概要
薩摩藩は通称で、正式名称は「鹿児島領」。
江戸時代に、薩摩国 (鹿児島県) 全域、大隅国 (鹿児島県) 全域、日向国 (宮崎県) の一部を領有した外様大藩。
藩庁は鹿児島(現在の鹿児島市)に置かれた。
戦国時代には武将である島津義弘や島津豊久以下の強兵「薩摩隼人」を従えその獰猛さや釣り野伏に代表される悪辣さから戦国最強軍団の一つに数えられた。
幕末でも西郷隆盛や大久保利通らを、廃藩置県後も神重徳などの色々と濃い偉人を送り出した。
近年のエンタメ作品においては誤チェストや妖怪首おいてけで知られる。
略歴
1185年、源頼朝の御家人であった忠久が島津荘の下司職に任命され、その後、大隅国・薩摩国・日向国の守護となり、島津(嶋津)左衛門尉と称する。
島津家は鎌倉幕府の御家人として当主は鎌倉に在住し、一族・家人に領地を差配させていたが、元寇を機に一族の在地化が進んだ。
後醍醐天皇による倒幕運動が始まるとこれに加わり、南北朝時代は北朝についた。
戦国時代には九州を制覇する勢いを見せていたが、豊臣秀吉の九州征伐により領地は薩隅2国と日向諸県(もろかた)1郡だけとなる。
関ヶ原の戦いでは西軍だったが旧領を安堵され、江戸幕府の開府により薩摩藩が成立し、島津家久が初代藩主となった。
1609年には創立当初の幕府に贈物を献上する勧めに応じなかったことや、琉球船漂着に対し乗員を保護して薩摩を通じ帰国させたが礼を欠いたという事情から、徳川家康の許しを得て琉球を征伐し影響下に置く。
なお、島津家と琉球の関係は琉球王朝が発足した1430年頃からあったとされ、また史書には島津義久が本家を相続した際の祝いの遅延、及びその進物の内容がこれまでの通例と異なっていたのを島津側が琉球側に抗議したとする記録が残っており、遺恨めいたものはこの頃より生じていた可能性はある。
石高73万石の大藩だったが、実際の収入は半分程度で財政は逼迫し、『掟十五条』により薩摩が琉球の貿易を独占していたことから、琉球からの収奪が厳しく住民から怨嗟の的となったと言われるが、実際には琉球の中国側との朝貢冊封関係は継続されており、島津側からの縛りも然程なかったのみならず、羽地朝秀や蔡温ら親薩摩派の各種改革により、サトウキビ栽培などの地場産業が発達し、空手や琉歌(短詩型の叙情歌謡、一般的には8・8・8・6の30音からなる形)、組踊りなどの琉球文化が成熟した(現代人の多くがイメージする伝統的な沖縄の文化はこの頃に形成された)。
また、琉球・奄美侵攻の際に豚を持ち帰っており、食用の畜産を行っていなかった当時の日本で唯一の養豚を行う藩となった。
幕末の1851年に11代藩主となった島津斉彬は開明派で、日本初の西洋型帆船やガラス、火薬など複数の分野で洋式の工場を建設し、富国強兵に努めた。
斉彬没後は、異母弟の島津久光が藩の実権を握り、公武合体運動を展開したが、1863年に勃発した薩英戦争で鹿児島市街地に甚大な被害が生じる事となった(戦闘の勝敗については諸説あるが、一般的には痛み分けとされている)。
その後は西郷隆盛、大久保利通ら倒幕派が主導するようになり、長州藩と薩長同盟を結んで討幕運動、明治維新をリードした。
西郷・大久保のほか、黒田清隆、松方正義、森有礼など、薩摩藩が輩出した有力な人材は明治新政府の中心となって活躍した。
1871年の廃藩置県をもって、薩摩藩領は鹿児島県、宮崎県に編入された。
歴代藩主
- 島津家久:島津家18代目当主。島津義弘の三男。
- 島津光久:家久の次男
- 島津綱貴:光久の長男・綱久の長男
- 島津吉貴:綱貴の長男
- 島津継豊:吉貴の長男
- 島津宗信:継豊の長男
- 島津重年:継豊の次男
- 島津重豪:重年の長男
- 島津斉宣:重豪の長男
- 島津斉興:斉宣の長男
- 島津斉彬:斉興の長男
- 島津忠義:斉彬の弟・久光の長男