概要
江戸時代末期の1863年8月15日から17日にかけ、生麦事件の解決を目的として、イギリスと薩摩藩との間で起こった戦争である。アングロ=サツマ戦争とも呼ばれる。
勝敗に関しては諸説あるが、戦闘の末にイギリス艦隊・薩摩藩ともに、甚大な被害を受け、実質的に痛み分けの結果となったといえる。
イギリス艦隊側の損害
人的損害
- 死傷者は63人(旗艦ユーライアラスの艦長と副長を含む死者13人、負傷者50人)
物的損害
- 大破1隻
- 中破2隻
薩摩藩側の損害
人的損害
- 什長の税所清太郎(篤風)他7人が死亡し、老臣の川上龍衛が負傷。
物的損害
- 台場の大砲8門と火薬庫の他に鹿児島城内の櫓や門など損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻が焼失と、軍事的な施設以外への被害が甚大であった。
戦いが終わった後に、朝廷は薩摩藩の攘夷実行を称えて薩摩藩に褒賞を下し、横浜に帰ったイギリス艦隊内では、戦闘を中止して撤退したことに、兵士の間で不満が募っていた。
当時の世界最強とされたイギリス海軍が、事実上勝利をあきらめ横浜に敗退する結果となったのは、西洋にとっては驚きの出来事であり、当時のニューヨーク・タイムズ紙はこの戦いについて
「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さを挫くことはできなかった」
と書いており、さらに
「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」
とも評している。
そして、薩摩藩も戦いを通して、西洋文明の技術力や軍事力の優等性を身をもって実感した事から、攘夷派だった思想を翻して、積極的に欧州の技術力や戦力を受け入れる方向に転換。
その後の講和交渉の中で、賠償金を支払う条件としてイギリスから軍艦や銃器をはじめとした兵器武器の購入の斡旋を取り付けて、事実上の通商交渉にしてしまうなど、その巧みな交渉術を披露した事で、イギリス側も本来の目的である貿易に積極的な姿勢を示さない幕府よりも、交渉力、決断力に秀でた薩摩藩を高く評価するようになる。
そもそも薩摩藩主島津久光は、攘夷論に傾倒していたわけではなく、諸外国との貿易を幕府が独占していた事が許容できず、寧ろ外国との交易を希望していた。
こうして利害の一致した薩摩藩、イギリスの双方は親密な交流を重ね、関係を深めていく事となる。
そして、この交易によって薩摩藩は幕府に知られる事なく、ミニエー銃やアームストロング砲をはじめとする西洋の強力な兵器・武器を揃える事ができ、やがてこの5年後に勃発する戊辰戦争を勝ち抜く上で大きな決め手となった。
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雨降って地固まる…この戦争の結果に相応しいことわざ。
薩摩ホグワーツ…ストーリーのバックボーンにこの戦争が大きく関わっている。