人物
初名は義鎮(よししげ)であり、宗麟の名は永禄5年(1562年)に出家して以降の法号である。弟に晴英(大内義長)らが、子に義統、親家らがいる。自身の巧みな外交や優れた謀略に加え、優秀な家臣団の尽力により勢力を拡大。北九州の六カ国に一大版図を築いて大友家の最盛期を創出するなど、九州における有力大名として名を馳せた。文化的な活動も旺盛であり、中央より絵師や歌人を多数領内に招き、隠居後も茶器や書画の蒐集に余念がなかったと伝わる。
他方、その性格については様々な面で難があったとされ、わざわざ京都に美女を探しに行ったり家臣の妻を略奪するなどかなりの好色家ぶりであった他、政務を疎かにして遊んだり酒に浸ったりと、他人を考えない暴君とも伝えられている。とはいえ、戸次鑑連(立花道雪)や、吉弘鑑理・高橋紹運・立花宗茂の親子三代など優れた家臣には恵まれており、とりわけ道雪はためらいなく宗麟の暴挙や失敗を諫める事が多かったという。現在も大分の鶴崎に伝わる「鶴崎踊」は、道雪が宗麟を諌める機会を設けるため京都から舞子を呼んで踊らせた事がその起源であるという。
後年、キリスト教と南蛮貿易を通じてヨーロッパ文化にも傾倒。西洋医学も積極的に導入して病院を建て、領内の医療水準を高めた。この時大分を訪ね、西洋医療を広め日本初の病院を開設した医師ルイス=デ=アルメイダの名前は、後に大分市に設立されたアルメイダ病院の名前の元になった。さらにキリスト教に深く帰依した宗麟は、キリスト教による理想国を目指し天正遣欧使節の派遣にもかかわったとされ、積極的に領土拡張を続けた前半生に比べ、後半生はキリスト教に帰依した為か前述した暴君ぶりから一転して、自分の心や領内の安らぎを求めた無欲の武将だったとも言われる。
その一方、急激なキリスト教の受け入れは家臣達との対立につながり、領内では神社仏閣の破壊が相次いだ。また神道を信奉する継室の奈多夫人との関係悪化も招き、最終的には宗麟の方から一方的に離縁に及ぶや、これに怒った夫人は宗麟を呪い殺そうとしたとも、あるいは自害に及ぼうとしたとも伝わる。
生涯
家督継承
享禄3年1月3日(1530年1月31日)、豊後(現在の大分県の一部)府内にて大友氏第20代当主・大友義鑑の嫡男として生を受けた。若年の頃には粗暴な振る舞いが目立ったとされ、また生母が大内氏の出であった事もあり父・義鑑から疎まれ、一時は廃嫡の危機に直面した事もあったが、義鎮を支持する家臣の反乱によってその危機を脱し(二階崩れの変)、天文19年(1550年)に大友氏第21代当主に就いた。この時に父やその側室・異母弟妹3人も誅殺している。
家督を継いで間もなく、叔父の菊池義武が二階崩れの変に乗じて隈本城を奪還、肥後や築後の国人衆を糾合し復権を目論むも、義鎮は大軍をもってこれを鎮圧し、さらに討伐に協力した阿蘇氏との関係強化や、城氏・赤星氏・隈部氏ら菊池氏の旧臣に対しても取り立てる姿勢を示す事で、肥後の支配をより確実なものとした。敗れた義武は相良氏を通じて義鎮との和睦を図ろうとするも頓挫、やがて義鎮の計略により自害に追い込まれ、肥後の名門であった菊池氏もここに滅亡を迎える事となる。
また同時期には、母の実家である大内氏で内紛が勃発し当主・大内義隆(義鎮にとっては伯父にあたる)が自害に追い込まれており、義鎮は大内氏家臣・陶隆房の申し出を受けて弟の晴英を大内氏の新たな当主として送り込んだ。これにより北九州の大内氏傘下の国人衆のみならず、大内氏の本国である周防・長門への影響力を確保。さらに交易の拠点であった博多を手中に収め、南蛮貿易を通じてその経済力を向上させる事となった。
この頃豊後にはキリスト教の宣教師・フランシスコ・ザビエルが赴いており、義鎮もこれに関心を示して領内での布教を許可している。ところがこれが大友家中での宗教対立を引き起こす事となり、天文22年(1553年)から弘治2年(1556年)にかけて家臣の謀反が相次ぐなど、内政面では一時期厳しい立場に立たされることとなる。とりわけ小原鑑元による「姓氏対立事件」は、大友氏の本拠をそれまでの府内から、丹生島城(臼杵城)に移すきっかけにもなった。
毛利氏との抗争
このように家中の内紛の収拾に追われながらも、義鎮は室町幕府との関係性を強める事で自身の権威強化に努めており、永禄2年(1559年)には室町幕府第13代将軍・足利義輝に献金で働きかけて豊前と筑前の守護に任じられ、同年には九州探題に補任された。また翌年の永禄3年(1560年)には、左衛門督にも任官された。
