概要
江戸時代以前の日本において、キリスト教カトリックを信仰した人々。近代以降のキリスト教徒はクリスチャンと表記する。ただし、前近代の日本ではプロテスタントは布教されず、プロテスタント信者のオランダ人達はキリシタンとは認識されなかった。
伝来から発展期
バスク人宣教師フランシスコ・ザビエルが来日した1549年が、日本におけるキリスト教の初の伝来とされる。ザビエルはもともとポルトガル国王ジョアン3世の意向を受けたイエズス会の方針により、新領土があるインドへ布教のためにアジアへ赴いていたところ、日本人のヤジロウから日本の話を聞いて日本人には良きキリスト教徒になる素質があると考えて布教を決断したのだった。
先駆者であるザビエルの布教自体は、宣教師にも清貧を求めるイエズス会の方針と日本社会の乖離(かいり)に悩まされて成功したとは言い難かったが、「日本人は好奇心旺盛であり特に自然科学への知識を持っていると望ましい」「辻説法や足繫(あししげ)く寺に通い、説教を聞く仏教徒が多いので十分な神学と哲学の知識が必要である」「貴人でなければ丁重に扱われず、特に華麗な服装は重要な要素になる」といった貴重な教訓を得た。
ザビエルの教訓を活かし、同僚のコスメ・デ・トーレスは日本社会に合わせた布教と生活様式を確立した「適応主義」を採用、後発のルイス・フロイスも日本語と法華宗を学んで宗論(当時盛んだった宗派間の公開討論)にも積極的に参加、織田信長からの好意を得ることに成功して教会の拡大に成功した。
高齢のトーレスが要請して派遣されたフランシスコ・カブラルは、反対に日本人を軽蔑し布教活動にさまざまな悪影響をもたらしたが、その悪評が巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに非難されると布教責任者の立場を解任された。ヴァリニャーノはトーレスらが推し進めた適応主義をさらに推し進めて日本人聖職者を養成する学校を設立し、有望な信者の若者をヨーロッパに送り込むなど活発な活動をつづけた。
1605年の時点では、最大で見積もって70万人ほどの信者が日本全土にいたといい、これは1200万人ほどとされる当時の人口比で6%相当、2022年現在のキリスト教徒の人口よりはるかに比率において多く、その大半が直近20年で入信したという成長速度であった。
禁教~再公認
キリシタン大名のなかには日本で古来から信仰される神道や、神道と結びつきが強い仏教等、土着の信仰を異教だと敵視し、部下や信者たちを引き連れ寺社仏閣を破壊して冒涜(ぼうとく)し、キリスト教への改宗を強要して改宗しない者は故郷から追放して神官・仏僧は虐殺するなど、酷い蛮行を働いた者も数多くいた(実際に大村市福重町には大村の仏教を守ろうとしてキリシタンに殺害された仏僧・峯阿乗の慰霊碑が存在する)。これに応じるように、仏教徒らからの報復行為が続発し、逃れたキリシタンの集落が形成される様子が宣教師によって記録されるなど、日本国内では宗教対立が起きつつあった。
これには貿易によって影響力を強めていたキリスト教修道会のイエズス会が裏で暗躍し、キリシタン大名の権力争いに介入していたことも起因している。
豊臣秀吉が九州平定を終えた1587年、ポルトガル人商人が日本人商人を通じて日本人を奴隷として海外に売りさばかせていたことが判明した。秀吉が戦後復興や過剰な人口移動を嫌って諸大名に人取りなどを禁じた矢先の出来事であった。
イエズス会は、組織としては奴隷の存在は布教に悪影響があるため否定的な立場を取り、ポルトガル本国政府にも禁じるようロビー活動を行っていたが、現実的な問題としてイエズス会も奴隷を使役して成り立っている支部もあり、また彼らを乗せてくれるポルトガル人商人の行動を強く止めることができておらず、一部には売買に一枚嚙んでいる宣教師すらいた。
秀吉はこれを機にイエズス会日本支部準管区長のガスパール・コエリョを諸問題について問い詰めたが喧嘩腰のコエリョと口論になり、コエリョは大友宗麟や有馬晴信らキリシタン大名に反乱をそそのかすなど挑発的な行動を取る始末であった(キリシタン大名たちがコエリョの求めに応じなかったので反乱は不発に終わった)。かねてより国内での宗派対立を問題視していた秀吉はそれを知ると決意を固め「伴天連(バテレン)追放令」を発令するなど、秀吉の生前は不徹底または後に制限が緩和されるなどといった一時的な緊張緩和はあったが、全体的には徐々にキリスト教勢力への圧力を強めていった。
こうした経緯から、徳川幕府が開いてからはキリスト教は危険視され、教会は破壊され布教だけでなく信仰も許されなくなった。キリスト教信仰を持っていた徳川家家臣や大名たちは改宗を強いられた。そして1622年の「元和の大殉教」を機に、各地で強制改宗に応じなかった信徒の処刑・拷問が展開され大弾圧が始まった。
