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護良親王

もりよししんのう

後醍醐天皇の皇子。通称「大塔宮」。(?~1335年)
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後醍醐天皇の皇子の諱の「良」は、「よし」「なが」のどちらかで呼ばれるが、「よし」は根拠になる史料を室町時代まで遡れるのに対して、「なが」は江戸時代にならないと出てこない。
「大塔」も「おおとう」「だいとう」の両方で呼ばれるが、由来となる塔が「おおとう」である事から、そちらに揃えて呼ばれる事が多い。

概要

 後醍醐天皇の子で、幼少時に出家して僧侶となり、血筋もあり若くして梶井門跡を継ぎ、比叡山延暦寺の天台座主になる。当時の延暦寺は平安時代末期の治天の君白河法皇ですら「この世でわが意に沿わぬ3つのもの」のひとつと数えられるくらい政治・軍事・経済において強大な力を有しており、現在では幕府を打倒し醍醐天皇の治世を理想とした後醍醐帝が延暦寺を味方につけるため、天台座主として送り込まれたと考えられている。親王も父帝の意を汲んで武芸を好み、日常的に訓練をしていた。もちろん、現在考えられているファンタジー職業の僧侶とは違っており、織田信長の焼討以降、豊臣秀吉徳川家康徳川家光によって再建された後の歴代の天台座主がそんな事をする必然性はない。
 後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうと挙兵した際に呼応して、後醍醐天皇が隠岐に流されていた間も近畿地方の各地を転戦するとともに、令旨を出して反幕府派の武士を募った。この時同時に後醍醐天皇も綸旨を出していたため、二人の関係が密かに悪化する。自らも村上義光赤松則祐等の手勢を率いて吉野、熊野と転戦する。
 鎌倉幕府が滅亡すると、六波羅探題を滅ぼし、鎌倉を陥落させた軍勢の大半にも息が掛かっている足利尊氏を敵視した。征夷大将軍に任命されてからも、成良親王と尊氏の弟・足利直義がいた鎌倉への牽制のために義良親王北畠顕家を奥州に派遣する事を進言するが、後醍醐天皇は自分の綸旨を差し置いて令旨を出していた護良親王を尊氏よりも危険視し、捕縛して鎌倉にいた宿敵・直義に引き渡す。
 鎌倉では塗籠(地下牢的なものと思われる事があるが、実際には土壁で囲んだ部屋)に幽閉され、幕府残党軍を率いる北条時行に鎌倉が攻撃された際に、時行が護良親王を擁立する事を恐れたといわれる直義の命令で、護良親王は殺害されてしまった。(一説には刺客の振り下ろした太刀筋に歯を立てて最期の抵抗したとも言われている)

関連イラスト

まさに護良親王(違)
【大塔宮護良親王】何故 殺した【足利直義】



関連タグ

南北朝時代
後醍醐天皇 足利尊氏
僧侶 僧兵
足利義教…天台座主としての遥か後輩で、悲運の死等が共通する。

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