プロフィール
- 生没年:文化14年(1817年)~明治20年(1887年)12月6日
- 幼名:普之進
- 通称:又次郎→山城→周防→和泉→三郎
- 諱:忠教(ただゆき)→久光
概要
生い立ち〜重富島津家当主
薩摩藩・第10代藩主・島津斉興を父として鹿児島城に生まれる。母は父・斉興の寵愛を受けたお由羅の方、兄弟に後に藩主の座を争う異母兄・斉彬らがいる。元服して忠教と名乗り天保10年(1839年)11月に叔父で重富島津家の当主・忠公の養子となり重富島津家の五代目当主に就任した。
お由羅騒動
長兄・斉彬は江戸に生まれ、蘭学に強い興味を示した曽祖父・重豪の薫陶を受けて開明的な洋学好みの人物として育った。重豪は蘭学の研究はじめとした学術研究や諸藩との交流に多額の費用(借金)を費やし、その額実に500万両、11代将軍・徳川家斉の舅として権勢をふるい「高輪下馬将軍」とまで称された人物である。これに対し、忠教は鹿児島に生まれ、和漢の学問をいそしむ保守的な人物として育った。
家老・調所笑左衛門(広郷)を用いて財政再建に乗り出していた父・斉興と母・お由羅の方は「重豪の再来」と言われる嫡男・斉彬が再び財政危機をもたらすことを恐れ、これを廃嫡し保守的ではあるが優秀な忠教を次の藩主に据えようと行動を起こし、これに反対する斉彬擁立派の家臣達との間で「お由羅騒動」と呼ばれる家督争いが勃発した。
この藩を二分する争いに赤山靭負、大久保利世(大久保利通の父)ら斉彬擁立派の人物は弾圧にあい藩政は混乱するが、嘉永4年(1851年)、幕府(斉彬の盟友である老中首座・阿部正弘ら)の介入により斉彬を藩主とする裁定が下り、家督争いは一応の終結を見ることとなった。
なお、この兄弟は兄・斉彬は弟・忠教の和漢の教養を高く評価し、忠教は斉彬の開明的な政治姿勢を尊敬しており個人間の関係は良かった。
斉彬の政策
薩摩藩主に就任した斉彬は西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利通)らの下級武士を抜擢し洋化政策をとる。幕府の許可を得て琉球問題を処理し、城内に精錬所、藩の別荘・磯御前に反射炉や溶鉱炉を持った近代的工場・集成館を設置、写真技術の研究、洋式艦船の建造、日の丸の日本国総船印制定の建言も行っている。
安政3年(1856年)12月、一橋派であった斉彬は自身の叔父にあたる島津忠剛の娘・篤姫を養女として13代将軍・徳川家定の御台所に入れ、次の将軍に一橋慶喜を就任させるための工作をさせようとした。しかし、篤姫は斉彬の思惑通りに動かず、むしろ井伊直弼ら南紀派が推す紀州藩主・德川慶福の将軍就任に積極的だったという。
薩摩藩の実権を握る
安政5年(1858年)7月8日、鹿児島城下で観兵式の指揮をとっていた斉彬が急の病に倒れ、16日死去、遺言により忠教の子・忠徳(後に茂久さらに忠義に改名)が家督を継ぎ、父・斉興が後見し政権に返り咲いた。現在の研究で斉彬の死因はコレラと考えられているが、城下では「父・斉興が斉彬を毒殺した」、「お由羅の方が斉彬を呪詛した」との不穏な噂が流れ、西郷らもこれを信じたという。また西郷はお由羅騒動に巻き込まれた赤山の部下だったためお由羅への憎しみは強かった。
翌、安政6年(1859年)9月に父・斉興が死去し、忠教が藩政の実権を握る。兄の抜擢した大久保一蔵や家老に任じた小松帯刀らを重用して藩政改革に乗り出した。しかし、西郷は勤王派の僧・月照を鹿児島に匿い、月照とともに錦江湾に入水自殺をこころみた罪により大島に流されている。
寺田屋事件
文久元年(1861年)、忠教は諱を久光とする。同年に西郷を大島より召還、上洛して朝廷との工作にあたるよう命じるが、西郷に無位無官であること、斉彬ほど人望がないことを理由に「田舎者」と罵倒に近い形で政策に真っ向から反対される。当然、立腹するが、大久保が西郷を説得したことにより、しぶしぶ西郷の朝廷工作を許す。
文久2年(1862年)、久光は幕政改革を志した兄・斉彬の遺志を継ごうと軍勢を率いて鹿児島を出発するが、それら行為は多くの人々の憶測を呼び、特に旅籠・寺田屋に集った強硬派の薩摩藩士たちは久光が倒幕の兵をあげるのではないかと期待した。しかし、久光に倒幕の意思はなく、自重を求める使者を送りなだめたが、藩士たちはこれを拒否、斬りあいとなり強硬派を鎮圧した。また、この際に待機命令を守らず強硬派藩士達の説得に独自にあたろうとした西郷に激怒した久光は、西郷を徳之島、次いで沖永良部島へ遠流し、2年後までこれを赦免することはなかった。
幕政改革を求める
