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北条時行

ほうじょうときゆき

北条時行とは、鎌倉末期から南北朝期にかけての武将。北条得宗家当主・北条高時の次男に当たり、幕府滅亡に際して信濃へ逃された後、幕府残党を糾合して挙兵に及ぶ。足利尊氏の追討によって鎮圧された後も、かつての敵であった南朝方と組んでなおも足利氏に抗し続けた。(生年不詳-1353年?)
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概要

鎌倉幕府第14代執権にして、北条氏得宗家当主・北条高時の次男に当たる。幕府滅亡、地方への逃亡と波乱の幼少期を過ごし、後に建武政権に反旗を翻し、特に足利尊氏とは生涯に渡って対立を続けた。


その尊氏に対する敵対姿勢は、単にその執拗さだけに留まらず、実力による鎌倉占拠により武家の支配者としての正当性を認められる(※)事なども含め、尊氏を恐れさせるだけのものがあったとされる。実際に、尊氏が鎌倉へ出兵する際に征夷大将軍の地位を望んだのも、時行の掲げた鎌倉幕府再興という大義名分に対して、征夷大将軍という権威を得る事でこれに対抗しようとしたのではないか、という説もある程である。


その信憑性については疑問の残るところではあるが、平野長泰豊臣秀吉家臣)や板部岡江雪斎(後北条氏家臣)、横井小楠(江戸末期の思想家)のように、後世において時行の落胤・末裔を称した家も少なからず存在する。


※ 時行が引き起こした中先代の乱の「中先代」という呼称は、武家の支配者としての先代(北条得宗家)と御当代(足利氏)の間に位置する事に由来したもので、即ち世間からは彼らと同質の存在として、時行が見做されていた事を意味していると見られている。


生涯

鎌倉幕府滅亡

幼名・生年については現在に至るまで確定を見ていない。前者は勝長寿丸(『保暦間記』)、亀寿(『太平記』)、全嘉丸・亀寿丸(『北条系図』)など複数の説があり、後者についても兄に当たる北条邦時の生年が正中2年(1325年)である事から、恐らくはそれから鎌倉幕府が滅亡した元弘3年/正慶2年(1333年)の間のいずれかではないかと考えられている。


ともあれ元弘3年/正慶2年5月22日、新田義貞を中心とした討幕軍による鎌倉攻略により迎撃した第16代執権・赤橋守時は敗れたすえ自刃、父の高時を始め、金沢貞顕ら北条一族、長崎円喜高資父子ら家人・被官らは東勝寺において自刃した。また兄の邦時も家臣の裏切りにより、程なく捕縛・処刑の憂き目に遭っている。


このような状況に際し、時行は母の計らいにより諏訪盛高に守られ鎌倉を脱出しており、後に北条氏累代の守護国でもあった信濃へ落ち延び、得宗家被官にして諏訪大社大祝の家系である諏訪氏の当主・諏訪頼重の庇護を受ける事となる。


中先代の乱

鎌倉幕府滅亡の後、後醍醐天皇によって敷かれた「建武の新政」は、天皇の熱意とは裏腹に早くも破綻の兆しを見せつつあった。倒幕の功績に対する恩賞の不備・不公正や、身分・能力の有無を問わない人材登用、さらに新貨幣・紙幣の鋳造・発行など、建武政権下で新たに打ち出した施策は行政から経済に至るまで混乱を来す有様であり、建武政権は民衆や武家からの信頼を急速に失っていった。


破綻する新政を横目に、北条一族の残党は信濃を中心に諸国で蜂起を繰り返していた。建武2年(1335年)には、かつての関東申次で新政下において立場を失っていた西園寺公宗らが、京都に潜伏中であった北条泰家(時行の叔父)を匿った上で、後醍醐天皇暗殺と政権転覆を企てるという事件も発生している。この天皇暗殺の企ては失敗に終わるも、泰家は難を逃れ諸国の北条一族の残党に挙兵を促し、それはやがて信濃の時行らの元にも伝わる事となる。


同年7月、諏訪頼重ら諏訪一族、滋野氏など当地の武家たちの擁立を受け時行は挙兵に及ぶ。まず時行ら反乱軍は信濃を抑えると、次いで武蔵を経由して鎌倉へ進軍。迎撃した鎌倉将軍府の軍勢を女影ヶ原や小手指ヶ原において立て続けに打ち破り、渋川義季や岩松経家、今川範満ら足利・新田一門の有力な武将たちを敗死せしめた。建武政権側が、反乱軍が時行を擁していると知らずに鎌倉ではなく京都へ向かうものと予想していた事も、こうした反乱軍の怒涛の進撃に繋がったものと見られている。

事ここに至り、鎌倉将軍府の執権を務めていた足利直義足利尊氏の弟)も自ら軍勢を率いて迎撃に当たるが、こちらも散々に打ち負かされ鎌倉陥落は時間の問題となった。直義はやむなく足利義詮(尊氏の嫡男)や成良親王(鎌倉府将軍)らを伴って鎌倉より逃亡。またこの時鎌倉には、政争に破れた護良親王(後醍醐天皇の皇子、前・征夷大将軍)も幽閉されていたが、親王と幕府残党が糾合するのを恐れた直義は、鎌倉脱出に先んじて家臣に命じ親王を討たせてもいる。


