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松方正義

まつかたまさよし

(天保6年2月25日~大正13年7月2日)  第4・6代内閣総理大臣。従一位大勲位。公爵。元老

天保6年(1835年)、薩摩藩の郷士の身分の松方正恭の四男として出生した。
16歳の時、藩の御勘定所出物問合方に初勤務。
大番頭座書役、大番頭座役助と当初から勘定方を得意とし、文久2年(1862年)には島津久光の近習番に抜擢された。
翌年の薩英戦争では近代装備の軍艦の威力に驚き、長崎で海軍事学の研究に従事して、数学の勉強が後の財政家としての素養に大いに役立った。

維新後の政府には、明治元年、九州鎮撫使参謀から日田県知事となり、民部大丞、租税権頭、大蔵大輔と国家経済に関わる。
明治14年の政変の舞台裏では、松方内務卿は井上毅の示唆を入れて伊藤博文黒田清隆西郷従道の各参議等を会談させ、太政大臣三条実美をして伊藤に憲法起草を命じる手筈を調えたという。
この政変後、松方は大蔵卿に就任して明治政府の財政の最高実権者となり、紙幣整理と貨幣と信用制度の整備、殖産興業の為の増税政策の実行などの、いわゆる松方財政を行った。
松方は政治家としての力量より、財政のリーダーとして残した功績の方がはるかに大であった。
わけても日清日露の戦時財政を切り盛りして戦争を勝利に導き、また日露戦争後の経済の再建と、17億にも達する軍事公債の処理にみるべきものがあった。
それを実際に担当したのは松方の直系の大蔵官僚・阪谷芳郎であったが、元老の松方は公債整理を緊急財政問題として解決するよう政府に力説したのだった。
薩閥の巨頭として松方は二度組閣し、現役の財政家としては明治33年の第二次山県有朋内閣大蔵大臣までであったが、以後は元老として国家財政の最高の指導者となった。

しかし、大正2年1月の第三次桂太郎内閣の失脚といういわゆる大正政変後は、藩閥勢力が後退して憲政内閣時代に入り、一方では国内の経済発展につれてブルジョアジーの勢力が増し、政府部内でも有能な財務官僚が台頭すると松方の発言力も弱まった。
大正時代の松方はまた時として国家の重要機密に関与し、元老会議の一員として後継内閣の首班指名に参画し、政権交代の介添者となった。
政治の第一線から退いたとはいえ、大正6年には内大臣に任じられ、日本の政治外交財政について、伊藤博文亡き後、山県有朋と協力してその舵を取った。

松方は財政面で大きな業績を残したが、財界とは直接に結ぶことはしなかった。
大変な子福者で13男6娘をもうけたが、その実子らには政商的な動きはさせず、民間事業に進出させた。
松方の生きた時代は日本資本主義の開幕から興隆期を迎えるところまでで、大正12年の関東大震災の天譴を聞きながらその翌13年に、90年の生涯を閉じた。

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