同文久2年6月、久光は無位無官であったが勅使・大原重徳とともに江戸に入り、幕政改革を要求。時期を逸したものとはいえ、幕府を動かし一橋慶喜を「将軍後見役」に、前越前藩主・松平春嶽を「政治総裁職」に任じさせることに成功した。
生麦事件
同文久2年8月、鹿児島への帰り道、生麦村(現在の神奈川県横浜市近辺)で行列を横切ったイギリス人数人を薩摩藩士が殺傷、結果的に「攘夷」を実行したことになり京で絶賛されるが、実は久光としては決して攘夷を実行しようという意図はなく、むしろ幕府が外国貿易を独占していたことに不満があった為、この事件は自らが望んでいた外国との貿易を遠ざける事となってしまった。
だが、この事件をきっかけに翌文久3年(1863年)7月に勃発した薩英戦争が、さらに意図せぬ展開へと至る。
この戦争を通してさすがの久光も西洋の兵器や技術が日本よりも遥かに進んでいる事を身を以って実感する。そして薩摩藩は五代才助(友厚)ら5人をイギリスの首都・ロンドンに留学させたり、横浜居留地の商人らを鹿児島に招待し、直々にその技術を導入、発展させていく。こうして紆余曲折ありながらも久光の思惑通り、薩摩藩は諸外国との貿易に成功。軍備を始め様々な面から洋式化を目指すこととなる。
朝廷会議とその頓挫
同文久3年(1863年)8月、薩摩・会津両藩の協力により、尊王攘夷派の急先鋒である長州藩を京の都より追放(八月十八日の政変)、このとき長州藩は三条実美ら尊攘派の公家7人を同行し、領内に匿った(七卿落ち)。
諸侯による朝廷会議を提唱し、文久3年(1863年)12月、一橋慶喜、松平春嶽、前宇和島藩主・伊達宗城、前土佐藩主・山内容堂、京都守護職(会津藩主)・松平容保とともに「朝廷参与」に就任し、同時に従四位下・権近衛少将に任じられるが、慶喜と意見が合わず朝廷会議は解体、「朝廷参与」を辞任し小松や西郷に後事を託して帰郷する。
明治維新まで
この後、四候会議まで久光が鹿児島を動くことはなかったが、元治元年(1864年)8月には「禁門の変(蛤御門の変)」、慶応元年(1865年)5月には「第一次長州征伐」、慶応2年(1866年)1月21日には「薩長同盟」の締結、同慶応2年7月には「第2次長州征伐」と将軍・徳川家茂の戦病死、幕府軍の事実上の敗北、同慶応2年12月5日、一橋慶喜が将軍に就任、同月25日には孝明天皇が崩御し、翌慶応3年(1867年)1月、祐宮睦仁親王が践祚(明治天皇)するなど時代は大きく変動する。
慶応3年(1867年)4月、上洛し、5月に「四候会議」を開くが決裂。藩論は倒幕に傾き、久光は幕府との政治的妥協を断念する。9月、明治天皇から「倒幕の密勅」が下され、薩長両藩による武力倒幕が始まる。
同慶応3年(1867年)11月15日、将軍・徳川慶喜は大政を朝廷に奉還、大義を失った薩長両藩は旧幕府軍を挑発、翌慶応4年(1868年)正月、鳥羽伏見で軍事衝突が起きたことで戊辰戦争がはじまる。旧幕府軍が鳥羽伏見で敗北すると、前将軍・徳川慶喜は京都守護職・松平容保、京都所司代・松平定敬を連れ去る形で江戸に逃げ帰った。
慶喜は恭順の意を示すため寛永寺に謹慎、松平容保・定敬兄弟は会津に逃亡、奥州各藩は「奥羽越列藩同盟」を結成し朝廷軍を迎え撃つが敗北、明治2年(1869年)、榎本武揚率いる旧幕府軍残党がこもる五稜郭が陥落したことにより、戊辰戦争は終結した。
明治維新後
明治4年(1871年)、明治新政府により「廃藩置県」が断行され激怒。「祝辞代わり」と称して一晩中花火を打ち上げさせた。その後左大臣に任じられるが、新政府の政治方針に反対しすぐに辞職して鹿児島に引退した。明治10年(1877年)に起きた西南戦争には中立を守り、どちらにもくみしなかった。
明治20年(1887年)12月6日、71歳で死去、生涯、髷を切らず、帯刀・和装を続けたという。明治政府が進める急進的改革には批判的で、最後まで「西郷や大久保に騙された」と言い続けたといわれている。明治政府は改革に反発する地方や保守派への慰撫の意味も込めて国葬とし、首都の東京ではなく鹿児島で国葬が行われた。
フィクションにおける島津久光
NHK大河ドラマ
司馬遼太郎の同名小説が原作。
宮尾登美子の小説・『天璋院篤姫』が原作。
林真理子による書下ろし。
大森美香による書下ろし。
ちなみに高橋氏はのち『篤姫』では斉彬を演じ、山口氏は2000年の『葵徳川三代』では島津豊久(初代藩主・家久の従兄弟)を演じていた。
民放ドラマ
杉山義法脚本。
ゲーム
初代と二代目の「幕末志士伝」双方に登場。初代において西郷でプレイする際には史実通り大きな壁になる。
今上天皇までの系譜
島津久光ー島津忠義ー島津俔子ー久邇宮良子女王ー上皇明仁ー今上天皇
関連タグ
西郷隆盛…2度の島流しを命じられるなど、久光との仲は西南戦争の後まで険悪だった。