概要
晴賢の生まれた陶氏は、元は主家である大内氏の傍流に当たり、15世紀以降は代々の当主が周防の守護代を務めるなど、譜代の家臣として大内氏を支え続けてきた家柄である。
晴賢もその例に漏れず大内氏の重臣として、政務・軍略の両面においてその中枢に携わった。とりわけ後者に関しては、「西国無双の侍大将」の二つ名にも表されるように持ち前の武勇と軍事的才覚を数々の戦において発揮しており、内藤興盛らと共に大内家中における「武断派」としても広く知られている。
ただその一方で、直情的かつ独断専行な面、それに猜疑心の強さも目立つ人物でもあったようで、このことが主君・大内義隆との関係の破綻や、厳島の戦いにおける敗北にも繋がったともいわれる。
また少年期には美男子としても知られ、主君である義隆からも深い寵愛を受ける間柄であった(実際に、義隆が富田若山城まで晴賢に会いに行った際、折悪しく晴賢と会えなかった義隆が彼に宛てた和歌を残して帰っていった、という逸話も残されている)と伝わっており、異論も呈されているものの長ずるにつれてこの寵愛が薄れていったこともまた、主君との対立に結びついたのではないかとの見解も示されている。
生涯
大内の若き勇将
大永元年11月14日(1521年12月21日)に生を受ける。晴賢の名乗りは最晩年に改名したもので、元々は主君・大内義隆から偏諱を受け「隆房」と名乗っていた。
大内氏重臣・陶興房の次男であると長らく認識されてきた隆房であるが、一方で同時代の公卿である吉田兼右の残した日記(『兼右卿記』)の内容から、石見守護代の問田隆盛の同母弟であることが、令和年間に入って明らかにされている。この問田隆盛の母親は興房の異母姉妹であるとされ、その縁から興房の外甥に当たる隆房が、早逝した陶興昌(興房の実子)に代わる養子として陶氏に迎えられた、との見方が昨今では有力視されている。
いずれにせよ、天文5年(1536年)に養父・興房から家督を継承した隆房は、大内氏の有力家臣の一人として活動していくこととなる。
天文9年(1540年)、出雲の尼子詮久(晴久)が、当時大内の傘下にあった毛利元就を討つべく3万もの大軍を率いて安芸へ侵攻。元就の本拠であった吉田郡山城が尼子軍によって攻囲されると、元就の援軍要請に応える形で隆房率いる1万の大内軍が派遣され、尼子軍の撃退に貢献した(吉田郡山城の戦い)。
この勝利によってもたらされた安芸国内における大内氏優位の情勢、さらに尼子経久(晴久の祖父)の病没などを好機と見た隆房ら武断派は、この機を逃さず出雲遠征に打って出るべきと主張。これを受けて天文11年(1542年)には主君・義隆を総大将とする大内軍が出雲へと出陣し、尼子氏の本拠・月山富田城を攻囲した。
大内氏のお膝元である周防だけでなく、安芸や石見の国人らも巻き込んでのこの遠征はしかし、尼子方の激しい抵抗により目論見が外れて1年余りにもわたる長期戦となった上、補給線が伸びきったことによる軍の疲弊、更に内部分裂や離反などの発生により失敗に終わり、撤退の途上で義隆の養嗣子・大内晴持(一条兼定の叔父)が事故死するなどの不運にも見舞われ、大惨敗を喫する結果となった。
この敗戦及び晴持の死をきっかけに、軍事・政務への興味を喪った義隆と、隆房との間にもすれ違いが起こり始めることとなるのである。
大寧寺の変
出雲遠征の失敗は、義隆の政治向きへの無関心のみならず、遠征を主導していた武断派の立場を失わせ、さらには遠征に反対の立場であった文治派の台頭をも招く格好となった。大内家中において文治派の代表格ともいうべき相良武任らが重用される中、武断派の筆頭でもあった隆房は影響力を低下させ、中央からも遠ざけられるという辛酸を舐めることとなる。
