党の組織については国家社会主義ドイツ労働者党、より簡単な概要についてはナチス、党の主要人物については第三帝国の項を参照のこと。
歴代党首
『ドイツ労働者の平和に関する自由委員会』、『ドイツ労働者党』時代を含む。
- 初代:アントン・ドレクスラー(1918年3月7日 - 1919年1月5日)
『ドイツ労働者の平和に関する自由委員会』を政党として立ち上げた人物。
『ドイツ労働者党』への組織変更に際し、カール・ハラーへ党首の座を譲る。
- 第2代:カール・ハラー(1919年1月5日 - 1920年1月5日)
『ドイツ労働者党』時代の党首。
右派政治的秘密結社『トゥーレ協会』のメンバーでもあった。
後にドレクスラーやヒトラーと活動方針について対立して追放される。
- 第3代:アントン・ドレクスラー(1920年1月5日 - 1921年7月29日)
ハラーを追放した後、党首に再就任したが、まもなく失脚した。
この再就任後に『国家社会主義ドイツ労働者党』への名称変更が行われている。
- 第4代:アドルフ・ヒトラー(1921年7月29日 - 1945年4月30日)
言わずと知れた総統で、最も長く党首を務めた人物。
活動方針の対立から党首ドレクスラーに揺さぶりをかけ、党首の座を明け渡させることに成功し、その後は誰もが知る独裁者への道を駆け上がる。
本人が自殺したことで党首を離職。
- 第5代:マルティン・ボルマン(1945年4月30日 - 1945年5月2日)
自殺したヒトラーの遺言によって、党担当大臣として任命され、ヒトラーの遺言執行人にも指定されていたが、任命から3日後に行方不明に。
党史
党黎明期
- 1918年3月7日 - ドイツのミュンヘンにて、アントン・ドレクスラーが、既存の労働者グループである『ドイツ労働者の平和に関する自由委員会』をもとに政党として結成。
- 1918年11月11日 - 第一次世界大戦が終結。
- 1919年1月5日 - 党首を第一議長と称する『ドイツ労働者党』に改名の上、組織変更。カール・ハラーが第一議長に就任。
- 1919年10月19日 - アドルフ・ヒトラーが入党。
- 1919年11月 - 党内に『整理隊』を設置。
- この組織の設置目的は、当時のドイツでは一般的だった演説会等における暴力による他党からの妨害等を排除することにあった。
- 1920年1月5日 - ハラーが追放され、ドレクスラーが党の第一議長に就任。
- 1920年2月24日 - 党の名称を『国家社会主義ドイツ労働者党』に改名。
- 1921年7月29日 - 党首選挙により、アドルフ・ヒトラーが党の第一議長に就任。
- この後、ヒトラーは、周囲から『Führer(フューラー・指導者)』と呼ばれるようになる。
- 1921年8月3日 - 党内組織の『整理隊』を『体育およびスポーツ隊』に改称。
- 1921年9月10日 - 党内組織の『体育およびスポーツ隊』を『突撃隊』に改称。
- 1923年11月8日 - 党が主導してのクーデター未遂事件であるミュンヘン一揆が発生。
- この事件の結果、ヒトラーを含む首謀者が逮捕され、党の活動が政府によって禁止された。
党躍進期
- 1924年5月4日 - 国会選挙の投票日。
- 党が活動禁止のため、ドイツ民族自由党と連携して『国家社会主義自由運動』と称する党派を結成。472議席中32議席を獲得する。
- 1924年12月7日 - 国会選挙の投票日。
- 『国家社会主義自由運動』が493議席中14議席に後退する。
- 1925年2月16日 - 政府によって、ミュンヘン一揆に伴う党の活動禁止が解除される。
- 1925年2月27日 - 活動禁止の解除に伴う再結成党大会を開催。
- 『突撃隊』もこの時に復活した。
- 1925年3月29日 - この日に投票が行われた大統領第一次選挙に党員のルーデンドルフが出馬。得票率は1%未満で敗れた。
- 1925年7月18日 - ヒトラー、『我が闘争』を出版。
