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大内義隆

おおうちよしたか

大内義隆は、中国地方の戦国大名。父・大内義興の基盤を受け継ぎ、大内氏の最盛期を築き上げるも、次第に文治政治へと傾倒していった事が家臣の反発を招き、謀反によって自害に追い込まれた(1507年 - 1551年)。
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生まれながらの嫡男

永正4年11月15日(1507年12月18日)、大内氏15代当主・大内義興の嫡子として誕生。大内氏は父・義興の代まで数代に亘って家督相続時の内紛に悩まされており、これを憂慮した義興は早々に義隆の嫡子としての地位を明確にすべく様々な手段を講じている。幼名である「亀童丸」は大内家当主に代々伝わる由緒正しい名であり、また早い時期よりやはり大内家当主が世襲してきた「周防介」の叙任を受け、幼少期には周囲から「介殿様」と呼ばれていたという。

こうした取り組みや重臣・陶興房らの補佐、そして弟であった弘興の早逝などもあり、享禄元年(1528年)に父・義興が死去した際には、それまでのような内紛もなく平和裏に家督を継承している。

初陣~版図拡大

父・義興存命中の大永2年(1522年)より、義隆は父に従って尼子との戦いに出陣。大永4年(1524年)の佐東銀山城の戦いでは初陣を切るも、尼子方として救援に赴いた毛利元就の前に手痛い敗北を喫する(元就はこの戦いの後に大内氏に帰参)。

その後も義隆は各地を転戦、享禄3年(1530年)からは九州方面での軍事活動が主となる。肥前の少弐資元、豊後の大友義鑑らとは一進一退の抗争を繰り広げつつ、大内の庇護下にありながらこれを裏切った九州探題・渋川義長を天文3年(1534年)に討ち滅ぼし、さらに筑後の大生寺城を攻め星野親忠を討つ。少弐氏の勢力弱体化を図るべく、重臣であった龍造寺家兼を調略し寝返らせたのもこの頃であった。

北九州攻略の早い段階から、その大義名分を得るために朝廷に働きかけも行っており、4年がかりで大宰大弐への叙任を勝ち取ると、天文5年(1536年)に肥前多久城での戦いで少弐資元を討ち滅ぼし肥前を制圧、ここに北九州地方の平定を成し遂げた。天文7年(1538年)には室町幕府12代将軍・足利義晴の仲介により、長らく敵対していた大友義鑑とも和睦、義隆は自身の姉を義鑑に嫁がせる事で、両家の関係強化に努めている。

北九州の平定により、名実ともに西国一の大名となった義隆を頼り、将軍義晴からは幕政への参与を要請されており、義隆もこれに応じる形で上洛を試みようとしたが、この頃山陰を統一した尼子氏の勢力は無視できるものではなく、領国経営に専念するためにこれを断念。父・義興以来となる中央政界への参加は果たせないままに終わった。

尼子との抗争

九州方面の平定と前後して、大内氏はいよいよ尼子氏との全面的な対決へと突入していく事となる。大友氏との抗争がまだ続いていた天文6年(1537年)には、尼子氏によって大内氏が所有していた石見銀山を奪われるも、2年後の天文8年(1539年)にこれを奪い返している。さらに天文9年(1540年)に発生した吉田郡山城の戦いでは大内方の毛利元就を支援し、陶隆房(陶興房の子)を総大将とした援軍を送り尼子の大軍を撃退。これを機に義隆は尼子への攻勢を強め、天文10年(1541年)にはかつて自身が苦い初陣を経験した佐東銀山城などの諸城を攻略、安芸武田氏を始めとした尼子方の勢力を安芸国内から一掃する事にも成功した。

一連の安芸での軍事行動により、安芸だけでなく備後の国人衆からも尼子から大内へ鞍替えする者が続出し、さらに同年11月には尼子氏の前当主・経久が84歳で他界。これを好機と見た義隆は翌天文11年(1542年)1月、自らが総大将として国人連合軍を率い出雲へ侵攻、尼子氏の本城である月山富田城の攻略に乗り出す。これを迎え撃つ尼子軍はゲリラ戦術などを駆使して頑強に抵抗、月山富田城自体も地形を活かした難攻不落の要害だった事もあり、当初の目論見に反して戦況は長期化の一途を辿る事になる。

