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江戸幕府

えどばくふ

1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権。江戸(現在の東京)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川氏が征夷大将軍職を世襲したので徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代(織豊時代)とともに後期封建社会にあたる。
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概要

熊本城
葵の紋章…


 
徳川家の当主が正二位内大臣右大将に叙任され征夷大将軍に任じられて、260余りの武家大名と主従関係を結び彼らを統率するという制度は、1600年代後半までに確立された。
 その将軍の政府を「幕府」、臣従している大名家を「藩」、さらに両者が複合した権力の体制を「幕藩体制」と一般に呼んでいる。「幕府」及び「藩」の語は幕末期に広く使用され、現在も歴史用語として定着しているものの。江戸時代を通じて使用されていた訳ではない。それまでは将軍の政府は「公儀」「公辺(おおやけ)」などと漠然と呼ばれていた。

 江戸幕府の始期及び終期については諸説あるが征夷大将軍の任官時期に着目する場合には、家康がはじめて将軍職に任じられた1603年3月24日(慶長8年2月12日)から、いわゆる王政復古の大号令によって15代将軍徳川慶喜の将軍職辞任が勅許され、併せて幕府の廃止が宣言された1868年1月3日(慶応3年12月9日)までとなる。

 終期には他にも1867年11月9日(慶応3年10月14日)に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った時、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)の江戸開城とする説もある。

徳川将軍が実質的に日本を支配したこの260年あまりの期間を一般に「江戸時代」と呼ぶ。江戸幕府は、日本の歴史上平氏政権鎌倉幕府室町幕府織田政権豊臣政権に続く5番目にして最後の武家政権である。

江戸時代に日本全体に独自の秩序を作った徳川幕府はある意味では朝廷(昔の日本政府)よりも明確な統治を行ったし、鎌倉幕府から始まって『(朝廷などは置いておいて)天下の覇者による侍の統一政治』を完成させた政権としていい。
 しかし、完璧に近い安定を見せたに近い身分制度を採ってみても、国民全員にチャンスを与える平等性や、政治・軍事・商売・農民などを限られた特権階級的な身分に仕立て上げ、人の才能の流動などを考えることはあえて犠牲にしたような節がある。極端に言うと『政治や道楽・商売はお上にまかせて庶民は何も考えず生活していればいいのだ、農民は黙って農業だけをしていればよいのだ。』という向きにも捉えることが出来る。

 『政治や道楽・商売はお上にまかせて庶民は何も考えず生活していればいいのだ、農民は黙って農業だけをしていればよいのだ。』だけで話が終わるとなると、さすがに近代国家、近代政府の民主主義資本主義自由主義社会主義などは相容れるはずがなく、そこらへんが江戸幕府の日本の限界だったのかもしれない。実際、幕府は外国の力(アメリカ合衆国)などに迅速に大要出来ないまま、責任を取り幕府を閉じざるを得なくなった。