- 1925年9月21日 - 党内組織の『突撃隊』の下部組織として『親衛隊』を設置。
- 1928年5月20日 - 国会選挙の投票日。
- 初めて党単独で候補者を出した国会選挙。491議席中12議席を獲得。
- 1930年9月14日 - 国会選挙の投票日。
- 577議席中107議席を獲得。第二党になる。
- 1932年3月13日 - ヒトラーが出馬したドイツ国大統領選挙の第一次選挙の投票日。
- 過半数を獲得した候補者がなかったため、第二次選挙に持ち越された。
- 1932年4月10日 - ヒトラーが出馬したドイツ国大統領選挙の第二次選挙の投票日。
- ヒトラーは、約30%の得票率であったものの現職に敗れ、ヒンデンブルク候補の当選が確定した。
- 1932年7月31日 - 国会選挙の投票日。
- 608議席中230議席を獲得。第一党になる。
- 1932年11月6日 - 国会選挙の投票日。
- 584議席中196議席を獲得。第一党を維持する。
- 1933年1月30日 - パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に指名、ヒトラー内閣が発足する。『国家社会主義ドイツ労働者党』が政権与党になる。
全権委任法の成立とドイツ国会の完全制覇
- 1933年2月4日 - 大統領令『ドイツ民族保護のための大統領令』が発せられる。
- 1933年2月6日 - プロイセン州内閣の権限が国家弁務官に譲渡される旨の大統領令が発せられる。
- 同年2月中旬までに、この種の大統領令がほとんどの州に対して出され、地方行政が国家の監督を強く受けることになる。ヒトラー内閣による強制的同一化政策の始まり。
- 1933年2月27日 - 国会議事堂放火事件。
- 1933年2月28日 - 大統領令『民族と国家防衛のための大統領緊急令』及び『ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令』が発せられる。
- この大統領令により、国会議員を含むドイツ共産党員、ドイツ社会民主党員が多数逮捕された。
- その後においても政府が行う強権的非常手段における根拠となった。
- 1933年3月5日 - 国会選挙の投票日。
- 647議席中288議席を獲得。第一党を維持し、国家人民党と連立することで過半数を達成する。
- 1933年3月9日 - 国会におけるドイツ共産党の81議席が議席もろとも抹消される。
- 議席の総数が減ったことによって、党による単独過半数が達成された。
- 1933年3月23日 - 国会において全権委任法が可決される。
- 1933年3月31日 - 全権委任法に基づく政府の立法権により、『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律』が政府によって制定され、同日施行される。
- 『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律』の内容は、国会と地方議会の議席の配分を同一の割合にすることを基本とするもので、ドイツにおける地方自治がほぼ停止するに至った。
- 同日、ドイツ共産党に対する活動禁止命令が発せられている。
- 1933年4月26日 - プロイセン州の政治警察部門が秘密国家警察局『ゲシュタポ』に改称。
- 1933年6月22日 - 当時の国会における第二党の『ドイツ社会民主党』が政府から活動禁止命令を受ける。
- 1933年6月27日 - 当時の国会における主要政党である『ドイツ国家人民党』が解散する。
- 1933年7月3日 - 当時の国会における主要政党である『カトリック中央党』が解散する。
- 1933年7月14日 - 全権委任法に基づく政府の立法権により、『政党新設禁止法』が制定され、同日施行される。
