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楠木正成

くすのきまさしげ

鎌倉時代末期~南北朝時代の武将。忠臣の鑑と呼ばれ、後世でも人気が高い。
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生涯

鎌倉時代末期、13世紀末の河内国(今の大阪府東部~南東部)で生まれたらしい。先祖や出自についてはよくわかっていない。流布している系図によれば楠木氏は氏であり、橘諸兄の子孫たる貴族橘氏の嫡流とも、平安時代の大海賊藤原純友を討ち取った武士である橘遠保の子孫であるともいう。また、駿河国(今の静岡県東部)出身で、元は北条氏の家臣だったという説もある。いずれにせよ幕府直属の御家人ではなく、悪党(当時の既存体制に反抗した勢力)と呼ばれていた在地豪族であった。

正成が時代の表舞台に登場したのは、鎌倉時代末の動乱期である。元弘元年(1331年)の記録に名が初登場し、鎌倉幕府を打倒せんと挙兵を繰り返していた後醍醐天皇に、正成もこの年に呼応して挙兵したとされる(この時点で既に兵衛尉に任官しているため、以前から後醍醐天皇かその近臣と接触があった可能性がある)。
後醍醐天皇が隠岐に流された後も、天皇の皇子・護良親王とともに河内の赤坂城や千早城などで転戦し、当時の武士の戦法にとらわれない神出鬼没の意表を突く戦い(後世でゲリラ戦法や非対称戦争と呼ばれるもの)で幕府勢を翻弄。この正成の活躍に刺激され、元から北条氏による支配体制に不満があった足利尊氏新田義貞らも後醍醐天皇側として挙兵。ついに鎌倉幕府を滅亡に追いやり、後醍醐天皇は京都へ帰還。正成と一党の奮戦は報われた。

正成は後醍醐天皇から絶大な信任を受け、武士が冷遇された「建武の新政」にあっても記録所寄人、雑訴決断所奉行人、摂津守・河内守(両国の守護も兼任)などの要職・恩賞が与えられた。しかし、建武元年(1334年)に足利尊氏と対立していた護良親王が謀反の疑いで鎌倉に幽閉されると、護良親王の有力与力であった正成も多くの役職を辞した。

建武2年・延元元年(1335年)、北条氏最後の得宗北条高時の次男・時行率いる鎌倉幕府残党に鎌倉を占拠されると天皇から出陣の許可を得ずに奪還に向かった尊氏は幕府残党軍を破り、鎌倉を預かっていた弟・直義と合流し朝廷から離反、朝敵となった尊氏は義貞らが率いる追討軍を破り鎌倉から軍勢を率いて上洛、正成は東北から急行した北畠顕家などと協力して尊氏軍を破り、京都から西国へと追い払った。
しかし、朝廷軍が播磨の赤松円心に足止めされている間に九州に落ち延びた尊氏は福岡・多々良浜で朝廷方の菊池武敏を破り、後醍醐天皇に廃されていた光厳上皇の院宣を得ることに成功し西国の武士を糾合、軍備を整えて再上洛を目指し東上。正成は後醍醐天皇と公家たちに、混乱の原因は貴族が要職を占める「建武新政」であり、武士階級と社会を治めるには公家政治ではなく武家による統治が必要であり、そのために尊氏は必要な人物であるから、尊氏と和睦するべきだと(一部の記録では「義貞を切り捨てて」とも)進言した。しかし、天皇たちが正成の言葉に耳を傾けることはなかった。ここで正成は朝廷を京から一時退避させて京で尊氏軍を迎撃する作戦を上奏した。正成としては「京の都は守るに難く、攻めるに易し」という当時から知れわたっていた戦略上の常識を利用し、攻めてきた尊氏軍を京の都におびき寄せることで攻守逆にしようという作戦であったが、軍事に疎い天皇や公家たちは正成の優れた軍略を理解できなかったこともあって容認せず、それどころか正成に一時謹慎を言い渡し、義貞とともに兵庫(今の神戸市。当時は摂津国の一部)で尊氏を迎え撃つよう出陣を命じた。
建武3年(1336年)、摂津の桜井の駅で正成は、嫡男・楠木正行にここで引き返し生き残れと諭して天皇から下賜された菊の御紋の入った短刀を渡し、今生の別れとなったと言われる。(有名なこの話は、最近では後世の創作ではないかとも言われている)

そして、兵庫近辺で楠木勢と新田勢は足利勢を迎え撃つが、水軍がない新田・楠木勢は海上から迫る尊氏の本隊を防ぎようがなかった(というか、そのまま尊氏にスルーされたら後醍醐天皇はどうするつもりだったのだろう)。
西から迫る直義率いる陸上隊が新田・楠木勢を半分取り囲むように攻撃し、海上からの別働隊が生田(今の三宮辺り)に上陸したところで、兵の数が少なく士気も低い新田勢は包囲殲滅を恐れたのか東へ逃げてしまい、楠木勢は孤立してしまう。
そこでとうとう、海上隊本体を率いた尊氏が和田岬から悠々と上陸。楠木勢は完全包囲されて湊川で殲滅されて、正成も弟・楠木正季ら一族とともに自害して果てた。
西宮まで逃げていた義貞は、さすがに味方を見殺しにしておいて今さら感漂うなか引き返し、楠木勢を既に殲滅した足利勢と生田で激戦を繰り広げるが、結局は新田勢も壊滅して、義貞は味方を逃がしてから最後に離脱、京都へ逃げ帰った。

