天正少年使節
てんしょうしょうねんしせつ
九州のキリシタン大名達が宣教師ヴァリニャーノの指示のもと、ローマ教皇庁に送った4人の少年使節である。
正使が伊東マンショ(13歳)、千々石ミゲル(13歳)、副使が原マルチノ(13歳)、中浦ジュリアン(14歳)の4人。
この計画には当時日本で布教活動をしていたイエズス会のメンバーにより、教養もありある程度高貴な身分の4人に“優れた”ヨーロッパ世界の文明とキリスト教の威光を見せる事によって、教化の礎にする目的があった。
当時の日本人の大半が海外を知ること無く一生を終える時代に、多感な時期の彼らが渡欧して学んだ経験は、良くも悪くも彼らの生涯に多大な影響を与えた。
出航時は心配や期待を背に見送られた少年達も、帰国する頃には立派な青年となり、やがて司祭となった4人はそれぞれ別の道を歩むようになる。しかし豊臣秀吉のバテレン追放令が4人の人生に暗雲を齎していく。
1549年のフランシスコ・ザビエルの来日以来、イエズス会によるキリスト教の日本布教はおおよそ順調に進み、九州では大友氏、有馬氏、大村氏などキリシタン大名も現れた。
イエズス会の日本布教の責任者であった巡察使ヴァリニャーノは、イエズス会の日本布教を有利に進めるため、キリシタン大名に働きかけ、ローマ教皇に使節を送ることを実現させた。
4人はヴァリニャーノらに付き添われ、1582年2月に南蛮船で長崎を出航、マカオ・マラッカ・インドゴア(ヴァリニャーノはゴアで下船)を経て、喜望峰を回り、1884年8月ポルトガルのリスボンに到着。
天正遣欧使節はスペイン国王フェリペ二世、イタリアトスカナ公国(フィレンツェ)のフランチェスコ一世に謁見。
歓迎を受け、1585年3月ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見した。グレゴリウス13世はまさに対抗宗教改革を進めている最中であり、今でも使われるグレゴリオ暦を制定したことで知られる。
ローマ教皇が日本からの少年使節を謁見したことはヨーロッパ各地に報じられ、日本の正装で現れた少年使節がラテン語で九州諸大名の奉書(手紙)を読み上げたことは大きな反響を呼んだ。
未知の大陸から現れた異人種が、教皇を称えたことは、ローマ教皇の威信が世界中に及んだこととして人々は驚いた。使節はその後もヴェネツィアなどを訪れ、歓迎を受けた。
帰りも約半年、東アフリカモザンビークで足止めを食らうなど、苦難に満ちた航海の末、1590年、長崎に帰着した。
しかしこの間に日本は豊臣秀吉が政権を握り、1587年にバテレン追放令を出してキリスト教の禁止に転じていた。4人の少年使節も秀吉に謁見し、バテレン追放令の解除を願い出たが、秀吉の意志は変わらず、使節たちのその後は過酷な運命に翻弄されることとなった。
伊東マンショは宣教師となって活動したが若くして病死し、千々石ミゲルは棄教して失踪、原マルチノはマカオに追放され現地で死亡、中浦ジュリアンは小倉で捕縛され、長崎で穴吊るしの刑で殉教した。
- 2016年8月13日の新聞各紙によると、ローマ旧家の屋根裏から、天正少年使節が1585年にグレゴリウス13世に謁見した様子を描いたフレスコ画が発見されたという。発見されたのはグレゴリウス13世の子孫の邸宅で、絵は19世紀半ばに画家ピエトロ=ガリアルディが制作、改築の際に天井裏に隠れ、存在が忘れられていた。伊東マンショらの少年が着物を着て親書を携え、中国風の髪型をしている。絵が描かれたのは日本が開国したころで、日欧関係の端緒はグレゴリウス13世だったと言うことを示すために、その子孫が描かせたのではないか、と研究者は言っている。写真は天井裏に小型カメラを入れて撮ったものなので、その全体像ではなく、伊東マンショらの風貌はよくわからない。同年8月21日にNHK日曜美術館「少年たちはローマを目指した~絵でたどる天正遣欧使節~」で伊東マンショの顔が公開された。