- 新たな政党の結成を禁止するこの法律の施行までに国家社会主義ドイツ労働者党を除くすべての政党が政府の命令によって活動禁止、もしくは自主的に解散してしまっていたため、合法な政党は国家社会主義ドイツ労働者党のみとなった。
- 1933年11月22日 - 国会選挙の投票日。
- 661議席中661議席を獲得。この国会選挙をもって党による国会の完全制覇が達成された。
一党独裁の成立
- 1933年12月1日 - 全権委任法に基づく政府の立法権により、『党と国家の統一を保障するための法律』が制定され、同日施行される。
- 『党と国家の統一を保障するための法律』の内容は、党と国家の一体化を基本とするものである。
- 1934年1月30日 - 全権委任法に基づく政府の立法権により、『ドイツ国再建に関する法』及び『ライヒ新構成法』が制定され、同日施行される。
- 『ドイツ国再建に関する法』の内容は、各州の主権が政府に移譲されて州議会は解散、すべての州公務員が国家の支配を受けることを基本とするものである。
- 『ライヒ新構成法』の内容は、当時のドイツにおける上院にあたる参議院を廃止することを盛り込んだものである。
- 1934年2月14日 - 先に制定、施行された『ライヒ新構成法』によって参議院が廃止され、一院制になる。
- 1934年6月30日 - 長いナイフの夜事件。
- この事件によって党内組織である突撃隊の幹部が粛清された。
- 事件の後、それまで突撃隊の下部組織とされていた親衛隊等の組織が切り離されて独立した党内組織になる。
- 1934年8月1日 - 全権委任法に基づく政府の立法権により、『国家元首に関する法律』が閣議決定で制定され、同日施行される。
- ヒンデンブルク大統領の危篤を知ったヒトラー内閣が急遽制定した法律。基本的な内容は、大統領が空位になった後の扱いに関するものである。
- 1934年8月2日 - 大統領が死去したため、『国家元首に関する法律』により、大統領と首相の権限が統合される。
- 1934年8月19日 - 『国家元首に関する法律』によってドイツ国首相がドイツ国大統領職を統合することにかかる国民投票の投票日。
- 88.9%の賛成票により、この日をもってヒトラーは公式に当時のドイツにおける最高指導者になった。
- 1935年3月16日 - ヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄する内容の再軍備宣言。
- 1935年4月1日 - ドイツにおける司法組織全体の政府への取り込みを完了。
- 1935年9月15日 - 国会において『帝国市民法』及び『ドイツ人の血と名誉を守るための法律』が可決される。その他、全権委任法に基づく政府の立法権により、党の旗であるハーケンクロイツ旗を新たなドイツ国旗とする法律が制定、施行される。
- 『帝国市民法』の内容は、国籍所有者のうち、法に基づいて『帝国市民』の資格を有する者のみがを政治等に参加できるというもので、ここでいう『帝国市民』とは『帝国市民法第一次施行令』において規定されたユダヤ人の認定を受けた者以外の者のことである。
- 『ドイツ人の血と名誉を守るための法律』の内容は、ドイツ国内におけるユダヤ人の認定を受けた者とドイツ人ないし同種の血を持つ国籍所有者と認定された者による婚姻等を禁じたものである。
- この日に国会で可決された法律は『ニュールンベルグ法』と呼ばれている。
- この日をもって、国旗も正式に『ドイツ国=国家社会主義ドイツ労働者党』になった。
- 1936年3月7日 - ラインラント進駐。
- 1936年3月29日 - 国会選挙の投票日。
- 741議席中741議席を獲得。
- 1936年8月1日 - ベルリンオリンピック開幕。
第二次世界大戦の開戦
- 1938年3月12日 - ドイツ軍によるオーストリア進駐。
- 翌日、オーストリアを併合。
- 1938年4月10日 - 国会選挙の投票日。
- 813議席中813議席を獲得。