その後、天文14年(1545年)に義隆の嫡男・義尊が誕生すると、隆房はこの機に武任の追い落としに成功、大内家中における主導権を取り戻した。また同時期には義隆の命により、備後の神辺城へと出陣、毛利氏や平賀氏と共にこれを落城させる(神辺合戦)など、引き続き大内氏の軍事活動において中核的な立場にあり続けた。
しかしそれも長くは続かず、義隆の判断で武任が再度評定衆として復帰すると、先の追い落としの件に絡んで隆房は暗殺未遂の疑いをかけられ、再び大内家中での立場を失うに至った。この嫌疑については仲裁役であった冷泉隆豊の取りなしによって事なきを得るも、予てからの隆房と義隆の関係の冷え込みにさらなる拍車をかけたのは言うまでもない。
天文19年(1550年)に入ると、隆房謀反の風聞が流れ、さらに武任による讒訴などもあって両者間の対立は最早決定的となっており、度重なる不遇に耐えかねた隆房はついに謀反を決意。毛利元就・隆元父子らには密書を送って協力を求め、さらに九州は豊後の大友義鎮に対しても、大内氏新当主として義鎮の異母弟である晴英の擁立を打診するなど、水面下で着々と蜂起への準備を進めた。
そして天文20年(1550年)8月、遂に決起した隆房は山口へと侵攻、これに対して義隆側は抵抗らしい抵抗も出来ぬまま長門への逃亡を余儀なくされ、9月1日に大寧寺にて義隆は自害、最後まで付き従っていた嫡男の義尊や、冷泉隆豊らを始めとする家臣も討たれるに至った(大寧寺の変)。
その後は因縁浅からぬ相良武任や、武任の同調者だった筑前守護代・杉興運を滅ぼし、さらには謀反に同調していたはずの豊前守護代・杉重矩さえも、かつての義隆に対する讒訴を理由に自害に追い込んでいる。また、右田隆康(かつて興房の後見人だった弘詮の子で、興房の従兄かつ隆房の母方の伯父)・隆弘父子のように、陶一族でありながらも隆房に同調せず、義隆に殉じた人物もいた。
この謀反の背景には、ここまで説明してきた経緯の他にも、文明年間に発生した「山口大内事件」での当事者に対する、大内氏の対応も関わっているとの見解も示されている。
文明14年(1482年)に隆房の祖父・陶弘護が、吉見信頼(正頼の伯父)に宴席の場で暗殺されたこの事件は、その背景に領国経営を代行し実権を強めつつあった弘護の排除と、当主権威の強化を企図した大内氏の思惑があったとされ、その傍証として凶器となった信頼の刀が大内氏から父親に返還されたり、吉見氏討伐が突如として中止されたりといった、不自然な対応の数々も挙げられている。
こうした大内氏の動きに対する陶氏からの疑念が、孫の隆房の代になって表面化し謀反に繋がったという訳である。
毛利氏との対立
この一件で大内家中の実権を掌握した隆房は、事前の手はず通り大友晴英を大内氏新当主・大内義長として迎え入れ、自らも偏諱を受け「晴賢」と名を改めた。そして実質的な指導者である晴賢の下で、大内氏はそれまでの文治政治から一転、軍事力の強化へと舵を切ることとなるのである。
しかし(表向きは「名君」として通っていた)主君・義隆を討ってまで断行したこの施策転換は、大内氏の傘下にあった周辺の国人・諸大名により重い賦役を強いるものでもあり、必然的に「謀反人」である晴賢に対しての不満・反発を引き起こすものとなった。
