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北条時行

ほうじょうときゆき

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。得宗・北条高時の次男。
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概要

生没年 ?~文和元年・正平7年5月20日
 鎌倉幕府・第14代執権北条氏得宗北条高時の次男。幕府の滅亡に際して鎌倉を脱出、中先代の乱を起こした。

鎌倉幕府滅亡

 元弘3年(1333年)5月22日、幕府は新田義貞を大将とし、足利千寿王を旗頭とする討幕軍に攻められ滅亡、父・高時、金沢貞顕ら北条一族、長崎円喜高資父子をはじめとする家人・被官らは東勝寺において自刃した。高時、このとき31歳、兄・邦時もこのとき10歳で自刃しており、当時、時行は7歳前後ではなかったかと考えられている。
 このとき、高時の弟・北条泰家は被官・諏訪盛高に命じ、時行とともに鎌倉をを脱出させ、時行は信濃の諏訪盛重にかくまわれた。

建武の新政の失敗

 この後、隠岐から京に戻った後醍醐天皇は元号を「元弘」から「建武」に改元、幕府に擁立された光厳天皇を廃して復位、天皇による親政を目指した。
 しかし、天皇親政はすぐに破綻する。理由としては公家や寺社の荘園の安堵、武士に対する恩賞の不備、人事の不公正、不必要な建築物の造営などであった。
 これらの施策の失敗により、生命をかけて幕府打倒に働いた武士たちの不満は高まり、各地で反乱が頻発するありさまとなった。

中先代の乱

 こんななかにあって、建武2年(1335年)、時行は3万の幕府残党ともに京の西園寺公宗と図って挙兵、迎え撃った足利尊氏の弟・直義を破り、鎌倉を占拠、直義は護良親王と幕府残党が糾合するのを恐れて土牢に幽閉していた親王を殺害する。
 この凶報に尊氏は軍勢を率いて京より下向、わずか20日あまりで鎌倉を奪還、以後、朝廷よりの帰洛命令に逆らって南朝軍と戦い、室町に新たな武家政権(室町幕府)を作る端緒となった。

 一方、尊氏に敗れた時行は南朝方に属して北朝軍に対抗したが、文和元年・正平7年(1353年)5月20日、捕らえられて鎌倉竜口において斬首、北条氏嫡流は滅亡した。

余談

 幕末の思想家・横井小楠を輩出した熊本・横井氏は北条時行の後裔を自称し、家紋も「三鱗を丸で囲ったもの」を使用しているが、たしかめようがなく現在も不詳である。

関連タグ

鎌倉時代 南北朝時代 鎌倉幕府 得宗 北条氏

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