- 1938年9月29日 - ミュンヘン会談の結果に基づき、ミュンヘン協定を締結。
- 1938年11月2日 - 第一次ウィーン裁定が成立。
- 1938年11月9日 - 水晶の夜事件。
- 1939年3月15日 - チェコスロヴァキアのボヘミア・モラビアを『ベーメン・メーレン保護領』としてドイツの保護領とする。
- スロヴァキア共和国とカルパト・ウクライナ共和国として残された国土のうち、カルパト・ウクライナ共和国はハンガリー王国による軍事侵攻によって占領され、チェコスロヴァキアが崩壊した。
- 1939年3月22日 - リトアニアのメーメルを住民投票の結果に基づき併合。
- この地域について、元はドイツ領であったが、第一次世界大戦の結果としてドイツが領有を放棄し、フランスの委任統治領であったところへリトアニアが軍を派遣して占領、フランスの追認を受けてリトアニア領となったものである。元がドイツ領だった関係もあってドイツ系の住民が多数住んでいた。
- 1939年5月22日 - イタリア王国と『ドイツ・イタリア間の友情と同盟に関する協約』を締結する。
- 1939年8月23日 - 独ソ不可侵条約が締結される。
- 1939年9月1日 - ドイツによるポーランド侵攻。
- 1939年9月17日 - ソビエト連邦によるポーランド侵攻。
- 1939年10月6日 - 最後まで抵抗を続けていたポーランド軍部隊が降伏。独ソ両軍によってポーランドが完全に制圧される。
第二次世界大戦の拡大と枢軸同盟諸国の参戦
- 1940年4月9日 - 午前0時をもってノルウェー、デンマークへの侵攻を開始。
- 8時間34分後にデンマークは降伏した。
- 1940年5月1日 - ドイツ軍がノルウェーを完全に制圧。
- 1940年5月10日 - フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクへ侵攻を開始。
- 1940年5月14日 - オランダ軍が降伏、オランダ王室及びオランダ政府はイギリスへ亡命。
- 1940年5月16日 - ルクセンブルクにおいて政府評議委員会が設立され、ドイツによる占領を受け入れる。
- 1940年5月28日 - ベルギーが降伏。
- 1940年6月10日 - イタリア王国が、イギリス、フランスに対して宣戦布告。
- 1940年6月22日 - フランスが対独休戦協定に調印。
- この休戦協定の締結により、フランス第三共和政は崩壊、ドイツの監督下におかれたヴィシー政権が発足した。
- 1940年8月30日 - 第二次ウィーン裁定が成立。
- 1940年9月27日 - 日独伊三国同盟を締結。
- 1940年10月28日 - イタリア王国がギリシャ王国に対して宣戦布告。
- 1940年11月20日 - ハンガリーが日独伊三国同盟に参加。
- 1940年11月23日 - ルーマニアが日独伊三国同盟に参加。
- 1940年11月24日 - スロヴァキアが日独伊三国同盟に参加。
- 1941年3月1日 - ブルガリア王国が日独伊三国間条約に参加。
- 1941年3月25日 - ユーゴスラビア王国が日独伊三国間条約に参加。
- ユーゴスラビア王国では、日独伊三国間条約に参加した2日後にクーデターが発生、同年4月6日にドイツ軍がユーゴスラビア王国へ侵攻。
- 1941年4月10日 - ギリシャ・イタリア戦争にイタリア側として介入。
- 1941年4月17日 - ユーゴスラビアを完全に制圧。ユーゴスラビア政府は亡命。
- 1941年4月23日 - ギリシャ降伏。
- 1941年6月15日 - クロアチア独立国が日独伊三国同盟に参加。
- 1941年6月22日 - バルバロッサ作戦を発動、ソビエト連邦に侵攻を開始。
- 同日、ハンガリー王国、ルーマニア王国、クロアチアが対ソ宣戦布告。
- 1941年6月25日 - フィンランドが対ソ宣戦布告。
- 1941年12月11日 - アメリカ合衆国に宣戦布告。
