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曖昧さ回避編集

党の組織⇒国家社会主義ドイツ労働者党

詳しい党史⇒国家社会主義ドイツ労働者党史

党主要人物について⇒第三帝国

の各項を参照のこと。



概要編集

国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 、略称:NSDAP)の一般的な呼称。「ナチ党」とも。

1933 - 1945年までの第三帝国時代のナチスドイツに関連するイラストに付けられるタグ


1939年9月1日、彼らの主導でドイツ国防軍がポーランドに侵攻したことで第2次世界大戦WW2)が勃発したため、WW2という戦争を理解する上では避けて通れない存在であるとも言える。

WW2中にドイツが犯した戦争・虐殺行為などの責任が語られる際には必ずといって良い程ナチスが引き合いに出される。


1871年から政体が変わりながらも(帝制→共和制)続いて来た祖国を、他国による占領・東西分裂という悲惨な結果に導いたのも彼らである。

ユダヤ人など特定民族を異常なまでに憎み、本来なら前線に配するべき軍の一部を割いてまでユダヤ人狩りに当てるなどの政策は、同じ枢軸国の日本イタリアですら懐疑的になる程、極端なものであった。


ちなみに、彼らの悪意は民族のみならず、自民族内の障害者や同性愛者にも向けられ、彼ら向けの安楽死政策が実行されていた。


欧米でも「悪役」として大人気でありフリー素材同様の扱いを受けている。本邦では特に悪役以外にも「味方」や「良い人」などにナチスをモチーフにしたキャラが登場することがあり、そうした場合には輸出時に「ナチ賛美」であるとして問題とされることがある。近年ではそうしたこと情からリスク管理の1つとして、そういったキャラをそもそも登場させない傾向にある。

そもそも、「ナチスは良い事もやった」という意見も有るには有るが、それらの意見を個別に検証していくと

  • ナチスが政権を取る前から起きてた事がナチスの手柄にされた(例:失業率改善, 源泉徴収制度)
  • ナチス以前の政権が計画したもので、ナチスが政権を取ってからは逆に規模などが縮小した(例:アウトバーン)
  • ナチスが計画したが、結局は計画だおれで、しかも、その計画も『本気でやる気が有るのか?』と言いたくなるような杜撰な代物(例:国民車計画)

など死屍累々な状態であり、ナチスのやった事を1つ1つ検証し「『ナチスがやった事の中でも、これは善い事じゃないのか?』と言う人も居るが、実際はデマ」を除外していくと、やっぱりナチスがやった事の大半は悪事で数少ない「善い事」と言えるモノは、最もマシなモノでさえ大した成果を上げてないモノを針小棒大に喧伝してるだけ、次にマシなモノは「成果」を上げる過程において人道的に色々マズい真似をやらかしてる、と云うミもフタもない結果になる事からしても、ナチスはやっぱり悪役扱いされて然るべき連中と言えるだろう

残念ながら、「脳内御花畑な理想主義者よりも、悪い奴の方が有能」「悪以外の事に関しても有能な悪は存在する」なんて事は中二病の皆さんの妄想の中にだけしか存在しないのかも知れない。


ちなみに、「ナチ」「ナチス」は、党反対者による蔑称であり、ナチス党員は決して使わなかった。ただ、当時の同盟国であった日本では、蔑称であったということが余り伝わらなかったらしく、新聞でも普通に「ナチス」「ナチス独政府」などと使っていた。日本政府から、ヒトラーユーゲントの来日を歓迎する歌の作詞を依頼された北原白秋は、その歌詞の中で「万歳ナチス」と書いている(実際に来日したヒトラーユーゲントの子供達の前でも披露されたらしいが、彼らがどういう感想を持ったのかは記録に残っていない)。




