概要
国家の君主たる王を尊び、王や国家の存在を脅かす外敵を斥けようとする思想であり、国家存在の根拠としての尊王思想と、侵掠者に対抗するという攘夷思想とが結びついたもので、「王を尊び、夷を攘う(はらう)」の意である。
江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学から影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンとして掲げられた。
詳細
ペリー来航により明るみに出た欧米諸国からの日本侵略の野望への反発として生まれ、諸藩の武士や公卿をはじめ、庶民階層に至るまで幅広く支持された思想であった。攘夷の発想は折しも水戸学や平田派国学により広められつつあった尊皇思想と結びつき、全国に尊皇攘夷思想として広まった。だが、それが勤皇思想と結んだ結果において倒幕と言うエネルギーに一転した。これは一種のすり替えであった。
しかし薩英戦争や下関戦争において外国艦隊との力の差に直面したことにより、単純な攘夷論に対する批判が生じて、津和野藩の国学者大国隆正らによって唱えられた国内統一を優先して、外国との交易によって富国強兵を図ってでも、諸外国と対等に対峙する力をつけるべきだとする「大攘夷」論が登場した事によって、これを受け入れた攘夷運動の主力であった長州藩・薩摩藩の主張も事実上開国論へと転向していくのである。
その後も、一部の人々は攘夷運動を進めようとした(草莽)が、明治2年(1869年)に入ると、明治政府は公議所・上局から上げられた「公議輿論」が攘夷は不可能であるという意見であったことを理由に「開国和親」を国是として以後は攘夷を議題としないことを決定(5月28日)し、また草莽に対しても出稼ぎの農民とともに勝手に本国より離れたものとして人返しの対象にすることを決定した(五榜の掲示の第5札、実際の取締規定は明治2年以後である)。
だが、復古的な攘夷論がこれによって一掃されたわけではなく、大楽源太郎の反乱計画や二卿事件、久留米藩難など明治政府を倒して攘夷を断行しようとする草莽による反乱事件が暫くの間継続されることとなる。
攘夷のエネルギーは結果的には維新政権(明治政府)を確立した薩摩藩・長州藩などの維新の元勲によって都合よく利用され、正反対の欧化政策へと導かれる結果となった。しかも、草莽を切り捨てた明治政府は明治20年代に至ると、民間からの自由民権運動への対抗のため、今度は天皇への忠誠を表す具体的な手本として、草莽の賛美と政治利用を行うようになるのである。