彼らの多くは信仰を捨てたが、一部の者は隠れてカトリックの流れをくむ信仰を続けた。漢字では吉利支丹と表記するが、禁教以降は切利支丹、鬼理死丹などと蔑称(べっしょう)的表記もなされるようになった。
禁教以降は大変に厳しく取り締まられるようになり、「隠れキリシタン」として仏教的、神道的なカモフラージュで自身の信仰を守らざるを得なくなった。白衣観音や慈母観音を聖母マリア像に見立てたり(マリア観音)、仏像の裏や底、ポーズのなかに「十字」のマークを潜ませる、経文や祝詞(のりと)に偽装して主の祈りや聖句を唱える(オランショ、あるいはオラショと呼ばれる)などの努力がなされた。
しかし、そのようななかでも潜伏の形で信仰していた教徒も弾圧によって炙(あぶ)り出されて処刑された者も多く、現在でもキリスト教関連史跡が多く残る長崎県でも、大村市には処刑された者の首と胴を互いに離れた場所に埋められた「首塚」「胴塚」というものがある。これは「郡(こおり)崩れ」と呼ばれた弾圧によるものであり、「バテレンの妖術で首と胴がつながり復活するのを恐れた」ためである(恐らくはイエス・キリストが処刑後に復活したこと(=伝承)を省みたものだとされる)。
当時翻訳された聖書の巻はごく一部であり、禁教により宣教師の指導、日本人司祭の育成ができなくなってしまったこともあり、時代を経るにつれその信仰内容は変質し、また本来はカモフラージュにすぎなかった仏教や神道の信仰に愛着を感じるものも出てくるに及び、元のカトリックとは別物になってしまった。
その一方で、長崎浦上のように、カトリック本来の教義や儀式を忠実に守り抜いたキリシタン集落も多く、幕末に建造された大浦天主堂の司祭・プチジャン神父が浦上の隠れキリシタンを調べた際、洗礼方法がまったく変化していないことに驚嘆していたという。特に上記の「郡崩れ」などの200年以上に及ぶ弾圧により長崎のカトリック教徒はすべて絶滅してしまったものと思っていたが、あるとき少数の人々がプチジャン神父の元へ訪れて密かに教えを守ってきたことを告白してきたときに、長崎のカトリック教徒が生き残っていたことに大層驚いた(訪れた信徒の一人が問いかけた「サンタ・マリア様の像はどこですか?」の一言が決定的だったとされる)。このときは1865年3月17日で鎖国解除されたあとで比較的に弾圧が穏やかになりつつあったころである。この驚きと奇跡をバチカンに歴史的発見として報告したとのこと。この出来事は『信徒発見』という宗教史最大の奇跡として世界的に有名である。
明治維新を迎えても新政府は五榜の掲示で、江戸幕府と変わらずにキリスト教の信仰は禁じられた。これは新政府が天皇を中心とした国家を築くために神道を重視したためである。しかし諸外国の反発が大きく、1873年に禁教は撤回された。そして1889年の大日本帝国憲法の公布で、ようやく完全にキリスト教の信仰が法的な保障を得られるようになる。
禁教がなくなり、信仰の自由が認められた近代に至ると、大半はカトリック教会に復帰し、もしくは教会との接触を嫌って仏教や神道だけを信仰するようになったが、現代においても、変質した「カクレキリシタン」の教えを継承する人々がいる。なお、バチカンの教皇庁はこのような「カクレキリシタン」もまたキリスト教徒の一派であるとの見解を示している。
現在の、特に長崎のカトリック信徒は、辛い禁教の記憶を思い起こさせる「キリシタン」を自称せず、そう呼ばれることを好まない傾向にある。また「隠れ」が非合法や反社会を思わせるともとれるのか、歴史上の用語として「潜伏キリシタン」に改める傾向にある。
2015年、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として世界遺産への推薦書を提出していたが、2018年6月30日に日本としては22件目の世界遺産として登録されることになった。
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関連動画
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(2017年7月)
吹奏楽のための交響詩「ぐるりよざ」("Gloriosa" Symphonic Poem for Band)/伊藤康英
第1楽章「祈り」(Oratio)
第2楽章「唄」(Cantus)
第3楽章「祭り」(Dies festus)
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踏めば助かるのに:中学歴史の資料集『学び考える歴史』において提示された、絵踏みを踏めずに処刑された潜伏キリシタンたちに対する疑問。
外部リンク
- 長崎の教会群とキリスト教関連遺産(ウィキペディア)
- 天地始之事─隠れキリシタンの手作り聖書─:隠れキリシタンの口伝をまとめた書物の現代語訳