- 12月7日(日本時間:12月8日)に大日本帝国がアメリカ合衆国及びイギリス等に宣戦布告したことに起因するものである。
- 同日、イタリア王国もアメリカ合衆国に対する宣戦布告を行った。
- 1943年1月25日 - 国会選挙の延期を決定。
- 予定日は1947年1月30日だった。
枢軸同盟諸国の脱落
- 1943年7月25日 - イタリア王国において政変が発生。
- 政変の内容は、ファシスト大評議会が当時のイタリア王国の首相であったムッソリーニに対して首相退任要求の決議を採択したことに始まり、イタリア国王がこれに同調してムッソリーニを首相から罷免し、後継の首相を指名したというものである。
- ムッソリーニは、イタリア国王によって首相から罷免された直後に逮捕された。
- 1943年9月8日 - イタリア王国が連合国に降伏。
- 1943年9月23日 - イタリア社会共和国建国。
- この国の正体は、同年9月12日に空軍と武装親衛隊を動員して救出したムッソリーニを首班とするドイツの傀儡政権であった。
- 1943年10月3日 - イタリア王国が対独宣戦布告。
- 1944年6月6日 - 連合軍がノルマンディー上陸作戦を実施。
- 1944年7月20日 - ヒトラー暗殺未遂事件。
- 1944年8月23日 - ルーマニア王国において政変が発生。
- 同年8月24日、連合国に対して降伏。
- 同年8月25日、対独宣戦布告。
- 1944年8月25日 - フランスのヴィシー政権が崩壊。
- 西部戦線の連合軍によるパリ解放で、それまでの亡命政権であったフランス共和国臨時政府が首都を取り返したことによるものである。
- 1944年9月9日 - ブルガリアで政変が発生。同日中に対独宣戦布告。
- 1944年9月14日 - 西部戦線の連合軍が開戦当初の独仏国境を越えての攻撃を開始。
- 1944年9月19日 - フィンランドがソビエト連邦と講和条約を締結。
第二次世界大戦の敗北と党の解散
- 1945年4月22日 - パリ解放の際に脱出したヴィシー政権の閣僚が逮捕される。
- 1945年4月25日 - イタリア社会共和国崩壊。
- ムッソリーニは同月27日に逮捕されて翌日に処刑、共和国軍も同月29日に降伏した。
- 1945年4月30日 - ヒトラーが自殺。
- 自殺に際し、後継として、大統領にカール・デーニッツ、首相にヨーゼフ・ゲッベルス、党首にあたる党担当大臣にマルティン・ボルマンを指名し、ゲッベルス内閣が発足する。
- 1945年5月1日 - 首相に指名されたゲッベルスが自殺。デーニッツ大統領は首相代行を指名する。
- 1945年5月2日 - 党担当大臣のボルマンが行方不明になる。
- 後に本人の遺骨が発見され、この日に自殺していた可能性が高いことが判明した。
- 1945年5月7日 - アルフレート・ヨードル大将がランスにて、ドイツ軍が連合国に降伏する文書に署名。
- 1945年5月8日 - ヴィルヘルム・カイテル元帥がベルリンのカルルスホルストにて、ドイツ軍が連合国に降伏する文書を批准。
- 1945年5月23日 - デーニッツをはじめとするヒトラー内閣の後継政権の政府閣僚が逮捕される。
- 1945年6月5日 - ドイツを占領する連合国四か国によってベルリン宣言が発表される。
- 宣言の内容は、『現在のドイツには合法な政府が存在しない』という、事実上のドイツ国抹殺宣言であり、1871年1月18日の統一達成以来続いてきたドイツ国は滅亡、連合国管理理事会を統括組織とする連合国による占領地域となって地上から抹消された。
- この宣言の影響により、ドイツ国は連合国の相手国として外交交渉を行える後継政府がない状態に陥り、ドイツ国の後継となる政府が成立する前に連合国の思惑によるドイツの東西分裂が確定したため、戦争を公式に終結させ、ドイツ国の賠償責任等を確定させる講和条約が締結されなかった。
