概要
古代中国の思想に基づいて生まれた世界観の「天下」で、天子などの実力者や権力者が統治すべき地域や集団を統一すること。
古代日本にももたらされ、とくに武家政権が現れた中世の戦国時代では支配を正当化する論理になり、その最高実力者を天皇とは異なる統治者として「天下人」と呼ばれた。
よく大半の戦国武将が「天下人になって天下統一を目指していた」という見方が後世では一般的だが、実際には誰もそのような野心や理想を考えてはいなかったのが実際である。
当時の「天下」の概念領域は日本全土ではなく、天皇から統治権力を任された室町幕府の征夷大将軍が管轄した京都とその周辺地域を意味し、地方の大名も統制下に置いて影響力を有していた。そのため、ほとんどの武将は地元地域の統治と周辺への影響での支配についてで、日本全域を支配下に置くというのはなかった。
しかし、その考えに変化を与える機会が来る。応仁の乱で幕府が弱体化し、日本は戦国乱世の時代に突入することとなった。戦国末期になると足利義昭を将軍に擁して織田信長が京に上洛、幕府権力を委任された信長が天下人の役割を担った。
しかし次第に義昭との関係が悪化・対立し、ついには義昭を追放し室町幕府を終焉に追い込んでいる。そのため、中央政権で幕府が支配した天下を自ら統治・管理する「天下人」になることとなり、ここで「天下統一」=「日本全国支配」に意味が変わった。
統一を目前とした信長であったが本能寺の変であっけなく倒れ、代わって豊臣秀吉が信長の統一事業を受け継ぎ、ついに天下統一を完遂することとなった。ところが、秀吉はその天下の概念領域を日本だけでなく海外にまで拡大させてしまい、中華征服からアジア支配、無謀なことに世界征服まで目論み朝鮮出兵を実行したが、その企ても秀吉の死によって失敗した。
秀吉死後、関ヶ原の戦いにより天下人となった徳川家康は「厭離穢土・欣求浄土」という平和な時代を求め、将軍となり江戸幕府を開いた。将軍の地位も徳川家が世襲するものとなり、天下の領域も日本国内へと戻され、時代は200年以上続く「天下泰平」の世へ移り変わった。