる分には問題なく、今のドイツでも当時のドイツ軍の愛好家・コスプレイヤーは居る。第3帝国期に製造された鉄道車両を博物館等で保存する場合も、紋章などから鍵十字を外せば完成当時の姿で陳列が可能。大戦中に鉄十字勲章などを授与された軍人は西ドイツでは戦後も佩用を認められたが、その時は中央の鍵十字をなくしたデザインの「戦後型」を使う必要があった。
ヒトラーを連想される行動やパフォーマンス、髭もNG。また、ハイル・ヒトラーのイニシャル《HH》や、Hがアルファベット順で8番目に位置することから《88》という数字も嫌われる。
また、《アドルフ(Adolf)》の《A》やアルファベット順《1》、《ヒトラー(Hitler)》の《H》や《8》、ナチスが良く使った《ジークハイル(Sieg Heil)》の《S》や《19》も嫌われており、オーストリアではこれらの数字が自動車ナンバーに使用されることが禁止される程である。
前述のヒトラーを扱った映画『最期の12日間』も2004年にしてドイツ初の試みであったほど、EU各国やイスラエルではナチスとヒトラーはタブー視されている。
ただし、連合国でもナチスの占領を受けなかった英国と米国、それに当時の政体が否定されているロシアは、比較的寛容である。
英国人や米国人は、ナチよりソ連嫌いの方が多く(これはドイツを資本主義国として組込むことに成功した事も関係している)、ビッグ・ベンの目の前で武装SSのコスプレをして記念撮影したり、IV号戦車の1/1モデルを製作したりと、他地域では考えられない程気合が入ったナチ趣味人がいる。2005年には、ヘンリー王子が仮装パーティーで鍵十字の腕章を着けた。
ロシアやウクライナに至っては、趣味を通り越して本気でヒトラーを崇拝するマジモノのネオナチが存在する。該当地域には独ソ戦犠牲者の遺族も多いため、その軋轢は甚大である。本来ナチズムはロシアやウクライナ等のスラブ民族を劣等種と見做しているが、近年のネオナチはスラブ民族を「アーリア人」という大きな括りで同化する動きがあり、単なる白人至上主義への変質が指摘されている。
ナチスの逆鉤十字マーク「ハーケンクロイツ(Hakenkreuz)・卐」が、日本の地図で寺を示す記号「まんじ・卍」を逆にした形と似ており、これも扱う際は注意が必要である(事情を知らない外国人が良く誤解する)。
なお、鉤十字(Swastika)は、古くから洋の東西問わず幸運の意味で使われ、インディアンにも似た模様があり、フィンランド軍も、大戦中にナチとは無関係で使用している。
大戦後は元々の経緯を問わず、ナチスのイメージと結び付けて認識・規制される様になった。
また、前述の通り、ヒトラーの名前である「アドルフ」を避ける様になっている。元々アドルフとはドイツ語で「高貴な狼」という意味で、北ヨーロッパを中心に欧米で一般的な名前であった。しかし、戦後は一転して、まともな親は付けることがなくなった。同名の者が改名した例も枚挙に暇がなく、オーストリアの俳優・アドルフ・ウォールブルックがアントンに改名したエピソードが有名。
ただし、ドイツと関わりが薄かったスペイン語圏では、今もごく一般的な名前である。
アジアにおいて
ドイツと地理的に遠く忌避感が少ないアジア諸国では、割と遠慮なくイジられる傾向にあり、台湾や韓国でも、都市部の看板にナチスをもじった意匠が散見される。アイドル歌手がナチスを連想させるパフォーマンスを行ったこともあるが、大きな問題とはなっていない。
無論元同盟国でサブカル大国たる日本でも割と遠慮なくイジられており、総じてヨーロッパと比べればそこまで極端にタブー視されている訳ではない。
しかし、例えアジアであっても、ナチス信奉者と認められれば、ドイツやイスラエルなどに入国禁止となる可能性はある。例を挙げると…
- 2011年には、氣志團がテレビ番組で「ナチス風衣装」を着た。
- 2013年に麻生太郎副総理(当時)が「憲法は、ある日気付いたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気付かないで変わった。あの手口学んだらどうかね」等と発言し、国内外で物議を醸すこととなった(ちなみに、麻生氏は勘違いしていた様であるが、ワイマール憲法は全権委任法で無効化されたのであり、ナチス憲法なるものは存在しない)。