かくして時行らは見事鎌倉を手中に収めた(一度目の奪還)。反乱軍は、その余勢を駆って駿河手越河原にて直義軍を追撃するなど猛威を奮ったが、やがて8月に入ると足利尊氏がこの事態を受け、軍勢を率いて京都より下向すると形勢は徐々に逆転。反乱軍は遠江橋本での敗戦を皮切りに連戦連敗を重ね、辻堂での合戦における大敗により足利軍の鎌倉突入は決定的となった。事ここに至り、破れた諏訪頼重らは鎌倉・勝長寿院にて自害し、時行もわずか20日あまりで鎌倉から追われる身となったのである。


時行による鎌倉支配が短期間に終わったのは、単に尊氏による反攻が激しかったのみならず、かつての鎌倉幕府吏僚や御内人の大半の支持を得られず、結果として旧御内人勢力が二分される格好となった事も影響している。


しかしこの一連の軍事行動により、鎌倉は最早建武政権の統治の及ぶところではなくなってしまった。鎌倉入りした尊氏がその後帰洛する事なく、鎌倉に留まって恩賞の分配など独自の政権樹立に向けた動きを見せるようになったためである。こうした動きはやがて建武政権と、足利氏や政権に不満を持っていた武士たちとの対立、ひいては新たな武家政権(室町幕府)樹立の端緒ともなった。


南朝への帰参と転戦

鎌倉を追われた時行はその後再び諏訪へ逃れたと見られ、しばらくの間は雌伏を余儀なくされていたようだが、一方で鎌倉陥落後も相模や信濃では依然として、前出の北条泰家を始めとする北条氏の残党が、信濃守護の小笠原氏などに対し根強い抵抗を続けていた。

やがて世が南朝・北朝による動乱期に入った延元2年/建武4年(1337年)、かつての仇敵であったはずの後醍醐天皇によって勅免を受ける(この時、父・高時の朝敵恩赦の綸旨も受けている)と、以降は南朝方として足利氏と幾度となく干戈を交えるようになった。

この南朝への帰参の理由については諸説あり、当時の情勢が南朝方優位に推移していた事、育ての親たる諏訪頼重の仇を討たんとする意志があっての事、元々結託していた光厳上皇が尊氏と組んで持明院統の復活に舵を切り、これを時行が上皇の背信と判断した事、などが挙げられる。

南朝帰参後、時行はまず奥州の北畠顕家と行動を共にし、顕家が遠征軍を率いて西上に及ぶと、その途上の美濃青野原の戦いなどを始め足利軍と度々交戦。鎌倉を再度奪還することに成功する(二度目の奪還)が、和泉国での戦いで顕家が戦死し遠征軍は瓦解。時行は行方をくらませた。


その2年後の興国元年/暦応3年(1340年)には諏訪頼継(諏訪頼重の孫)と共に信濃大徳王寺城にて再挙、新田義興(新田義貞の次男)の軍に属してなおも抵抗を続けた。

正平7年/文和元年(1352年)、北朝方で内紛が生じたのを好機と見た北畠親房の画策により、南朝方は京都と鎌倉の同時奪還を期して挙兵に及び、時行も新田義興らと共に上野より鎌倉へと攻め上った。一旦は足利基氏(足利尊氏の四男)ら鎌倉府の軍を破って再び鎌倉を占拠した(三度目の奪還)が、新田義宗(義貞の三男)の敗北により形勢不利に陥ると、一度目の鎌倉占拠の折と同様に僅か20日程度で鎌倉脱出を余儀なくされた。

その後1年余りに亘る追及の末に、翌正平8年/文和2年5月20日(1353年6月21日)、足利方に捕らえられた時行らは鎌倉の龍ノ口において斬首され、北条氏嫡流はここに断絶の時を迎えた。


北条時行の血筋。

次男・時満の子・北条時任が愛知郡横江村に逃れ、その孫・時永が横井氏を称し赤目城を築城する。


2代目城主、横井時勝は足利義輝の家臣に加わり、3代目城主の横井時延は織田信長の家臣に加わった。その後、4代目城主、横井時泰は織田信長・織田信雄・豊臣秀吉・徳川家康に属した。


横井時延の三男、横井治太夫は紀州徳川家に属し、自ら紀州横山家を起こして分家し、横井時延の四男、五男の横井時朝、横井時久は関ヶ原の戦いにより時朝は海西郡藤ヶ瀬村で1200石を得て藤ヶ瀬横井家を起こして分家し、時久は中島郡祖父江村で1900石を得て祖父江横井家を起こし現在に至る。

江戸時代になると横井氏は代々、尾張藩主の重臣として働き、給人として特別な待遇を受けて明治時代に至るまで北条時行の血筋は残ることとなった。


関連タグ

鎌倉時代 南北朝時代(日本) 鎌倉幕府 得宗 北条氏

松井優征 - 時行が主人公の漫画『逃げ上手の若君』を2021年より執筆。

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