しかしその一方で、中国地方では安芸の毛利元就が主家である大内氏からの独立を果たし勢力を拡大しており、弘治3年(1557年)には大内義長を自害に追い込んで周防・長門をも手中に収めるに至っていた。この毛利氏による勢力拡大により、弟のみならず周防・長門への影響力をも失った義鎮は、余勢を駆って北九州への進出を図る毛利氏との対決姿勢を鮮明に打ち出し、永禄元年(1558年)から永禄5年(1562年)にかけて豊前門司城を中心に5度に亘る合戦(門司城の戦い)に及んでいる。この一連の合戦は室町幕府の仲介によって一旦は和睦が成立したものの(豊芸講和)、その後毛利氏による出雲攻略が一段落すると再び両者は対立、多々良川付近を中心に長期に亘って干戈を交える事となる(多々良浜の戦い)。
20回近くに及ぶ合戦にも拘らず勝敗が付かぬ中、宗麟は吉岡宗歓の献策により、大内氏一族で豊後に亡命していた大護院尊光(大内義興の弟)の子の大内輝弘を周防に送り、その挙兵を支援するという手に出た。果たして、永禄12年(1569年)に輝弘は周防にて挙兵し、これに大内旧臣が呼応して一大勢力となった事で、目論見通り毛利氏の背後を脅かす事に成功したのである(大内輝弘の乱)。時同じくして出雲でも山中幸盛らによる尼子氏再興運動が活発化した事で、領国支配に著しい危機を感じた元就は北九州における戦線の放棄を余儀なくされた。
これにより大友氏は、豊前・筑前も含めた北九州の支配権を確立する事となった。宗麟は家老の戸次道雪に立花氏の名跡を、同じく家老の吉弘鑑理の次男・鎮理に高橋氏の名跡をそれぞれ継がせ、両名を筑前の抑えとする事で支配体制の盤石化を図っている。
龍造寺氏の圧迫と耳川の戦い
北九州支配を盤石のものとした事で、大友氏も最盛期を迎える事となるが、その盛運ぶりに早くも陰りが見え始めていた。大友氏に従属していたはずの肥前の国人・龍造寺隆信が、俄かにその勢力を伸張しつつあったのである。
既に永禄12年にも龍造寺氏の討伐に失敗していた宗麟だが、毛利氏との抗争が決着を見た元亀元年(1570年)、先の雪辱を果たすべく再度の龍造寺氏討伐に踏み切る事となる。しかしこの討伐においても鍋島信生(直茂)らの奇襲により総大将で一族の親貞(弟または菊池義武の子。名は鎮成とも。)を失うなど大きな痛手を蒙り(今山の戦い)、結局龍造寺側からの和睦提案を受ける形で決着を見る事となる。龍造寺氏が大友氏に従属するという構図こそ変わらなかったものの、その講和の条件は大友氏にとって不利なものであり、龍造寺氏の勢力拡大に歯止めをかけんとする大友氏の狙いは全く果たせないままに終わった。
さらに天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が薩摩の島津義久に敗れ大友氏を頼って来た事により、それまで比較的良好であった大友氏と島津氏との関係にも俄かに暗雲が立ち込める事となる。伊東氏からの救援要請に加え、予てからキリシタン王国の建設を志向していた宗麟は、日向の地においてその悲願を叶えようと翌天正6年(1578年)に3万の軍勢による遠征を決意、一時は耳川以北を手中に収めるなど島津氏の勢力を後退させる事に成功する。しかし8月に入ると島津氏も反攻を開始し、11月に耳川にて行われた合戦において大友軍は決定的な敗北を喫する(耳川の戦い)。多数の兵のみならず、佐伯宗天、蒲池宗雪、田北鎮周、角隈石宗を始めとする有力な重臣・武将までも多数失い、宗麟自身も敗戦の報せに接して単身豊後へ逃げ帰る始末であった。
この周辺諸勢力による大友氏への圧迫・対立には、当時京都を追われ毛利氏に身を寄せていた室町幕府将軍・足利義昭の外交工作も深く絡んでいた。義昭は毛利氏の上洛を促すべく、大友氏という背後の脅威を除く事を画策。義昭からの御内書が毛利氏と友好関係にある龍造寺氏や秋月氏、さらに島津氏に対して出された事により、これを大義名分として大友氏への攻勢が強まる結果となったのである。将軍の上洛を妨害する「六ヶ国之凶徒」と糾弾され、一層厳しい情勢に置かれた。このため宗麟は反毛利・反足利義昭で利害が一致する織田信長と結び事態の打破を試みようとする。
大友氏の落日
相次ぐ周辺諸勢力との戦いが失敗に終わり、領内からも田北紹鉄(鎮周の兄)や田原親貫など国人らによる反乱や離反が相次ぐようになった。また宗麟は天正4年(1576年)に家督を嫡男の義統に譲っていたものの、家中の実権は依然として宗麟が掌握し二元政治が取られていた。しかし義統との対立、さらに寵臣・田原親賢(紹忍)への反感などからこの体制も次第に破綻を来すようになるなど、宗麟の晩年は内外における深刻な問題に終始悩まされ続けるものとなった。織田氏との関係強化による島津氏との和睦も、本能寺の変で信長が横死した事によって立ち消えとなる中、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、正式にキリスト教徒となるなど、より一層キリスト教への傾倒を強めていった。
