概要
第9代藩主水戸藩主。
諡号は「烈公」(れっこう)。
徳川治紀の3男で文政12年(1829年)水戸藩主となる。
藩の財政再建のために、藤田東湖を登用。人材育成のための藩校「弘道館」や、領内の民ととも(偕)に楽しむという意味から名付けられた「偕楽園」を創設した。
藩主を譲った後も、近海に現れた外国船に備え軍備の充実を図るため、大砲製造を目的とした反射炉を建設した。
過激な尊王攘夷思想の持ち主で、将軍の跡継ぎ問題や日米通商条約の調印をめぐって大老井伊直弼と対立。しかも、2022年12月にペリーを暗殺する計画の書簡が見つかったことで、彼の尊王攘夷の思想が如何に確固たるものであるかが窺い知れる。その後水戸に永蟄居を命ぜられ、水戸城中において61歳で没した。
七男である七郎麻呂は、のちの江戸幕府第15代征夷大将軍徳川慶喜になる。
人物
- 厳格な性格で七郎麻呂(慶喜)の寝相を直すべく彼が寝る枕の両脇に剃刀(日本刀とも)を立てて寝かせた。のちにこれは慶喜の習慣となり、生涯続けたとされる。
- 好色で大奥の高い身分の女性に手を付けたり大奥に節約を強いたため、大奥では不評で慶喜の第14代将軍就任の足枷となった。
- 牛肉が好きで彦根から牛肉を貰って食べていたが井伊直弼が殺生になるからと牛肉の提供を中止した。
- 農民と五穀への感謝から、農民をかたどった銅の人形(農人形)をつくらせ、食事を始める前に人形の笠の中に一飯を供えることを習慣とした。
- 一方で『当時としてはかなりの高齢で少し体調を崩しただけでそのまま亡くなりかねないにもかかわらず、安政の大地震で藤田東湖や戸田忠太夫を喪って以降代わりに藩を導く人材を育成していない』・『息子徳川慶篤は母親似で柔弱だからと帝王学を学ばせず意思決定能力が低くなってしまった』・『当時の幕府中枢を批判し名前を上げるために攘夷論を展開した結果藩内をはじめとした攘夷派勢力を勢いづかせる結果となり、かえって藩内の手綱を握れなくなった(松平慶永宛の手紙で「本当は開国しかないが私は攘夷派の頭目と攘夷派の人々に思われているため、開国と言えないので貴君らが開国を計らって欲しい」と半ば自分の失敗を認めてしまっている)』と、水戸藩そのものが代々内紛処理能力を磨いてこなかったとはいえ危機管理能力の低さや芝居がかった自身の言動に対する見込みの甘さによる失敗も目立つ。自身の死後に天狗党と諸生党による内ケバを招き水戸藩を荒廃させ明治政府に碌に人材を送り出す子ことができなかったという事実から鑑みても、個人としての好き嫌いは置いといて君主としての総合的な実績は同世代の藩主の中でも最低レベルの暗君と酷評されても仕方のない部分がある。実際勝海舟は「目立ちたがりで芝居がかった言動が目立つ一方、実際には天下の安寧にはまるで貢献していない(意訳)」と(海舟個人が斉昭を嫌っていたとはいえ)酷評している。
創作作品における斉昭
NHK大河ドラマ
風雲児たち・幕末編
⋯偏屈家大老として描かれる。風習に逆らい髭を生やしたため周りから嫌われた。また間宮林蔵を蝦夷に派遣したことにも触れられており、間宮は斉彬謹慎の直前に死没している。