その最右翼であったのが、石見の国人で義隆とも縁戚関係にあった三本松(津和野)城主・吉見正頼である。元々陶氏と吉見氏とは応仁・文明の乱以来、前出の山口大内事件も含めて様々な因縁・確執があり、加えて吉見氏と所領を巡って競合関係にあった益田藤兼に晴賢が肩入れした(陶氏と益田氏は姻戚関係にあり、なおかつ晴賢は藤兼の従兄でもあった)ことも手伝い、天文22年(1553年)に正頼は晴賢の打倒を掲げて挙兵した。
晴賢はこれを討伐すべく軍勢を派遣、さらには自らも主君・義長を奉じて出陣し、半年近くにわたって吉見勢と干戈を交えることとなる(三本松城の戦い)が、その過程で晴賢との間に対立を生じさせた存在があった。他ならぬ毛利元就その人である。
前述の通り、晴賢の挙兵に際して密書を受けていた元就は元々協力的な立場にあり、その見返りとして「毛利氏が安芸の国人の取りまとめを行う」という約束を取り付けていた。ところが吉見討伐にあたって、晴賢が毛利氏を飛び越して直接安芸の国人に吉見討伐への出陣を求めるという違約が発生する。
さらに幼少時代を人質として大内氏の元で過ごし、その後も義隆の養女を妻に娶るなど恩義の深かった毛利隆元も、先の謀反を「虎狼之心」と断じ、いずれは毛利にも矛先が向けられるとして晴賢との断交を強硬に主張。当初は慎重な姿勢を通していた元就や、晴賢と仲が良かった吉川元春も、隆元による説得や家中への工作もあって最終的に吉見氏と連携し、晴賢との対決に傾くこととなった。
天文23年(1554年)5月、周辺の国人衆を糾合し挙兵した元就らは、瞬く間に安芸国内の大内方の諸城を陥落させ、海上では厳島も占拠。安芸の支配・防御体制を海陸に確立した。この動きに驚いた晴賢は急遽正頼と和睦し、配下の宮川房長に3000の兵(後に周防山代・安芸山里などの一揆が加わり7000へと増大)を与えて安芸に送り込むも、翌月に折敷畑山にて行われた合戦では毛利軍の包囲に遭いわずか一日で敗北。房長も討死(もしくは自害)を遂げるなど惨憺たる結果に終わった(折敷畑の戦い)。また一説にはこの敗北により正頼と和睦したとの見解もあり、元就が当初予想したように晴賢自らが毛利討伐に出陣しなかったのはそのためであるともいう。
ともあれこの敗戦により、晴賢は安芸侵攻による短期決戦を断念、兵力の再編を余儀なくされることとなる。一方、これによって幾ばくかの猶予を得ることが出来た毛利氏は、陶方であった安芸国内の地下人一揆の鎮圧や、肥前少弐氏や備中三村氏、それに村上水軍(来島村上氏)などとの外交工作を通して、晴賢との全面対決への備えを固めていった。さらに晴賢の家臣であった勇将・江良房栄にも調略の手を伸ばし、これが不首尾に終わると陶方に「房栄が元就と内応している」との流言を放ち、これにより猜疑心を煽られた晴賢が房栄を誅殺、陶方の軍事力低下に繋がったとも伝わっている。
厳島の戦い
天文24年(1555年)に入ってからも、瀬戸内海を中心に両者の小競り合いが続き、前述の通り厳島を始めとする重要拠点、そして制海権を毛利氏は確固たるものとしており、そのことを晴賢は、香川光景の守る仁保島の仁保城攻略に派遣した三浦房清の敗北を通して痛感させられていた。
逆に言えばこの状況は、大内軍が陸路から安芸を攻めても海上からその補給線を脅かせることを意味し、業を煮やした晴賢はこの現状を打破するために、厳島の宮尾城攻略を画策する。制海権を大内側が奪えば、陸上からの侵攻でも脇腹を突かれる脅威を無くすのみならず、海上から迂回することで桜尾城の毛利防衛ラインを無意味なものにすることも可能であり、宮尾城攻略はそのための布石の一つであった。
