足利直義
あしかがただよし
生没年 徳治元年(1306年)~正平7年/文和元年(1352年)2月26日
足利貞氏の三男。足利尊氏(高氏)の弟。当初は北条得宗家・14代執権・北条高時から一字拝領して「高国」と名乗っていた。
尊氏に従い、北条得宗家が牛耳る鎌倉幕府の打倒に参加。
復位した後醍醐天皇の建武政権では、成良親王を奉じて鎌倉に赴いた。この時期、中央政界で失脚した(尊氏の政敵でもある)護良親王の身柄を預かって土牢に幽閉する。
しかし、高時の次男・北条時行が幕府残党3万を率いて鎌倉に迫ると、かなり戦が下手であったらしい直義は連戦連敗して鎌倉を放棄せざるを得なくなり、成良親王は京都へ戻したが、この機を利用して護良親王をどさくさ紛れに抹殺した。
あまりの苦境を見かねて(後醍醐天皇には無断で)合流した尊氏の指揮で鎌倉を奪回する事ができたが、(おもに直義が)戦功を立てた配下に恩賞を勝手に配分したせいで、今度は尊氏が追討される羽目になる。新田義貞らが率いる軍勢に対して、直義が迎撃するが敗れてしまい、ようやく鬱状態から復帰した尊氏が勝利、そのあと京都へ進撃→北畠顕家に敗れて九州へ逃走→九州(多々良浜)で朝廷方の菊池武敏を破り再び京都へ進撃し、鎌倉幕府に奉じられていた持明院統系の光厳上皇の弟・豊仁親王を光明天皇に擁立して京に新たなる朝廷を起こし(北朝)、征夷大将軍に任じられた尊氏が武家による新たな政権を樹立する(室町幕府)という具合に(文字通り)東奔西走する尊氏を(おもに政治面で)補佐し続ける。
政治業績では、幕府基本法たる建武式目の実質的な制定者であると言われ、綱紀粛正と能力主義の守護登用、庶民の安寧を武家が保証するといった基本方針を整えた。大功ある猛将の土岐頼遠が北朝の治天の君である光厳上皇の牛車を射たという事件では、幕府の権威の源泉である朝廷を重んじて頼遠を斬り、筋道を大事にする厳格な面も見せる。
しかし、厳格で保守的な政治家の直義と、革新的でテキトーな執事(=家老)の高師直が対立し、師直派に襲撃されて出家を余儀なくされるが、直義は師直討伐を名目として南朝に便宜的に付く。そして師直は直義派の上杉能憲らに殺害されるが、今度は尊氏が南朝に付いて(便宜的だと思いたいが、尊氏なのでどこまで便宜的だったのか疑ってしまう)直義軍を攻撃。敗北して捕らえられた直義は直後に不審死した。(当時から尊氏が直義を毒殺したのではないかとの噂が流れ、多くの者はその噂が真実であると信じたという)
しかし直義派は、尊氏の庶子(しかも認知を拒み続けた)であり直義の養子である足利直冬に従って南朝方の有力武将として抵抗を続けた。また、尊氏と直義の外戚にあたる上杉家は、直義寄りだったために一時的に逼塞するが、関東公方の執事(のちの関東管領)として復権する。
森茂暁は著書・『足利直義』において『太平記』に登場する直義がどのような場面に登場しているかを検証している。
- 建武元年(1334年)11月、権力闘争に破れた護良親王の身柄を鎌倉で受け取り、二階堂の土牢に閉じこめたあげく、翌二年7月の中先代の乱のどさくさに紛れて親王を殺害した(巻一二)。
- 建武2年(1335年)11月、中先代の乱鎮定後、後醍醐帝よりの帰洛要請と直義の積極的な反撃論との間で進退に窮した尊氏が建長寺で出家したとき、直義は尊氏・直義追討を命ずる内容の後醍醐天皇綸旨を偽作し、尊氏の決起を促す(巻一四)。
- 延元2年・建武4年(1337年)3月、直義は越前金ヶ崎城の陥落のさい捕らえられた恒良(「春宮」)・成良(「将軍宮」「先帝第七宮」)両親王を毒殺する(巻一七)。
- 暦応元年(1338年)春、直義が邪気に侵されて病気になったとき、光厳上皇が直義の平癒を祈って石清水八幡宮に願文を納め、その効果があって直義の病気は治ったこと(巻二三)。
- 仁和寺六本杉の怪異のくだりで、大塔宮護良親王の霊が直義の内室の腹に男子として生まれ、観応の擾乱のきっかけを作ったこと(巻二六)。
- 貞和5年(1349年)の直義と高師直・師泰との確執の顛末(巻二七)。
- 観応元年(1350年)10月以降の直義の反撃から同3年(1352年)2月までの尊氏・義詮父子との抗争の次第(巻二八、巻三〇)。
上記のとおり、直義に与えられた役割は南朝の皇子を殺したこと、その因果応報的な仕返しを受けたこと、尊氏の決起を促したこと、王朝勢力と親しかったこと、観応の擾乱での動向に整理されるが、最も重要なことは南朝方の皇子の殺害であって、このことにより因果応報的な最期を遂げていることである。(以上、森茂暁『足利直義』)
- 1に関しては、護良親王と尊氏、後醍醐天皇との亀裂は急速に広がっており、1334年(建武元年)、阿野廉子の働きかけを受けた後醍醐帝は親王を捕らえ、鎌倉にいた直義に引き渡している。いわば親王にとっては頼りにしていた父親が宿敵に生殺与奪の権を与えたわけで、親王は「武家(尊氏)よりも君(後醍醐帝)の恨めしく渡らせ給う」と嘆いている。(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)