シンボルマーク編集

ナチスは古来より民族主義の象徴とされて来たハーケンクロイツ(=鉤十字)を党のシンボルとして使用した。

ハーケンクロイツ


  • 寺院の地図記号に用いられている「(まんじ)」とは似た形状であるものの、線の曲がる方向が逆でありまったく別の紋章である。しかし、海外ではあらぬ誤解を受けるためか、デザインとして忌避されるケースも見受けられる。
    • 少林寺拳法は当初、「卍」マークを用いていたが、ハーケンクロイツと近似するデザインと国際展開に於いて重大な支障となることから「双円(円を2つに重ねる)マーク」に変更された。
  • 欧州諸国では良く知られたタブーの1つ。冗談でもナチス賛美などしない様に。ドイツにおいては未だにドイツ刑法においてナチス賛美は処罰の対象である。
  • ただし、英国は比較的緩い。武装SSの格好をしてロンドンを行進しビッグベンの正面で記念撮影をした勇者がいる。ヘンリー王子が仮装パーティーでナチに扮したことも(後でパパラッチされ大騒動になったが)。後、連合国では米国、それに直接侵攻を受けたはずのロシアウクライナバルト三国以外の旧ソ連諸国)も割りと寛容。


簡単な沿革編集

党結成から政府による活動禁止処分まで編集

1918年
  • 3月7日、ドイツ帝国ミュンヘンにて、アントン・ドレクスラーが、労働者グループ『ドイツ労働者の平和に関する自由委員会』を結成。
  • 11月9日、ドイツ革命により帝政崩壊。ドイツ帝国は滅亡する。
  • 11月11日、第一次世界大戦終結。
1919年
  • 1月5日、自由委員会、『ドイツ労働者党』に改名。カール・ハラーが党首である第一議長に就任。
  • 2月11日、社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトが大統領に就任。ヴァイマル共和国成立。ちなみに世界初の社会権を定めたヴァイマル憲法はこの時にできたものである。
  • 10月19日、アドルフ・ヒトラー入党。
1920年
  • 2月24日、党名称を「国家社会主義ドイツ労働者党」に改名。
1921年
  • 7月29日、党首選挙により、アドルフ・ヒトラーが党第1議長に就任。この後、ヒトラーは、周囲から「総統(ドイツ語:Führer/フューラー、指導者)」と呼ばれるようになる。
1923年
  • 1月11日、賠償金不払いに業を煮やしたフランス共和国がルール工業地帯を占領。だが労働者はストライキで応戦。共和国政府はストライキ中の賃金保障を確約するが、こともあろうにマルク札を大量に刷る事で対応する。結果ハイパーインフレに突入し一気に政情が不安定になる(マルク大暴落)
  • 11月8日、共和国政府打倒を目指してクーデター未遂事件のミュンヘン一揆を主導。この事件の結果、ヒトラーを含む首謀者が逮捕され、党の活動が政府によって禁止された。

活動再開 - 政権与党になるまで編集

1924年
  • 5月4日、国政選挙。党が活動禁止のため、ドイツ民族自由党と連携して『国家社会主義自由運動』と称する党派を結成。472議席中32議席を獲得。
1925年
  • 2月、政府によって、党活動禁止が解除、再結成党大会を開催。
  • 28日、エーベルト大統領死去。
  • 4月、保守派重鎮であるヒンデンブルク大統領が誕生。これにより政情は安定、ナチス含む極左、極右は次第にそっぽを向かれて行く。
  • 7月18日、ヒトラー、獄中筆記による『我が闘争』を出版。
1928年
  • 5月、国政選挙における初めての単独で議席を獲得。
1929年
  • 10月24日、世界恐慌発生。ドーズ公債などで後ろ盾となっていた米国が緊急策として公債発行を停止したため一気に経済が冷え込んだ。翌年には失業者300万人、3年後には600万人にまで膨れ上がる。
1930年
  • 9月、国政選挙が実施。国民の不満が起爆剤となり、消滅寸前から一気に第2党に躍進。
1932年
  • 7月、ナチス勢力拡大に恐れをなしたフランツ・フォン・パーペン首相は国政選挙を再び実施。だがさらに飛躍し608議席中230議席を獲得、第1党となる。この時「首相にしてくれ!」とヒンデンブルクに直訴したヒトラーであったが、“ボヘミアの伍長”と嫌っていたヒンデンブルクはこれを拒絶。
  • 11月、共産党と連立を組もうとし、失敗したナチスの勢いを削ぎたいがために再度国政選挙が実施。結果ナチスは34議席を失うも代償にパーペン内閣は倒れた。
  • 12月、パーペンの後釜にクルト・フォン・シュライヒャー将軍が首相に任命されるが左右両派の懐柔に失敗。共産党大勝に資本家達はナチス支持に戻ったため、ヒンデンブルク大統領は軍事クーデターによる独裁政権樹立か、ナチスに政権を譲るかの二者択一に迫られる。
1933年
  • 1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に指名、ヒトラー内閣が発足。しかしヒトラーによる暴走を阻止するために閣僚のほとんどはヒンデンブルクの息のかかった者達だった。この時、“我々はヒトラーを雇ったのである。”とパーペン副首相は残しているが、史実は残酷である。