これに対し、晴賢と協調関係にあると同時に、元就やその息子たちとも親交が深かった弘中隆包は、狭隘で大軍の身動きが取れなくなる厳島では、少数の毛利軍の奇襲攻撃には脆弱であり、これこそ元就の罠と危険視して陸路からの安芸侵攻を主張し、晴賢と同じく宮尾城攻略を主張する房清等と対立。受け入れられないと見るや自分に千名だけでも残して桜尾城を牽制攻撃させて欲しいと具申するが、房栄と同様に毛利側の工作で隆包にも不信を抱きつつあった晴賢はこれを退け、9月下旬には全軍を挙げて厳島への上陸を敢行。2万とも伝わる陶軍の猛攻の前に宮尾城は陥落一歩手前まで追い込まれた。しかし落城を目前にして、日柄の悪さ故に総攻撃を延期したことが、晴賢にとっては大きな命取りとなった。
対する毛利軍は厳島対岸の地御前にまで兵を進め、ここで村上水軍の来援を待っていたが、9月29日(もしくは30日)に水軍が到着したのを受け、荒天を突いて厳島への渡航に踏み切った。そして10月1日早朝、前夜のうちに厳島に上陸した元就率いる4000の毛利軍は、陶軍の背後より奇襲を決行。予想外の敵襲に加えて狭い島内で大軍の身動きがままならず、さらには村上水軍による攻撃で軍船を失い退路も断たれたことから、陶軍は前夜までの優勢から一転、総崩れに陥った。
晴賢はごく僅かな近習たちと共に島からの脱出を図るも、西岸の大江浦まで辿り着いたところで、頼りにしていた三浦房清が奮戦の末に討死したのを知ったこともあり脱出を断念、自刃し35年の生涯に幕を引いた。その首級はかって晴賢の守役であり、彼を介錯した伊香賀房明により厳島の山中に埋められ、房明はその所在を隠すために残った晴賢近習二人と共に離れた場所で切腹したが、後に生き残り捕虜となった晴賢の小姓が白状したために毛利軍に発見され、桜尾城での首実検の際に元就によって「主君を討って八虐を犯した逆臣である」とムチで三度叩かれたとも、元就によって廿日市洞雲寺に丁重に弔われ石塔を建立されたとも伝わる。弘中隆包も島内での頑強な抵抗の末、息子・隆助とともに討死した。
晴賢の死により、それまでも不安定な状態にあった大内家中は完全な瓦解を迎え、間もなく始まった毛利氏による侵攻により、大内氏も滅亡の時を迎えることとなる(防長経略)。その過程で晴賢の本拠であった富田若山城も、杉重輔(杉重矩の遺児)の攻撃に遭い陥落し、城を守っていた嫡男の長房やその弟の貞明、そして晴賢の実兄である問田隆盛も自刃。陶氏の嫡流、そして問田氏はここに断絶を迎えた。
「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に(辞世の句より)」
各種創作
ドラマ
1993年日本テレビ年末時代劇スペシャル『鶴姫伝奇 -興亡瀬戸内水軍-』
演:隆大介
隆房名義で登場。大内軍の総大将として大三島を攻め、鶴姫たちと死闘を繰り広げる。
1997年NHK大河ドラマ『毛利元就』
演:陣内孝則
物語中盤~後半にかけての主要人物として登場。大内氏による天下統一を強く志しており、主君の義隆個人以上に、大内という家そのものに対する忠誠心の厚い人物として描かれた。
大寧寺の変に関しても、大内氏の行く末を案じ、葛藤の末に敢えて汚名を被って主君への謀反に踏み切ったという、それまで主流であった謀反人のイメージとは一線を画した描写がなされているが、結局その志を理解されぬまま厳島の戦いにて大敗を喫し、予てから協力関係にあった村上水軍の将・野田次郎との一騎打ちの末に相打ちを遂げるという、悲劇的な結末を迎えることとなる。
信長の野望
「武将風雲録」のシナリオ1から登場。全てのステータスが高めに設定されているが、如何せん活躍した年代が年代だけに、登場するシナリオが限られているのが惜しい。