天正12年(1584年)、龍造寺隆信が島津軍との戦いで敗死する(沖田畷の戦い)と、これに乗じて筑後の大半を奪回する事に成功するが、長らく大友氏を支えてきた重臣・戸次道雪がその筑後攻めの陣中にて病死した事により、島津氏による大友領侵攻はいよいよ本格的なものとなっていく。筑前方面では天正14年(1586年)には岩屋城の戦いで高橋紹運が、豊後方面では長老・朽網宗暦(入田親誠の弟)らを失い、入田宗和(親誠の子)や志賀道易らも島津氏に寝返った。宗麟もポルトガルより輸入した「国崩し」(フランキ砲)などを駆使する事で、辛うじて本拠である臼杵城を守り抜いていたものの、最早この劣勢を自力では覆しようもなく、大友氏の滅亡も目前に迫ろうとしていた。
事ここに至り、大友氏存続のために宗麟が選んだ道は、全国統一を進めていた豊臣秀吉の傘下に加わる事であった。大坂城で秀吉と対面し軍事的支援を取り付けた事で、天正15年(1587年)には豊臣政権による九州攻めが本格的に開始。これにより戦局は大友氏にとって有利なものへ転じていく事となるが、宗麟がこの戦いの帰結を見届ける事は遂になかった。宗麟が病を得て58年の生涯を閉じたのは天正15年5月6日(1587年6月11日)、島津義久が秀吉に降伏するわずか2日前の事であった。
宗麟の死後、息子の義統には秀吉の計らいにより豊後一国が安堵され、さらに秀吉の偏諱を受ける形で「吉統」を名を改めているが、その後も文禄の役での失態により改易されるなど、かつての隆盛を取り戻す事は遂に出来なかったのである。
キリシタン大名として
キリシタン大名として一番名が知られており、一番力を持っていた大友宗麟であるが、彼が本当に敬虔なクリスチャンだったのか?については疑問が呈される。
- 寺社仏閣をとにかく破壊。これは他のキリシタン大名も行っている。
- イースターで長男と次男を嫌いとdisり反感を買う。よりにもよって、キリストの復活を祝う記念日にそんな⋯
- ザビエルに会ってから27年後に、フランシスコ・カブラルから洗礼を受ける。それ以前までは「仏教や神道を極めたい。一夫多妻制という大罪があるという理由でずっと洗礼を固辞していた(フロイス談)」という思いがあったといわれるが、海外貿易を続けるためにイエズス会の力を利用していた⋯というのも理由だと思われる。
- 継室(後妻)の奈多夫人は神道を信奉してたので離縁。恨まれ呪われた。
架空キャラとしての宗麟
戦国BASARAシリーズ
→大友宗麟(戦国BASARA)を参照。
ぶっちゃけ天下統一の野望が無い以外は全く変わっていない。
うっかり戦国四コマかいこ→かいこ
キリシタン大名としての側面と、精神的に不安定な側面が強調された宗麟。
浮ついたノリで女遊びやクリスマスパーティなどを企画しては、部下の戸次鑑連(通称ベッキー)から説教されているが、めげない。
修道士のような服装とクロスしたベルトのデザインが特徴。
戦国無双
武器:刀剣(3Empまで) 槍(4Emp) 声:山田真一(2) 藤本たかひろ(3) 宮坂俊蔵(4)
「おお! この音楽への熱情を、戦いに捧げよう…!」(3Empの特殊名乗り)
2では特に何も無い武将であったが、3の島津の戦史演武では史実のキリスト教の1つである音楽(music)を重視する傲慢なキャラクターとして設定されている。語尾は「…のだー!」。
岩屋城の戦いが終了すると死亡し、息子・大友義統が後を継ぐ。
ちなみに息子の義統(声は岡本寛志)も傲慢な息子であり、立花道雪の話を聞かない上に、話に飽きると暴言を吐いたり、事ある毎に「これ、決定事情な!」を入れる。その為、立花誾千代から怒りを買った。
最終的に戸次川の戦いで敗北後、女遊びという理由で敵前逃亡した事により秀吉の怒りを買って改易。まさに話を聞かない挙句の自業自得である。
4ではムービーのみで登場したが、流浪演武でのパートナー武将としては使用不可能。(それどころか、列伝にも無し)・・・だったが、4Empにて固有のデザインで再登場を果たした。
戦極姫シリーズ
1,2などでは南蛮神教(キリスト教と思われる)に没頭して国を傾ける暗愚な女性として登場。
3などにも登場するが以降のシリーズでは立花一族にとってかわられることが多く出番は少なめ。
信長の野望シリーズ
武将風雲録からの登場。シリーズ通じて能力は高めだが作品によっては祖父・大友義長や曾祖父・大友親治に劣ることもある。