その後、正成の首は尊氏の手で丁重に遺族へ返された。戦没地には慰霊のための堂が建てられ、明治初期に湊川神社となった。
正成没後の楠木一族は南朝側の有力武将として北朝軍と戦い、正成の遺児、正行・正時兄弟も四条畷の戦いにおいて南朝に殉じることになるが、ついに北朝の優位を覆すことはできなかったばかりか、貴族が優位な立場を占める南朝主流派と意見が相違する事もあり、徹底抗戦派と折り合いの悪かった三男・正儀が一時的に北朝へ投降していた時期もある。
そして、南朝の衰退とともに楠木氏も衰退し、室町時代には後南朝関係者=北朝の系譜を継ぐ朝廷への反逆者として、一族は戦死や刑死により断絶した。
子孫を称する家系は数多いが、明確に直系の子孫と認められた家系はなく、南朝関係者の子孫に爵位が与えられた際も、「正成の子孫」と公的に認定された家はない。
なお、昭和に入って発見された史料『上嶋家文書』によれば、の始祖観阿弥の母は楠木正成の姉妹であったという。もっとも上嶋家文書自体が江戸時代の偽作ではないかとの説もある。

死後の評価

後醍醐天皇は尊氏上洛を受け吉野に退き、南北朝時代を経て北朝(と室町幕府)が最終的に勝利したため、南朝方となった正成は朝敵と見なされた。とはいえ、「太平記」はもちろん、足利氏の関係者が関わった「梅松論」でも、人格・軍事ともに高く評価されていた。「太平記」でもあまりよく書かれていない義貞とは大違いである。
が、元々そんな好印象があるため、色々とはばかる事のある室町幕府が衰えると復権も早く(なお、当時の朝廷は、後醍醐天皇の在位を、正成が死んだあとに光明天皇に譲位するまで有効だとしている)、戦国時代には末裔を称する楠木正虎の運動により正成は朝廷から赦免されている。江戸時代に尊皇家によって「忠臣」と見直されるようになり、明治時代には「天皇の忠臣の鑑」として称えられ、子の「小楠公」正行と対比して「大楠公」と呼ばれた。
当時持ち上げられた「南朝の忠臣」の中でも、比較的低い身分から現れて、砦に籠もって幕府の大軍を翻弄するなど活躍は華々しく、そして尊氏軍との戦いにおいても後醍醐帝に殉じて悲劇的な最期を遂げるなど、日本人の心の琴線に触れるには十分なものであった。
第二次世界大戦期には絶大な知名度を戦争遂行や耐乏生活の強要に利用された事物もある(食べることすら困難な代用食に楠公飯という名前がつけられるなど)が、評価を下げる要因とはなっていない。
時代が変わり「南朝の忠臣」勢が一気に世間受けしなくなっても、義務教育の歴史の教科書に必ず出てくる後醍醐天皇と足利尊氏などを抜きにすれば、この時代の人物としては最も知名度があり、人気の点では前述の二者を入れても、いまなお群を抜いてトップである。

正成は忠臣として最期までその忠義を全うし、かつては友で敵となった尊氏とは互いに認め合った清廉な人物だったが、肝心の後醍醐天皇からは信頼されてはいたが最終的に裏切られて非業の最期を遂げるに到った、「不憫な忠臣」ともいえる。とはいえ、使い捨てられ感漂う義貞よりはよほどマシかもしれない。

七度うまれて君が代を
まもるといひし楠公の
いしぶみ高き湊川
ながれて世々の人ぞ知る
―― 鉄道唱歌(東海道篇)六四番より

正成が登場する諸作品

太平記梅松論を元ネタにした物が多く、いずれにしてもゲリラ戦の名手や義理堅い性格、悲劇の英雄として描かれる。

  • 私本太平記吉川英治氏の小説。尊氏をメインにしているが、正成も主要人物としての立ち位置は変わらない。大河ドラマ太平記の原作になった。
  • 新太平記山岡荘八氏の歴史小説。
  • マンガ日本の古典太平記:さいとう・たかを氏によるコミカライズ。
  • 学研の人物日本史『楠木正成』:イラストはうめだふじお氏。主人公を務め、大阪弁で話す。オリキャラの坊主・悪やんと共に奮戦するが、尊氏(武士の希望を集める存在であり絶対悪ではない)とは互いを認め合って気遣うライバル同士。
  • 人物日本史『足利尊氏』:イラストは伊藤章夫氏。当初こそ尊氏とは良き同志だったが、後に袂を分かっており、今作のライバルキャラ。武士を蔑む貴族らに辱められ、後醍醐天皇にも意見を蹴られるなど悲壮な場面が多く、その哀れな死には北朝軍も悲しんだ。
  • 蒼き狼と白き牝鹿Ⅳ:シナリオ2の後半で登場する猛将で、政治力を除けば知勇兼備の名将。パワーアップキットでは子供の正儀も登場し、ライバルの孫である足利義満とも共演している。顔グラフィックは信長の野望三國志ツクールにも登場する。

関連イラスト

楠木正成2
キングまさしげ



関連タグ

日本史 鎌倉時代 南北朝時代 武将 悪党 太平記
後醍醐天皇 足利尊氏 護良親王 新田義貞 楠木正儀
武田鉄矢-大河ドラマ太平記で正成を演じた。

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