更に初登場から「将星録」までは危険人物であり、反旗を翻しやすいという難点も有していた。「武将風雲録」では大内義長(大友晴英)を当主に迎えた筈なのに、当主に迎えた人物を謀反で滅ぼして、大名になる光景が見られた。
しかし、そんな晴賢にも転機が訪れる。「将星録」のリリース年の1997年は、前出のNHK大河ドラマ『毛利元就』の放送年でもあり、同作における晴賢の人物描写が影響したのか、次作「烈風伝」以降のタイトルでは高めのステータスはそのままに、義理のステータスも強化されたことにより、謀反を起こさなくなった。
また大寧寺の変は「天翔記」から歴史イベントとして実装された。(「天翔記」では蜜月の終焉、「烈風伝」~「蒼天録」では名門の落日)
当初は大内義隆や冷泉隆豊、相良武任の3名が死亡して大内家が滅亡して陶晴賢が大名になるという構成であったが、「嵐世記」以降は史実通りに義長を当主に迎える様になった。「天道」では晴賢の意見を聞き入れるか否かで大寧寺の変が起こるか、相良武任が逃亡する結末になる。
「創造」の通常版では一見何もない武将(顔グラも革新・天道からの使い回し)で大寧寺の変はまともに描かれているが、「創造」PKにてまさかのイケメン顔グラフィックが実装され、それと同時に大寧寺の変が何と書き直されており、密かに義隆との関係についても台詞に追加されている。
戦国無双
武器:刀剣 声:3:神谷浩史、『Chronicle』(『Chronicle 2nd』):宮崎寛務、4:金本涼輔?
「汚き乱世、俺が英雄となり高潔な道へと導く!」(3Empiresでの特殊台詞)
「俺は退けぬ!逃げぬ!負けられぬ! 死力を尽くし戦う将兵たちに報いねばならぬのだ!」(3Empiresの戦史演武・毛利の章・イベント戦『厳島の戦い』より)
「よく聞け!俺は無双の侍大将、陶晴賢よ!」(4Empiresでの特殊台詞)
概要
『3Empires』の戦史演武・毛利の章にて初登場。自害を図る毛利隆元を阻止し、尼子家に攻められた毛利家を救援すべく家中の反対を押し切って援軍として着陣した。元就からは「陶坊」と呼ばれる。
直情型で独断専行な人物だが正義感が強く尼子軍退却後に行われた第一次月山富田城にも元就と共に殿軍を担当して尼子軍の攻撃を退けることには成功し、この際に活躍した兵士たちを気遣っている。
しかし主君・義隆が兵士達を見捨てて独断で退却をしたことに激高。謀反を起こして義隆を大寧寺にて自害に追いやったのち、大友晴英(大内義長)を当主として迎え入れた。
その後に元就と対峙することとなり、弘中隆包の意見を無視して毛利軍と厳島にて対決。倒れる間際に元就はかつての戦いにて救援に来たことは今でも感謝していると述べた。4では特殊モブとして登場し、3Empires同様に毛利軍と厳島にて戦うも敗れた。
4Empiresでは特殊台詞が一新され、隠しシナリオ「川中島の戦い」にて3Empiresとは異なり大名として登場した。(なお大内義長は周防にて浪人状態)
100万人の戦国無双では神官服と軍服を合わせたような白い装束を着た七三分けのオリジナル武将として登場し、自らの行動を「正義の鉄槌」と呼び粛清として戦を行った。しかし正義の鉄槌と言いながらもその行動は最早偽善と呼ぶに相応しく一種の妄執の域にまで達しており、主君・大内義隆も滅ぼしている。
ちなみに陶軍の合言葉は「正義! 粛清!」と何処かの諸葛一族を連想させる。
関連タグ
中野三玖:『五等分の花嫁』の登場人物の一人。作中にて、主人公と接近するきっかけとなったとある会話の中で、晴賢の名に言及するくだりが存在する