鎖国
さこく
徳川幕府の第三代将軍徳川家光が、江戸時代において日本人の外国への渡航を禁止し、海外との交流・交易を制限した貿易統制政策。
同時代の清朝、朝鮮王朝も海賊防止と密貿易禁止を目的に「海禁」政策をとっていた。このため「鎖国」ではなく「海禁政策」と呼ぶことが正確であるという見解もある。ただし、江戸幕府は清朝や朝鮮とは異なり、交流・交易の一部を地方政権(松前藩・薩摩藩・対馬府中藩)に委託したのが特徴的であった。
そもそも「鎖国」という語は17世紀末に来日したドイツ人医師、エンゲルベルト・ケンペルが記した本が死後に『日本誌』と英訳出版され、その中に「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するに極めて当然なる理」という論文が書かれていた(当時の西洋の著作はこのような長いタイトルが普通であった)。それが19世紀に日本で和訳されたが、翻訳家によってあまりに長い題名を「鎖国論」と縮められた。
このようにそもそも「鎖国」という概念そのものが外来のものであって、当時の日本人に鎖国(している)という意識はほとんどなかったことに留意しなければならない。
また、260年にも及ぶ長い江戸時代に、一貫してずっと同じ政策が維持されていたわけでもない。例えば、書物に関して、江戸時代初期には広範な分野で禁じられ、西洋の学問に接することが出来たのは、一部に限られていた。しかし、徳川吉宗の時代になると、この禁が緩和され、宗教書を除いて、清や西洋の書物が大量に日本に輸入されることとなった。ここからうまれた西洋研究を蘭学という。
江戸時代初期には安土桃山時代に引き続き南蛮貿易が盛んだったが、直接欧州と交易するのではなく、マカオや東南アジアに設立された出先機関・東インド会社との貿易がメインであった。堺や博多を拠点とする商人や幕府による大名取りつぶし政策で主人を失い失業した武士(牢人)、キリシタン弾圧により逃亡した人々の中は海外渡航する者も多く、アジア各地に日本人街もできた。
しかし、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光の頃にオランダを除くスペイン・ポルトガル・イングランドといった欧州各国との交流に制限が次々に課せられ、島原の乱が決定打となって、ついに17世紀後半にいわゆる「鎖国体制」が完成した。海外に出国した日本人も(ある程度の猶予期間が過ぎた後は)帰国を許されなかった。
だが実際に「鎖国」したわけではなく、あくまで海外との貿易・交流を限定、制限しただけであった。これを「四口」と呼ぶ。
- 長崎 幕府直轄地の長崎で、清・オランダとの直接交易を行った。幕府が直接貿易を行ったのはここだけ。また、ベトナムとも現地の永住者やオランダの商人を介して交易が行われた。
- 松前 アイヌを通じた清との北方交易を管理した。
- 対馬 朝鮮出兵により断交した朝鮮王朝との国交回復も周旋、「朝鮮通信使」の接待をはじめ中継役を対馬藩が務めた。
- 薩摩 薩摩藩が附庸国(属国)にした琉球王国を通じて清やシャム(タイ)、マラッカ(マレーシア)などとも貿易が行われた。
朝鮮と琉球からは通信使が定期的に来日し、親書の交換がされた。幕府は出島のオランダ商館に海外事情を記した報告書を提出させ、海外事情をある程度把握した。
一方のオランダにとっては本国が弱体化する中で、対日貿易を独占するためにも様々な工作を行い、日蘭関係を確固たるものにした。
幕府の目を盗んで勝手に海外貿易による密輸で利益を得る藩や商人もおり、「抜け荷」と呼ばれた。
庶民の間でも海外からの輸入品は「舶来品」と呼ばれて巷で出回り、海外では陶磁器や海産物、刀剣などがヨーロッパに輸出された。当初は貴金属や醤油も主要な輸出産物だった。
しかし、19世紀になって日本近海に英・フランス・ロシア帝国・アメリカ合衆国の艦船が相次いで出没し、日本に自国製品を売り込むため通商関係を結ぶことを迫った。アメリカ合衆国はペリー率いる黒船を江戸湾に派遣、軍事力をちらつかせながら通商を迫った。アメリカは幕府に日米和親条約(日本の4港を開き立ち寄る艦船に水・薪・食料を提供する条約)、続いて日米修好通商条約(国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、国内産業を保護する権利も与えられない不平等条約)を締結させた(鎖国の終焉)。欧州各国も続いて同様な条約を結ぶ。これによって帝国主義吹き荒れる世界情勢に日本は巻き込まれ、幕末の時代が到来した。