※なお、「ナチスはドイツ国民の圧倒的な支持により独裁政権を獲得した」と思っている人が少なくないが、実際には、全権委任法成立前の国政選挙でナチスが40%以上の議席や得票率を得た事は無く、最初に政権与党となった際は、その中でも最大多数派とは言え連立与党の1つであり、しかも、少数与党(野党所属の国会議員の方が与党所属の国会議員よりも多い)であった。早い話が「与党第一党になれたが、あくまで他の政党との連立政権。国民の圧倒的な支持など無く、政権基盤は極めて脆弱」な状態から、一気に独裁体制を築いた訳である。つまる所、ナチス独裁政権の誕生は、国民支持よりも以下の要因の方が大きい。

  • 政局(当時の大統領であったビンデンブルクに取って首相として指名出来そうな政治家がヒトラー以外居なくなった)
  • 連立内閣を組んだ他の政党のミス(要は最大与党とはいえ、ポッと出の政党であるナチスに対して舐めプをやってしまった)
  • ビンデンブルク大統領による大統領緊急令乱発(ナチスが独裁体制を確立する前から既に民主主義体制が骨抜きにされていた)
  • 対立政党政治家を不当逮捕する

全権委任法の成立とドイツ国会の完全制覇編集

1933年
  • 2月27日、国会議事堂放火事件。ドイツ共産党に対する弾圧を実行。
  • 3月、国政選挙実施、ナチスが大勝。さらに、共産党議席を剝奪、中央党と国家人民党を連立に組込み議席の2/3を確保。これでヴァイマル憲法に定められている、憲法に抵触出来る法律を制定する条件を満たすこととなる。
  • 23日、国会において全権委任法可決。国会は機能停止、ヴァイマル憲法はその効力を喪失。
  • 4月、プロイセン州の政治警察部門が秘密国家警察局「ゲシュタポ」に改称。
  • 7月14日、全権委任法に基づき、「政党新設禁止法」が政府によって制定される。新たな政党結成を禁止するこの法律施行までに「国家社会主義ドイツ労働者党」を除く全政党が政府の命令によって活動禁止、若しくは自主解散してしまっていたため、合法な政党は「国家社会主義ドイツ労働者党」のみとなった。
  • 11月22日、国政選挙の投票日。661議席中661議席を獲得。この国会選挙をもって党による国会完全制覇が達成。

独裁体制成立編集

1934年
  • 6月30日、長いナイフの夜事件。この事件によって党内組織である突撃隊幹部が粛清。事件後、それまで突撃隊下部組織とされていた親衛隊等の組織が分離され、独立した党内組織となる。
  • 8月2日、ヒンデンブルク大統領が死去。大統領と首相権限が統合される。
  • 8月19日、ドイツ国首相がドイツ国大統領職を統合することにかかる国民投票投票が実施され、88.9%の賛成票により、この日をもってヒトラーは名実共にドイツ総統となり、ヴァイマル共和国は滅亡。ドイツ第三帝国が成立。
1935年
  • 3月、ヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄する内容の再軍備宣言。
1936年

