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徳川斉昭

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とくがわなりあき

江戸時代後期の第9代水戸藩主。江戸幕府第15代征夷大将軍(最後の将軍)徳川慶喜の実父。

概要

第9代藩主水戸藩主。

諡号は「烈公」(れっこう)。

徳川治紀の三男。成人後は松平紀教を名乗っていた。紀教は30歳になるまで部屋住みのままだったが、これは父・治紀が紀教を長兄・徳川斉脩のスペアと考えていたからとされる。

斉脩の死後、紀教は中下士層を中心とした一派に推され文政12年(1829年)、水戸藩9代藩主となった。この時、11代将軍徳川家斉の偏諱を受け名乗りを徳川斉昭に改めた。斉昭は中士や下士であっても優秀な人材を積極的に登用し学問の師匠でもある会沢正志斎藤田東湖戸田忠太夫武田耕雲斎を登用し藩政を刷新。しかし、斉昭が藩主になった経緯やその後の人事などで結城寅寿らの上士層は反発した。弘化元年(1844年)に12代将軍徳川家慶の命で強制隠居させられ家督を嫡男の徳川慶篤に譲り謹慎を命じられた。ただし藩主を譲った後も、近海に現れた外国船に備え軍備の充実を図るため、大砲製造を目的とした反射炉を建設した。

過激な尊王攘夷思想の持ち主で、13代将軍徳川家定の跡継ぎ問題や日米修好通商条約の調印をめぐって大老である彦根藩井伊直弼と対立。とで、安政の大獄では慶篤や七男の一橋慶喜尾張藩徳川慶勝らと共に謹慎に処せられたが、戊午の密勅の件で激怒した直弼から水戸に永蟄居を命ぜられた。桜田門外の変で直弼が討たれてからわすか三ヶ月後、水戸城中における中秋の宴の最中に倒れそのまま没した。享年61歳。

人物

  • 厳格な性格で七郎麻呂時代の慶喜の寝相を直すべく彼が寝る枕の両脇に剃刀(日本刀とも)を立てて寝かせた。のちにこれは慶喜の習慣となり、生涯続けたとされる。
  • 好色で大奥の高い身分の女性に手を付けたり大奥に節約を強いたため、大奥では不評で慶喜の第14代将軍就任の足枷の一つとなった。
  • 牛肉が好きで彦根藩から近江牛をもらって食べていたが直弼が藩主に就任してからは殺生になるからと牛肉の提供を中止した。
  • 農民と五穀への感謝から、農民をかたどった銅の人形(農人形)をつくらせ、食事を始める前に人形の笠の中に一飯を供えることを習慣とした。
  • 令和4年(2022年)12月、黒船来航時のアメリカの提督マシュー・ペリー暗殺する計画の書簡が見つかった。

人材育成のための藩校「弘道館」や、領内の民ととも(偕)に楽しむという意味から名付けられた「偕楽園」を創設する等の功績もあり、慶喜とは真逆で皇国史観全盛期は持ち上げられていた。しかし、現在では以下の理由もあり現在では慶喜とは逆に評価は下落している。

  • 40代の頃から狭心症の持病に悩まされ安政の大地震頃には当時としては結構な高齢でいつ亡くなってもおかしくない状態だったにもかかわらず、地震で東湖や忠太夫を喪って以降代わりに藩を導く人材を育成出来なかった。
  • 長男の慶篤は母親似で柔弱だからと帝王学を学ばせず意思決定能力が低くなってしまった
  • 当時の幕府中枢を批判し名前を上げるために攘夷論を展開した結果藩内をはじめとした攘夷派勢力を勢いづかせる結果となり、かえって藩内の手綱を握れなくなった。
  • 松平慶永宛の手紙で「本当は開国しかないが私は攘夷派の頭目と攘夷派の人々に思われているため、開国と言えないので貴君らが開国を計らって欲しい」と半ば自分の失敗を認めてしまっている。

と、水戸藩そのものが代々内紛処理能力を磨いてこなかったとはいえ危機管理能力の低さや芝居がかった自身の言動に対する見込みの甘さによる失敗も目立つ。君主としての総合的な実績は同世代の藩主の中でも最低レベルの暗君酷評されても仕方のない部分があり。実際勝海舟「目立ちたがりで芝居がかった言動が目立つ一方、実際には天下の安寧にはまるで貢献していない(意訳)」と(海舟個人が斉昭を嫌っていたとはいえ)酷評している。

フィクションにおける徳川斉昭

NHK大河ドラマ

漫画

偏屈家大老として描かれる。風習に逆らい髭を生やしたため周りから嫌われた。また間宮林蔵を蝦夷に派遣したことにも触れられており、間宮は斉昭謹慎の直前に死没している。

序盤に登場。ペリー来航時に阿部正弘らに意見を問われ攘夷論を威勢良くぶつものの、最後は戦争になっても勝ち目がないから開国しかないと語ったため正弘らをガッカリさせた。

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