- また、2014年12月31日に行われたサザンオールスターズの年越しライブで、桑田佳祐がチョビ髭を付けてパフォーマンスをしたところ、「ヒトラーに扮したのではないか」という苦情が殺到し(そう思われたのは、この時桑田が歌唱していたのが政治的意味合いが強い楽曲であったためであり、さらに紅白歌合戦特別コーナーとして全国のお茶の間に放送されてしまったことも問題を大きくしてしまうこととなった)、後日桑田が謝罪する事態にまで発展したことがあった。
- 2016年11月には欅坂46がナチスを連想させる衣装を着てライブイベントを行ったとして、ユダヤ人団体が抗議し、謝罪している。
- 2018年には、防弾少年団の鍵十字の帽子を被った写真や、ナチス風衣装を用いたパフォーマンスに対し、上記の団体が抗議している。しかもこの直前、原爆Tシャツが原因でミュージックステーションの出演が中止になっていた。
- 2022年には菅直人立憲民主党最高顧問が橋下徹氏をヒトラーに喩えて問題となった。橋下氏と関係が深い維新の抗議に対し立憲民主党は個人の発言であると問題にせず、菅氏自身も「私がいったことなら私に直接抗議すれば良いのに」と発言した。
ヒトラー論法
世界でも類を見ない悪行を犯したことから、相手をヒトラーに喩える論法が使われることが多い。「ナチスカードを切る」とも。
例えば「ナチスがタバコ規制をしていことをご存知ですか?」といい、タバコ規制活動はナチスであるとしたり、「ヒトラーがベジタリアンであった」といってベジタリアンを貶めたりなどして使われている。
米国のマイク・ゴドウィン氏は「ネット上で議論が長引くとヒトラーを持ち出す確率が高くなる」といい、持ち出された際には「ゴドウィン点に達した」と呼ぶ。
ヒトラーではないが、元・国家安全保障局長の北村滋は反権力勢力からアイヒマンに喩えられることがある。
創作の中のヒトラー
ニコ動において
映画『ヒトラー~最期の12日間~』の映像にデタラメな字幕を付けたMADが《総統閣下シリーズ》としてニコ動で一部オタクに人気となった。
また、音MADなども作られており半ばネットの玩具と化している。美大落ちなどと揶揄されることも。海外でネタとされる場合は「Austrian Painter(オーストリア人画家)」とも揶揄されることもある。
『ペルソナ2罪』において
ATLUSのRPG『ペルソナ2罪』に、まんまの名前と見た目でボス敵として登場。
親衛隊も普通の敵として登場〈ペルソナ封じなどの嫌らしい攻撃をしてくる〉。
PSPリメイク版では、別の名前〈フューラー〉に差し替えられていて見た目もサングラス付のものに描き直されている。
当然ヒトラー本人ではなく、噂により出現したある登場人物の化身の1つに過ぎない。
『スプリガン』において
ネオナチの手でクローンの肉体と聖杯に封じられている魂を用いて復活した。
多重人格者であり、優しい人格が本来のもので、周囲の重圧と国民の期待に耐え切れず独裁者の人格を生み出してしまった。
いつしか別の人格が肉体を支配し、歴史に語られる様な惨状を招いたことから本来の人格が表に出た際に自殺している。
復活後は基本は本来の性格であるがネオナチの呼掛けにより独裁者の人格が表に出てしまう。
生前から魔術を扱うことが出来、様々な収集物を魔術を用いて洞窟に封じている。
復活後は触れただけで怪我を治療する、銃弾を受けても治癒の力により死ぬことはない、オーパーツのヴァジュラを扱う力を得るが力が強過ぎることでヴァジュラは暴走、様々な遺物と共にヴァジュラの爆発でこの世を去った。
『D-LIVE!!』において
《ブラジルから来た少年》《Uボート》《レリック》にて遺産のありかを示す絵を残した人物として登場。
遺産を示す絵は鑑定の結果、死後に描かれている事から手掛かりとしてタッチを似せた絵を彼の作品だと偽っているのではと推測されていた。
海底のU-112内に残されていた遺産はワーグナーのニーベルンゲンの指輪のSP盤レコードであったが、それ自体が高い価値を持つものの、録音された音楽にノイズとして偽装された地下資源データこそが遺産であった。
その後の調査で1945年に妻と共にドイツを脱出しており、U-112で日本に辿り着いたことが判明。
彼と思わしき老人が登場し、妻にいわれて一枚の絵を描いて息子と共に信用出来る人に預けていることを語っているが、生きていた当人かそれとも縁ある人物に語り掛けた幻かは不明。
また、遺産である中東の地下資源データは物語終盤で重要な役割を果たす。
『孔雀王』において
八葉の老師の化身であるハウツホッファーの手によって脳だけが機械の体に移植され、ジークフリード総統として復活した。この他本人ソックリの容姿のクローンも登場している。
『ムダヅモ無き改革』において
