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Axis Powers ヘタリア』におけるオランダは蘭にいさんの項目を参照のこと。


概要編集

面積4万1864平方km(九州とほぼ同じ)
総人口1776万人(2024年)
首都アムステルダム(政治機能はハーグ)
言語オランダ語
宗教キリスト教(カトリック18%、プロテスタント13%)イスラム教6%、無宗教57%

正式国名は「ネーデルラント王国」(Koninkrijk der Nederlanden)

南西はベルギー、東はドイツと接し、海を挟んで西はイギリス

ユーラシア大陸のヨーロッパ中西部に位置しているが、中南米カリブ海に海外領(実質的に自治領)としていくつかの島嶼部を擁する。

本土の大半が海面下も含む低地で、干拓によって生み出された造成地も多い。

バタビア(バタヴィア)という古称もあるが、これは古代に暮らしていたバタウィ人に由来する。


南西に隣接するベルギー及びルクセンブルクとは歴史的・地理的つながりが深く、「ベネルクス三国」と総称されることがある。

3国は歴史上何度か同じ国家にもなっているが最終的に分離し、現在の状態になっている。


サッカーの強国の一つで、2010年開催のFIFAワールドカップでは準優勝を果たした。

国際野球の強豪国ともされているが、本土よりも海外自治領の島嶼部(ドミニカ共和国プエルトリコに近い中南米地域)で盛んである。

平均身長が欧米人の中でも高いとされており、男性は180cm、女性は167cm。


名称編集

日本での「オランダ」は国内のホラント州にちなむもので、ポルトガル経由で伝わった呼び方である。

オランダ語での自称である「ネーデルラント」は「低い土地」という意味で、広義にはベルギーにかけて広がるライン川下流一帯の低地帯を指す。

近隣の欧州諸国では

などネーデルラントを直訳あるいは音訳した呼称が用いられる事が多い。

その他の名称事情については、ネーデルランドを参照。


経済編集

世界屈指の高所得国であり、経済競争力が非常に強い。大国に囲まれているという立地を生かして積極的な企業誘致を行っている。首都アムステルダムは金融業とIT産業が得意であり、第2の都市ロッテルダムはEU最大の貿易港で、その周辺では鉄鋼業・重化学工業が発達している。ハーグには世界最大の石油企業ロイヤル・ダッチ・シェルの本社がある。国全体で酪農と園芸農業も盛ん。


歴史編集

成立編集

古代にはゲルマン人が暮らし、後に北部を除く大半がローマ帝国領となった。ローマ帝国崩壊後もゲルマン諸族が暮らしていたがフランク王国に編入され、フランク王国分裂後は中フランク王国→東フランク王国(神聖ローマ帝国)となった。冒頭でも述べた通り低地がそもそも多かったこの地方に中世期の海面上昇が追い打ちをかけ、広大な地域が北海に水没。以降干拓が頻繁に行われるようになった。

以後神聖ローマ帝国領として統治する諸侯の変遷を経てブルゴーニュ公国→ハプスブルク家領となる。

この地域は当時のヨーロッパの中でも高い経済力を誇ったフランドル地方に隣接し、北方のニシンや木材・穀物を扱う交易で反映していた。しかしハプスブルク家による課税および宗教改革以後特に北部地方に広まったプロテスタントへの締め付けに反発し、ついに1581年に当時のスペイン(というよりスペイン王家のハプスブルク家)から独立を宣言、1648年に正式に独立国として承認された。


中世編集

17世紀前半は東インド(現在のインドネシア等)に勢力を伸ばし海上貿易を支配した。当時の世界ではイギリスの商船隊が400隻で10万トン、フランス船は総計8万トンであったが、オランダの船舶は16000隻の56万トンに上った。まさに世界一の海運国である。だが、18世紀にはフランスによる陸からの侵略に苦しめられ、成長著しいイギリスによって海上覇権を奪われた。またイギリスとは同君連合だった時期もあった。


1639年から1854年まではヨーロッパの国では唯一日本との外交関係を維持していた。日本においては長崎出島で交易を行っていた。鎖国によって欧州文化の浸透を拒絶していた当時の日本においては、欧州先端科学技術との接点になっていたのもオランダであった。かくして、オランダを通じて当時の欧州文化の受容を図った学問を蘭学と呼び、当時の日本知識人にとってはオランダ語は先端科学技術への必須言語であった。

フランス革命以後の混乱期に一時フランスに本国が併合されてしまい、出島にあるオランダ商館が世界で唯一オランダ国旗を掲げていたという時期もある。

ナポレオン戦争の後はベルギー・ルクセンブルクを併合したがベルギーは独立戦争で独立、またルクセンブルクは女性君主を認めなかったため分離し、現在のベネルクス3国になった。


世界大戦編集

第一次世界大戦では中立を守ったものの貿易が停滞し窮乏した。

第二次世界大戦時には1940年5月10日にナチスドイツの侵攻を受けて15日に本国は降伏、17世紀以来の植民地であった東インド(蘭印)を日本軍に攻略され、戦後紆余曲折を経てインドネシアの独立を認めることとなった。 インドネシアに住んでいた約10万人のオランダ人は日本軍の収容所に入れられ、強制労働や食糧不足によって終戦までに約2万2000人が亡くなった。


近年編集

戦後はベルギー・ルクセンブルクとベネルクス関税同盟を結んで関係を強化、さらにヨーロッパ諸国との経済統合を目指しEEC→EC→EUに加盟した。

2023年11月には移民受け入れの上限でマルク・ルッテ内閣が総辞職し、ヘルト・ウィルダース率いる極右政党が下院選挙で第1党となり、移民問題を巡って次期首相を決めるのに紆余曲折があったが、諜報機関出身で無所属のディック・スホーフ氏が2024年に首相に就任した。


対日関係編集

戦後しばらく反日感情が残存しており、1971年に昭和天皇がオランダを訪問した際は大バッシングを受けたほか、1991年にベアトリクス女王が公式訪問で来日した際も、これに配慮して晩餐会での挨拶に際し大戦時にインドネシアでオランダ国民が犠牲者となったことを言及した。

ただし、挨拶全体としては翌年開業が決まっていた長崎県佐世保市のテーマパーク・ハウステンボス等の現在の良好な両国関係の維持発展に力点を置いたものであり、2000年5月に当時の天皇皇后両陛下がオランダを訪問した際、晩餐会にて先の大戦で犠牲者・被害者になったオランダ国民に「深い心の痛み」を語ったことが元抑留者を中心に評価され、対日感情は改善した。それから2014年に後継者のウィレム=アレクサンダー国王夫妻が来日した際、宮中晩餐会にて今も戦時中に収容所で受けた苦痛を引きずるオランダ国民の存在とともに日本国民の被害に触れた上で、「今や両国は新しい信頼関係を築きました」と祝福。2019年には即位礼正殿の儀に出席。


渡航編集

シェンゲン協定により180日を超えない90日以内なら査証は不要。

10年以内に発行された有効期間が出国予定日を含む3ヶ月以上のパスポートが必要。

ドイツを経由する場合は、ドイツの査証がないと入国拒否の可能性があるため注意

日本の外務省は危険情報は発令してないが置き引きやスリ、クレジットカードのすり替えに注意してほしいとのこと。


関連キャラクター編集


関連イラスト編集

ジオー!オランダー!!!


関連タグ編集

個別編集

風車 チューリップ 運河

アムステルダム ロッテルダム ハーグ

アンティル諸島 フーフトクラッセ ヘルト・ウィルダース オランダ自由党 パンネンクック

リック・バンデンハーク カイ・フェルバイ

ミッフィー


関連人物編集

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