概要
生没年 文政2年(1819年)12月3日~安政4年(1857年)8月6日
江戸時代末期の老中、日米和親条約を締結したことで知られる。
老中就任まで
文政2年(1819年)12月3日、備後国(広島県)福山藩5代藩主・阿部正精の五男として生まれる。
天保7年(1836年)、兄・正寧が隠居、家督を継ぐ。以後22歳で寺社奉行に就任。
天保14年(1843年)閏9月11日、25歳で老中に就任。
弘化2年(1845年)に幕閣のトップである老中首座となる。
黒船来航前夜
江戸時代も後期になるとイギリス、ロシアから開国を求める使者が北海道や長崎に出没、ドイツ出身のシーボルトが「オランダの医者」として入国、日本地図を母国に持ち帰ろうとする一件が発覚しシーボルトは国外追放、それにかかわった役人が死罪に処される事件が起こった。
そんななかにあって、幕政を主導する正弘は攘夷強硬派の水戸藩・徳川斉昭・慶篤父子、開明派の越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩世子・島津斉彬ら大名と国防の策を練る。
嘉永4年(1851年)、薩摩藩の相続争いに介入、藩主・島津斉興に隠居を命じ、同志である島津斉彬を薩摩藩主とする。
黒船来航
嘉永6年(1853年)1月、マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が来航、アメリカ大統領よりの国書を受け取る。ペリーは国書の返答を得るべく一年後の再来航を約して去る。
ペリーが再来航するまでの間、日本は大混乱に陥っていく。
これまで幕閣のみで決めていた政策を親藩、譜代大名はおろか外様大名にまで意見を聞き、ついには一般庶民にまで意見を聞くこととなっていく。
まさに日本全体がパニックになったようなありさまで、寄せられた意見も玉石混淆というありさまとなった。徳川斉昭は武力で追い払うことを主張し、ある女郎屋の主人はアメリカの艦船に酒肴を送って酔いつぶし夜討ちをかければいいと主張した。(もちろん開国やむなしと考える幕閣たちによって、これらの意見はすぐに却下された)
日米和親条約締結
安政元年(1854年)、ペリー再来航、幕府は当時の国際法「万国公法」にのっとって交渉、3月31日に「下田、箱館(函館)を開いて水・薪、食糧を提供する」日米和親条約を締結した。
安政4年(1857年)老中在任のまま、39歳の若さで死去。次の将軍には徳川斉昭・慶篤父子、松平慶永、島津斉彬、伊達宗城らと英明で知られた一橋慶喜(斉昭の七男)を推していたといわれる。