- 1945年9月20日 - 連合国管理理事会が『連合国管理理事会指令第一』を発する。
- この指令は、連合国管理理事会が『ナチス法』と断じた全権委任法及び全権委任法に規定する政府の立法権に基づいて制定された法律の他、1935年9月15日に国会で可決されたニュールンベルグ法と呼ばれる法律を含め、提示された個別の法律に付随する政令ごと無効とするものである。
- 1945年10月10日 - 連合国管理理事会が『連合国管理理事会指令第二』を発する。
- この指令によって国家社会主義ドイツ労働者党は強制的に解散させられ、活動禁止となった。また、この指令は、党の活動理念であった国家社会主義を否定して非合法化し、再結成、名称を変えての再建も禁止するものであった。
- その他、国家社会主義ドイツ労働者党に絡んで設置された組織も強制的に解散させられている。
- 党首または党首に代わる者による党の自主的な解散宣言が行われていないため、この日が正式な国家社会主義ドイツ労働者党の解散の日となっている。
独裁達成までの道のり
『国家社会主義ドイツ労働者党』による独裁体制は、1934年8月1日に施行された『国家元首に関する法律』により、ドイツ国首相職とドイツ国大統領職が統合されることで最終的に達成された。
しかし、その兆候は、『国家社会主義ドイツ労働者党』が政権与党になる前から、ワイマール憲法第48条に規定する『国家の緊急時における大統領の大権』に基づく、法令と同じ価値を持つ大統領令の公布が頻繁に行われていたあたりから現れ始めていた。実際、『国家社会主義ドイツ労働者党』も、政権与党になり、全権委任法を成立させるまでは、この『国家の緊急時における大統領の大権』に基づく大統領令を多用した。
つまるところ、当時のドイツ国民は、強権的かつ独裁的な政治手法に慣れてしまっていたのである。
この節では、どのような段階を経て国家社会主義ドイツ労働者党が独裁を達成したかについて、簡潔に示したい。
第一段階
1933年1月30日以降 - 当時の『国家社会主義ドイツ労働者党』の党首であったヒトラーが、大統領の指名によって首相になった日。
大統領令の濫発が可能になり、政敵の弾圧が始まった。
第二段階
1933年3月23日以降 - 『全権委任法』が成立した日。
この法律が可決されたことによって、ワイマール憲法に反する内容の法律であっても国会に諮ることなく政府が法律を制定できるようになり、ドイツ国首相であるヒトラーが制定する法令の認証権を得た。
ヒトラー内閣は、この法律に基づく政府の立法権を利用し、当時のドイツ国会の選出方法が党派に所属していないと出馬できない拘束名簿方式の比例代表制であることに目を付け、事前に他の政党を解散や活動禁止に追い込み、『国家社会主義ドイツ労働者党』のみとなったところで『政党新設禁止法』を全権委任法に基づく政府の立法権によって制定し、『国家社会主義ドイツ労働者党』以外の党派の議員を国会へ送り込めないようにした。
第三段階
1933年11月22日以降 - 国会の完全制覇を達成した国会選挙の投票日。
『政党新設禁止法』に基づき、合法な政党が『国家社会主義ドイツ労働者党』のみとなった状態で行われた国会選挙。
この日以降も全権委任法に基づく立法権を利用して、国会の二院制を破壊し、地方議会を含む地方自治を崩壊させる立法を行った他、中央集権化を推し進めて司法を骨抜きにする立法を行い、独裁体制を強化していった。
第四段階
1934年8月2日以降 - 当時のドイツ国大統領が亡くなった日。
ヒンデンブルク大統領が危篤に陥ったことを知ったヒトラー内閣が全権委任法に基づく政府の立法権により、『国家元首に関する法律』を事前に制定、大統領の死去とともに当時のドイツ国首相と権限が統合された。
後日、国民投票を行うことで国民の意思を確認した形をとり、ヒトラーは名実ともにドイツにおける最高指導者になった。
全権委任法に基づく政府の立法権によってドイツ国の国旗がハーケンクロイツ旗になったのは、この後のことである。