領土拡張と第2次世界大戦開戦編集

1938年
1939年
  • 3月15日、チェコスロバキア大統領エミール・ハーハ、同国をドイツ保護下にする宣誓文書に署名。チェコスロバキア共和国は滅亡しベーメン・メーレン保護領となる。
  • 5月、ファシスト党のベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国と同盟を結ぶ。
  • 8月23日、独ソ不可侵条約が締結される。
  • 9月1日、ドイツがポーランド共和国へ侵攻。翌々日にポーランド共和国と相互援助条約を個別に締結していたイギリス王国とフランス共和国がドイツに宣戦布告。第2次世界大戦開始。
  • 17日、旧ソ連がポーランド共和国に侵攻。
  • 10月、独ソ両軍によってポーランドが完全に制圧され、ポーランド共和国は滅亡。

WW2拡大とイタリア参戦編集

1940年
  • 5月、フランス共和国・オランダ王国ベルギー王国ルクセンブルク大公国へ侵攻を開始。同月中にオランダ王国・ベルギー王国・ルクセンブルク大公国は降伏した。
  • 6月22日、フランス共和国が対独休戦協定に調印。この休戦協定締結により、フランス第3共和政は崩壊、ドイツ傀儡政権であるヴィシー政権が発足。
  • 9月27日、日独伊三国間条約を締結(枢軸同盟)。
1941年
  • 6月22日、バルバロッサ作戦を発動、旧ソ連に侵攻を開始。だが同年には日ソ中立条約が成立しており、対日本戦に割くべき兵力を対独戦へ投入できる状態となる。結果この年を境にドイツ軍の戦功に陰りが見え始める。
  • 12月、米国に宣戦布告。これは大日本帝国が米国及び英国に宣戦布告したことに起因するものである。同じ頃にイタリア王国も米国に対する宣戦布告を行う。ちなみに枢軸同盟条文では別にドイツは宣戦布告しなくても良かった訳であるが、ヒトラーが同盟の形骸化を恐れた結果、宣戦布告したとされている。

枢軸同盟諸国脱落編集

1942年
  • 6月、スターリングラード攻防戦が始まる。最初はドイツ側が優位に戦局を進めるも次第にソビエト連邦側に流れが傾き始め、最終的にドイツ軍は大敗。これを機に弾圧を受けていた諸民族も武装蜂起しナチスは一気に追い詰められていくことになる。
1943年
  • 7月25日、イタリア王国において政変が発生。ムッソリーニが首相を罷免。直後に逮捕される。同年中にイタリア王国は連合国に降伏。
1944年
  • 6月6日、連合軍がノルマンディー上陸作戦を実施。
  • 7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件。
  • 9月、西部戦線の連合軍が開戦当初の独仏国境を越えての攻撃を開始。

WW2敗北と党解散編集

1945年
  • 4月30日、ヒトラーが自殺。自殺に際し、後継として、大統領にカール・デーニッツ、首相にヨーゼフ・ゲッベルス、党首に当たる党担当大臣にマルティン・ボルマンを指名、ゲッベルス内閣が発足。
  • 5月1日、首相に指名されたゲッベルスが自殺。デーニッツが後継政権を率いる。
  • 8日、ヴィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に署名。これで正式にドイツ軍が連合国に降伏した。
  • 23日、デーニッツをはじめとするヒトラー内閣の後継政権の政府閣僚が逮捕される。
  • 6月5日、ドイツを占領する連合国四か国によってベルリン宣言が発表される。宣言の内容は、「現在のドイツには合法な政府が存在しない」という、事実上のドイツ国抹殺宣言であり、1871年1月18日の統一達成以来続いて来たドイツ国家は滅亡、連合国管理理事会を統括組織とする連合国による占領地域となって地上から抹消された。この後は資本主義陣営のドイツ連邦共和国西ドイツ)、共産主義陣営のドイツ民主共和国東ドイツ)という分断統治を経て1990年のドイツ再統一へと進んで行く。


ナチスをモチーフとしたキャラ・作品編集

特撮編集


映画編集


漫画・アニメ編集


ゲーム編集

小説編集

その他編集


キャラクターのモチーフとしての扱い編集

海外展開では高確率で怒られ、そして差し替えられる。


関連項目編集

第二次世界大戦

軍服

ナチ ナチス風 ネオナチ

纳粹 나치

ディストピア

相模原障害者施設殺傷事件

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