総統地下壕で死んだのは影武者という設定。配下ともども科学力で若さを維持したまま生存しており、月面に第四帝国を築いている。本気を出すとスーパーアーリア人となり、金髪に変化する。
『最後のレストラン』において
自殺を目前にしたアドルフであるが愛犬ヴォルフを追い掛けている内にレストラン「ヘブンズドア」へとタイムスリップ。「"幸福"を知る一皿」を注文し食事に満足しランゲ&ゾーネの懐中時計を報酬に置いて行った(第2巻6話収録)。
『アフリカン・カンフー・ナチス』において
総統地下壕で死ぬ前に東條英機元総理と潜水艦でアフリカに亡命した設定。東條英機から教わったカラテでガーナを征服し、旭日旗に卍が描かれた「血染めの党旗」で現地人を洗脳し「ガーナアーリア人」に仕立て上げる。
映画の発案者であるヒトラー役の男は、DJアドルフ(後述)を作った前歴がある。
『ダウンロード2』において
PCエンジンの横STGで、民族評議会日本支部により脳情報が盗み出されてニューロメモリーにダウンロードされたことで電脳空間で復活。テンプレ的な復活した世界征服を企む悪役。
『劇画ヒットラー』において
水木しげるの漫画作品。ここでは「ヒトラー」ではなく「ヒットラー」と表記される。
水木らしいユーモアを交えつつ冷徹な目線で、英雄とも狂人とも決めず、あくまで一介の人間として捉え、独裁者・ヒットラーの実像を描いた。
彼がいかにして若き画家志望から独裁者となり破滅へと至ったかを描く。
『水木しげるのノストラダムス大予言』において
大邪神シーレンの手先となり、第2次世界大戦を引起こす独裁者。自分をコキ使っていた死神伯爵が自らがユダヤ人とバレると知ると射殺し、その冷酷さと邪悪さを見込まれシーレンに2代目「地獄の王」総帥に任命される。
ナチスドイツ壊滅後も影武者を用いて逃げ延び、暗躍する。
終戦記念日に、ダニエル・ヒトラー(勿論架空人物)という息子を授かる。
第1次中東戦争を引起こし、ハルマゲドンの口火を切るも、メフィストとの戦いで火山島に転落し焼死する(これが原因で、当時3歳であったダニエルは悪魔くんを憎悪し、巨悪な敵として立ちはだかる)。
実は、1万2千年前に神罰により滅ぼされたムー大陸の悪人達の魂が転生した存在。
その他メディアにおいて
ドイツでは一時期、ヒトラーがジャーマンテクノのDJをする「DJアドルフ」というネタがネット上に出ていたことがある。なお、見ても分かると思うが、ヒトラー崇拝などではなく、寧ろ徹底してヒトラーをコケにするための動画である。なお、この動画の製作者はこれが原因でネオナチに目をつけられた。
関連タグ
独裁者 ナチス 第三帝国 ファシズム ヒトラー~最後の12日間~ ブルーノ・ガンツ 総統閣下シリーズ アドルフに告ぐ 閣下これくしょん 劇画ヒットラー 帰ってきたヒトラー 第二次世界大戦 WW2
服部敬雄:山形県の実業家。山形新聞社社長・山形放送社長・山形テレビ相談役・山形交通(現・山交バス)会長を歴任。山形県の政治・経済・マスメディアを独裁的に支配していたことから、「山形のヒトラー」とも呼ばれていた。
ヒトラーをモデルとした創作キャラ
関連人物
(最高幹部及びA級戦犯者)
- エルンスト・レーム
- ヨーゼフ・ゲッベルス
- ヘルマン・ゲーリング
- ルドルフ・ヘス:下記と同姓同名、ナチス親衛隊中佐、アウシュヴィッツ初代所長
- ルドルフ・ヘス:上記と同姓同名、ナチス総統代理
- ハインリヒ・ヒムラー
- カール・デーニッツ
- アルベルト・シュペーア
- アドルフ・アイヒマン
- ヨーゼフ・メンゲレ
- マルティン・ボルマン
- アロイス・ブルンナー
- ラインハルト・ハイドリヒ
- ヨアヒム・リッベントロップ
- ロベルト・ライ
- ヴィルヘルム・カイテル
- エルンスト・カルテンブルンナー
- ハンス・フランク
- バルドゥール・シーラッハ
- アルフレート・ヨードル
- エルヴィン・ロンメル
親しい人物
関連する外部リンク
学術研究情報
- 「ナチ宣伝」という神話(東京大学社会情報研究所助手・佐藤卓己)
- 『ブラッドランド:ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』 ─ TRANSLATOR's(出版翻訳家・布施由紀子)
- 『ブラッドランド』刊行記念書評(一橋大学名誉教授・田中克彦、フリーライター・武田砂鉄、京都大学人文科学研究所准教授・藤原辰史)
一般情報
ヒトラー生存説やヒトラーを肯定しているページ
関連動画
ヒトラーの有名な演説の一部
扇動者
独裁者
私人
恐喝者