キリスト教禁止を徹底させることと、貿易による利益を幕府が独占して他の藩や商人が幕府に対抗できる力を作らせないようにすることが、主な目的であった。
戦国時代に広まったキリスト教は、仏教や神社と激しく衝突し、古くからの秩序を守る各地の大名や寺社仏閣の支配体制を危うくするものとなっていた。実際にキリシタン大名領では神社や寺院を破壊され、神仏を崇敬する諸大名を憤激させた。
さらに、キリシタン大名の地域では宣教師の例によって奴隷商人がやってきたことで日本人の誘拐が盛んになっていた。
かくして、豊臣秀吉にキリスト教禁止を決意させることとなる。
家康はキリスト教を厳禁しつつ交易は推進する姿勢をとったものの、家光の代に起った島原の乱は、キリスト教が幕府権力を脅かす危険性を改めて認識させるものとなった。この乱を期に、新たな布教活動が今後一切行われることのないよう、外国人が日本に入ることを原則禁じ、日本人が海外に渡航することを禁止する鎖国に至った。オランダだけは交易を許されたが、これはプロテスタント国であったオランダが、キリスト教の布教にこだわる事が無く、日本側の「布教しないように」という要求を受け入れたためである。
また、当時の日本が圧倒的な貿易赤字に悩まされていたことも鎖国の一因となった。もともと日本は豊富な鉱山資源に恵まれていたのだが、この時期に金銀が大量に流出した。
江戸幕府は信者を改宗をさせようと激しい拷問・処刑を行い、隠れキリシタンとして300年間耐えることになった。
鎖国に対する評価は分かれている。明治以降は日本が西洋に遅れをとった原因になったとする考えが主流であったが、海外との交流を幕府が統制したことで、日本独自の日本文化や産業が成熟し、さらに欧州からの侵略を防いだという肯定的な評価も見直されている。
近年は、江戸幕府の鎖国は清国・朝鮮の海禁策と基本的には同じであり、アジアの植民地化を進めていた西洋文明から自国を守るためにとられた、東アジア共通の外交政策であったという見方が強調されている。
いずれにしろ、「鎖国」は江戸幕府が西洋諸国の植民地政策に対峙するために選んだ貿易統制政策ととらえるべきであり、従来の「海外と交流を禁じた『鎖国』」という見方は極めて一面的である。
中国(明・清)
チベット
1792年のグルカ征討から20世紀にいたるまで鎖国政策をとっていた。
アルバニア
アルバニア社会主義人民共和国は、しばらくの間ソ連の強い影響下で国家運営が成されたの場合は、ホッジャ主義に執着していたため、それまで同盟国だったはずの国と政治路線で対立するようになり、その度に断交を繰り返していたため、国交を有している国がなくなってしまったというものである。その為、江戸時代の日本の鎖国とは似て非なるものといえる。
アルバニアは、しばらくの間ソ連の強い影響下で国家運営が成されたが、1961年の中ソ対立を契機に対ソ連批判を展開する。ソ連と袂を分かつ一方で中華人民共和国に接近して親中化し、経済援助と軍事支援を受けた。また、1967年には、中国の文化大革命に影響されて「世界初の無神国家」を自称し、一切の宗教活動を禁止した。1968年にはワルシャワ条約機構を脱退。隣国ユーゴスラビアとの対立も続き、同様にソ連と距離を置いていたルーマニア社会主義共和国のニコラエ・チャウシェスクも非難し、アルバニアは他のヨーロッパ諸国から自国を隔離した。1971年には国際連合でアルバニア決議を共同提案して国際社会で友好国の中国が確固たる立場を築くのに一役を買うも中国は西側諸国や反共的な国々に接近したことに批判を強め、1976年に毛沢東の葬儀に出席するも後継者の華国鋒らがさらに3つの世界論に基づいた外交を展開したことに対して中華人民共和国を「第三世界の超大国」にさせることを企んでるとホッジャは非難した。これによって反中となり、そのまま断交に至り世界的孤立は一層進んだ。
1978年には鄧小平によって改革開放路線に転換した中国からの援助も失い、他の共産圏に対してもマルクス・レーニン主義に反すると否定していたアルバニアは「世界唯一のマルクス・レーニン主義国家」を自称した。ホッジャが掲げた反修正主義は「アルバニア派」と呼ばれ、主に発展途上国における左派において一定の支持を受けるも、肝心の自国の国際的な孤立はより一層進んだ。
1980年代には「欧州一の最貧国」とまで揶揄されるほど鎖国で経済は停滞。そのような中1985年に指導者であるホッジャが死去。全国規模の反政府デモが頻発し、時の権力者ラミズ・アリアにより1990年から徐々に開放路線に政策を転換し始め、アルバニアでの鎖国ここに終わりを告げた。