土岐頼芸
ときよりのり
土岐政房は、幼い頃より長男・土岐頼武よりも、次男の頼芸を寵愛しており、結果的に実の兄弟間で熾烈な守護職争いへと発展。
また守護代でもあった土岐氏重臣・斎藤氏が衰退、その座を狙う長井氏が台頭。重臣も斎藤氏は土岐頼武派、長井氏は土岐頼芸派に分かれ、ついには実戦に突入。
兄弟争い
初戦となった1517年、土岐頼武が大勝、しかし翌年は頼芸が勝つ。
勝った頼芸は、兄を越前に追放。しかし頼武も諦めることなく再び美濃に侵攻、19年、起こった3度目の争いで、頼芸は敗北。また同年、父・政房が没し、頼武が美濃国守護就任。頼芸は稲葉山城から見下ろすことができる山城・鷺山城に追いやられ、不遇のときを過ごす。
起死回生
25年、頼芸は起死回生する。土岐家重臣・長井長弘と、その家来・西村新左衛門尉らが、土岐頼芸を擁立し挙兵する。この西村新左衛門尉は、僧から還俗して着々と出世した人物で、子は西村勘九郎(のちの斎藤道三)。30年、土岐頼芸は長井氏の協力により、ついに土岐頼武を追放することに成功。36年には室町幕府からも正式な美濃守護認定。頼芸は貢献してくれた長井と西村らを重用する。
道三の裏切り
33、西村新左衛門尉の死没に伴い、家督を継いでいた息子の西村勘九郎に斎藤氏を継がせ、守護代に任命。西村勘九郎は、斎藤新九郎利政→のちに斎藤秀龍と名乗り、次第に権力を増大させていき、遂には土岐頼芸とも敵対するようになっていく。秀龍は42年、大桑城を攻撃。頼芸は尾張へ亡命。頼芸は織田信秀に協力要請。信秀の支援を受けて斎藤秀龍と和睦、守護に復帰。
しかし52年、道三による3度目の大桑城攻めが始まると、頼芸は美濃を追放され、美濃守護として11代続いた土岐家は没落。美濃を出た頼芸は、実弟・土岐治頼を頼り、常陸へ身を寄せる。土岐治頼は、江戸崎城主を務めており、頼芸は土岐家宗家の家宝や家系図をすべて土岐治頼に移譲。そののちの足取りは、土岐頼芸の従兄弟・上総万喜城主・土岐為頼や、近江六角氏などに寄宿したとも伝わる。82年、織田信長により甲斐武田氏が滅亡。頼芸は信長に捕らえられ、尾張で蟄居。そののち美濃の重臣・稲葉一鉄に迎えられ、美濃国に帰還。稲葉一鉄が設けた寺・東春庵(現法雲寺)で余生を過ごすが、まもなく病気により81歳で没する。