1年半近くにも亘る長期戦の末、従軍していた国人衆の中からも本城常光吉川興経らを筆頭に、離反者や逃亡者が相次ぐようになった。形成不利と見て取った義隆は撤退を開始するも、すかさず反攻に打って出た尼子軍の前に総崩れとなり、思いがけぬ大敗を喫する事となった。この戦では養嗣子の大内晴持も撤退の最中に不慮の死を遂げており、心身共に大きな痛手を負った義隆はこれを境にそれまで持っていた領土的野心を喪失、戦に赴く事も無くなってしまったのである。

文治政治への傾倒

それまでも和歌や連歌、芸能など公家文化への関心を示していた義隆は、月山富田城での大敗を機に、相良武任冷泉隆豊を始めとした文治派の重臣を重用するようになり、その施策もますます文化的な方向へと傾いていく事となる。こうした公家文化への傾倒に加え、畿内での度重なる戦乱を逃れて公家や文化人が多数身を寄せていた影響もあり、この時期の山口は「西の京」として繁栄の極みを迎える事となった。

また歴代の当主が推進してきた海外との交易にも力を入れており、まだ文治政治に傾く前の天文5年(1536年)には、寧波の乱で途絶していた遣明船による明との貿易を再開、天文16年(1547年)にも再び遣明船を派遣しているが、その後の内紛により大内氏による遣明船の派遣はこれが最後となった。天文19年(1550年)8月と天文20年(1551年)4月下旬には二度に亘ってフランシスコ・ザビエルを引見、一度目は礼節を欠いた振る舞いに立腹してキリスト教布教の許可を出さなかった義隆であるが、二度目の引見では珍しい文物を献上されたのもあり、キリスト教布教の拠点として大道寺をザビエルに与えている。

しかし、こうした文化的な活動への傾倒は、それに伴う多額の出費を賄うための増税をも誘発し、土豪や領民に大きな負担として圧し掛かる結果となった。さらにそれに伴う文治派の勢力拡大は、武断派がそれまで持っていた租税徴収などの行政権や政治的発言権の縮小を意味しており、家中での立場を失いつつあった武断派の不満をより強めるものとなっていった。天文19年には陶隆房や内藤興盛らが謀反を起こすという風聞が山口に広がり、文治派と武断派の間を取り持っていた冷泉隆豊までもが隆房の誅殺を進言するなど、次第に家中にも不穏な空気が醸成されつつあった。

大寧寺の変

予てからの政治的な方向性の相違に加え、陶氏がかつて横領した東大寺の旧領を返還しようという動きを義隆が見せた事なども引き金となり、義隆と隆房の間の溝は最早埋め難いものとなっていた。そして天文20年(1551年)1月の相良武任の讒訴をきっかけに、隆房らは武力蜂起に向けての準備や根回しを始めていく事となる。

そして同年8月20日、遂に隆房らは挙兵し山口へ侵攻。これに対して義隆に味方する者は僅かであり、不利を悟った義隆は山口を放棄して長門に逃亡。海路より親族であった津和野の吉見正頼の元に身を寄せようとするが暴風雨のためにそれも叶わず、最後は長門深川の大寧寺に籠ると、9月1日に当地にて自害という形で45年の生涯を終えた。義隆の実子の大内義尊もこれと前後して殺害され、ここに戦国大名としての周防大内氏は事実上の滅亡を迎えたのである。

義隆の死後、大内氏は新たな当主として義隆の甥に当たる大友晴英(後に大内義長と改名)を迎えるも、天文24年(1555年)の厳島の戦いを経て、大内氏から自立を果たした毛利氏の攻勢により大内氏は完全な滅亡を迎える事となる。

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概要

「15XX五畿七道の雄」より、他家勢力の武将として参戦。レアリティはUCで、二つ名は「末世の道者」。各所に花をあしらった雅な公家姿にデザインされている。
公家文化に浸ったせいか武力は最低の1だが魅力の特技を所持しているのは大大名の面目躍如といったところか。
所持計略『撹乱の呪い』は自身を含む範囲内の全武将の統率を大幅に下げる計略。下克上を起こした陶晴賢が「味方を巻き込むことで効果が高まる妨害計略」を所持しているため、義隆を犠牲に強力な妨害を発揮できる晴賢、という相性の良さは何とも皮肉。
余の威光で、花咲く世にしてみせようぞ

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