江戸時代、水戸藩で成立した学問の一派で、徳川光圀の『大日本史』編纂に始まる。
光圀は明王朝に仕えた儒学者の朱舜水を招き、朱子学を武士の教養として広めた。その目的は戦国時代が終わり、江戸幕府の安定政権を維持するため、武士たちに主君への忠義を定着させることだった。
水戸学は、朱子学の忠君思想を日本の歴史に当てはめたものなので、最上の忠誠の対象は天皇である。たとえば、後醍醐天皇に仕えた楠木正成は理想的な忠臣、逆に後醍醐天皇を裏切った足利尊氏は軽蔑すべき逆賊という評価になる。
ところが、こうした天皇中心に日本史を考える観点を突き詰めてゆくと、「江戸幕府が天皇の実権を奪っているのは忠義に反するから正すべき」という思想に行き着くことになる。
ことに八代将軍徳川吉宗以降、紀州藩(紀州徳川家)の血統とその傍流(御三卿)が将軍位を継ぐようになると、水戸藩は「徳川家内部の反体制派」ともいえる立場となり、さらに幕末期には、徳川家の打倒をはかる公家や、長州藩、薩摩藩などの志士と結びつくことになった。
要するに、元は徳川家の一派から生まれた水戸学が、徳川家本体を滅ぼす思想に育った図式となる。
藤田東湖・会沢正志斎らによって特色ある学風が形成され、幕末の志士たちに大きな影響を与えた。