土岐頼遠とは室町時代の武士である。美濃国守護を務め、足利尊氏の軍勢を代表する猛将であった。また、その最期に至る当時の秩序を無視した振る舞いから婆裟羅大名の代表例としても数えられる。
土岐氏とは清和源氏源頼光の子孫である摂津源氏のうち、美濃国を拠点とした名門である。父、土岐頼貞の代から足利尊氏に属して戦功があり、建武政権で既に美濃国守護を任されていた。
青野原の戦い
頼遠は父と共に転戦していたが、とくに有名なのが暦応元年(1338年)1月の青野原の戦いである。この時期、尊氏は北朝から室町幕府の将軍に任ぜられ、これを認めない南朝こと後醍醐天皇の軍勢を吉野に追い詰めていた。しかし、奥州から北畠顕家が大軍を率いて後醍醐帝の救援に上洛する。鎌倉を守っていた足利義詮らは破れて関東は南朝方に奪われ、各地の武士団を吸収しながら顕家率いる(太平記ならではの誇張ともされるが)50万の大軍が東海道を攻め上がってきた。足利家といえど、正面から撃退する軍事力はとてもない。諸将が搦手や奇計による持久戦を主張する中、頼遠は正面決戦を主張する。
頼遠の意見は通り、とにかく美濃で決戦を挑むこととなった、南朝方はあまりに大軍であったので分散して進軍し、足利方もそれぞれに迎撃することになった。なかでも顕家率いる本軍は数十万の大軍であったが、頼遠は僅か千騎の手勢で挑み、青野原で戦ったという。勝負になるはずもなかったのだが、頼遠主従の奮戦で顕家軍の進軍は止まり、かなりの痛手を受けたとされる。しかし土岐の軍勢は当然ながら壊滅し、頼遠自身すら一時行方不明となった。
しかしこの思わぬ損害が契機となったのか、顕家はそのまま上洛することをあきらめ、伊勢から吉野に向かう。そして兵力を消耗して石津の戦いで敗死した。この一連の合戦で、頼遠の決死の勇戦ぶりが大きく評価されたのも無理はない。
最期
康永元年(1342年)9月、頼遠は痛飲した帰り道で、光厳上皇の牛車に出会う。光厳上皇は当時の北朝の主たる治天の君であり、頼遠は一介の陪臣に過ぎない。当然「こちらは院におわしますぞ」等と下馬しての礼を求められた。しかし泥酔して気が大きくなっていたらしい頼遠は「なに、いんと申したか?おお、いぬと申したのか。犬ならば射てくれよう」と弓を引き、治天の牛車に当ててしまったらしい。
当然、大騒動になった。頼遠は事態を理解すると逃亡して美濃国に潜伏したが、やがて出頭した。幕府内でもその処分は激論となったが、やはり幕府が立てている主に弓を引いた事実は変わらない。頼遠は斬首となった。
しかし、その戦功が大きかったことは幕府でも無視できない。美濃国守護は甥の土岐頼康が継ぐことが認められ、その子孫は戦国時代の土岐頼芸に至るまで美濃を統治することになった。
評価
正直、酒の上の失態だけで、婆裟羅の代表扱いは迷惑であろう。しかし、青野ヶ原に限らず無類の猛将ぶりを発揮した一方で、平素はその高名に依る旧習を無視した傍若無人な振る舞いが目立ったともされる。婆裟羅大名らしく文化人でもあり、短歌を得意とした。新千載和歌集などに彼の歌が残されている。