- 3に関しては、延元元年・建武4年(1337年)、恒良・成良両親王は毒殺されたとも言われているが、城から逃れて北陸で捕らえられたとも、康永3年(1344年)に亡くなったとの説もあってはっきりしていない。(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)
- 2に関しては時行率いる旧幕府残党軍は破竹の勢いで鎌倉に迫っており、放置しておけば「建武の新政」に不満を持つ各地の武士が呼応して挙兵する可能性があった。尊氏は先手を打つ形で旧幕府残党軍を破ってはいたが、それは後醍醐帝の許しを得ないものであり、綸旨を偽造したという真偽はどうあれ遠からず追討命令を受けるであろうことを怖れた兄・尊氏を叱咤激励するものであった。
- 4は朝廷における直義の人脈の広さを示すものである。
- 5においては直義の妻が護良親王の怨霊を身に宿すことにより観応の擾乱が起き、6から7にかけて南朝方の怨恨を一身に受けて執事の高師直・師泰兄弟を殺害し、兄・尊氏、甥・義詮と対立を深めて身を滅ぼすことになったとある。(森茂暁『足利直義』)
以上のことから、『太平記』における直義の扱いは、兄・尊氏の忠実な補佐役であり、有能な政治家であるという実像とはかけ離れた悪辣な策謀家として描かれており、奸智をもって兄・尊氏を朝敵に貶めたため滅亡の憂き目にあったのも致し方ないというものである。
『足利直義』を著した森茂暁は滅亡した直義を悪役にすることによって、室町幕府はその成立史を正当化する意図があったのではないかと推測している。
また、太平記のみに「毒殺された」と記されているが、これは因果の報いとしての象徴的な描写であって、史実であるかどうかは疑わしい。(峰岸純夫『足利尊氏と直義』)
天衣無縫な兄に翻弄される生真面目な弟、というイメージ。兄は実際に度を越した天然で、天才的過ぎて室町幕府を崩壊の瀬戸際に追いやったくらいなので、なおさら生真面目さが印象深い。
自分が権力者であるためお中元にあたる八朔を受け取らず、届いてしまった場合は送り主に全て送り返すなど、禁欲的なエピソードも持つ。なお、尊氏の場合は、貰っておいて全部他人に贈ったらしい。
しかし生真面目すぎて融通が利かないという欠点があり、そのあたりがフリーダムな高師直との対立を招いてしまった。
また武家の名門でありながら戦争に弱いという致命的な弱点があった。引きこもりで躁鬱質の尊氏の(もしかしたら数少ない)長所が戦争の指揮であり、この兄弟は能力を補うという点で理想的なコンビであった。
その仲好かった兄と後に対立し、敗れて囚われ世を去る悲劇的な幕切れから、南北朝ファンによる人気は高い。
従来は源頼朝像とされてきた神護寺三像の一枚が、実は足利直義像であるという説が出ている(米倉迪夫『源頼朝――沈黙の肖像画』)。神護寺の源頼朝像といえば、従来教科書でも代表的な源頼朝像として取り上げられてきたものである。この説に対して美術史家には異論が多いが、日本史研究者においては足利直義像説の方が定説化しつつあるという(峰岸純夫『足利尊氏と直義』)。
米倉はほかに平重盛像は兄・尊氏像、藤原光能像は甥・義詮像ではないかとの説を提起しており、黒田日出男は著書・『国宝神護寺三像とは何か』で米倉説を次のように補強し、疑問を呈している(森茂暁『足利直義』)。
- 尊氏・直義兄弟の肖像が奉納された康永四年四月が兄弟にとっていかなる時期であったか。
米倉の見解では、「康永四年は、まさにこの内乱終息期直後に位置する『暫しの平安期』」とし、また上記の文章に見えるように「直義にとっては武士、政治家としての人生の中でもっとも光り輝いた時」とするが、肖像画を奉納したのは「尊氏・直義兄弟の両頭政治に生じつつあった鋭い危機の所産」とみる黒田は、すでに康永4年以前に兄弟間の衝突は一触即発の状況にあったのではないかと重視している。
- その対応(直義派と尊氏派の確執への対応)の1つが、康永四年(1345年)4月23日の願文作成と尊氏・直義両像の安置であった。この時点の尊氏と直義は、初期室町幕府の二頭政治の担い手であり、当時の最高権力として君臨していた。その二人の肖像を、直義は「征夷将軍」と「左兵衛督」(左武衛将軍)の<対>の彫像として作り、政治的祈願をこめた願文とともに、奉納・安置したのである。
つまり黒田説の特徴は、兄弟間の確執が拡大することへの危機意識を肖像奉納の背後に見据える点にある。黒田は「足利尊氏・直義の兄弟像は、二頭政治を持続せんとする直義の政治意思の表現であった」と結論している。
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