政治体制
 ほぼ全ての武士が直接あるいは間接に将軍の臣下としてその命令を受ける立場にあるという歴代武家政権の中でも抜群の中央集権的政権、かつ幕末に至るまで大名同士の内乱は全く起こらなかったという安定政権である。しかし、基本的な仕組みは近代の政権に比べると地方分権的であり、幕府が直接支配する天領(歴史用語。当時は御領、公領等と呼んだ)は石高にして全体の10%強に過ぎない(それでも歴代政権でも高い方と考えられる)。また、幕府の直臣である旗本御家人もそれぞれの私領を有し、一定の自治権を有していた(ただし、最下層の御家人は「切米取り」といわれて扶持米を記したものを毎年与えられ、米商人にコメを売ることで現金収入を得るものが大半であった)。それ以外は諸大名が支配する(歴史用語。当時は○○領分等と呼んだ)が治め、原則として幕府が直接立法、行政や司法を行うことはなかった。
 徳川将軍家を『最終勝利者』とし頂点とした武士階級による中央集権政権ではあるが、けっして徳川氏だけによる独裁政権ではなく、古くからの腹心の直属臣下である大名(譜代大名と呼ぶ)が老中若年寄といった幕閣の首脳となって主要政策を協議し、細部は隷下の巨大な官僚制度が実施する集団指導体制であった。また、藩の政治は主である大名とその家臣に任されるため、その規制を行う法律として武家諸法度が定められ、また各藩を監視する要職として大目付が置かれた。
職名身分詳細
将軍徳川家当主幕府の最高権力者。将軍によってその権力の大きさはかなり違い、側用人等の側近を用いて将軍が実権を握っていた場合と、老中たちが実権を握っていた場合がある。
大老大名老中より上に置かれる臨時職。複数人置かれたケースはなく重要政策の決定を一人の人物が行い、老中、若年寄さえも指揮下に置いた。
老中大名複数人任命され、幕府の日常的な重要政策の意思決定は老中の合議で決まった。将軍の信任により、特定の老中がほぼ幕府の全権を握っていたケースも多い。隷下には大目付勘定奉行江戸町奉行等多数の役職があり、巨大な官僚制度を成す。
若年寄大名複数人を任命。老中に次ぐ要職で主に幕府の直臣である旗本・御家人の支配を行った。隷下には旗本・御家人の監視役である目付等これも多くの役職があり、官僚制度を成していた。
大目付大名、後には旗本複数人を任命。初期は結束すれば幕府にとって脅威になりかねない諸藩を監視する要職であったが、やがて諸藩が謀反する可能性がほとんど無くなってくると、儀礼等を司る閑職になっていった。
勘定奉行旗本複数人を任命。財政と天領の最高責任者。幕府の会計を司るばかりか、全国各地に散らばる天領の行政や訴訟も各地に置いた代官を通じて管轄していた。
町奉行旗本単に町奉行と言った場合は、江戸の行政・司法を任された江戸町奉行を指す。市長兼警察署長兼裁判所長に当たる要職であり、極めて多忙であったという。ただしその権限は町人の住む町方に限られる。大名や旗本の住む武家地は彼らの自治と大目付、目付の監察に任されていた。
寺社奉行大名4~5人が任命され月番で全国の寺社と寺社領の管理及び宗教統制を行う。楽人や検校・連歌師・陰陽師・碁将棋所など諸職の者も統括した。京都所司代から老中へと進む出世コースがあった。
京都所司代大名老中に次ぐ要職で、京都二条城にあって京都における将軍の代理人。朝廷の監視と西国大名の監視を任務としていた。
大坂城代大名大坂城を警護する。老中、若年寄、京都所司代、大坂城代は将軍直属の職務である。
遠国奉行旗本天領の重要拠点を担当する責任者。京都町奉行、大坂町奉行、長崎奉行といった重要都市・港湾の責任者や日光東照宮を管轄する日光奉行、伊勢神宮を管轄する山田奉行などの総称。概ね京都所司代や大坂城代などではなく老中の指揮下にあった。
※京都守護職・・幕末期、京の都の治安を乱す過激尊王攘夷派を取り締まるための役職として配下に新選組を置いた。江戸幕府が滅亡期でもあったため会津藩主・松平容保が最初で最後の京都守護職であった。



 発足当初、幕府は厳しい年貢の取り立てやキリシタンの弾圧、大名の取り潰しを頻繁に行う武断的な政権でったが、寛永14年(1637年)、領主の圧政に耐えかねた農民が島原(長崎)、天草(熊本)で一揆が起こると、それにキリシタンや大名の取り潰しであぶれた浪人が呼応、幕府は鎮圧に半年を要し、双方ともに多くの死傷者を出すこととなった(島原の乱)。さらに慶安4年(1651年)、3代将軍・徳川家光死去の間隙を縫う形で軍学者・由井正雪ら浪人による討幕の謀議が発覚・鎮圧する事件が起こった(慶安の変)。これらの事件を重く見た幕府は無理な年貢の取り立てをやめ、「寺請制度」を整備して戸籍と宗教を管理を行い、大名の取り潰しを極力避けるなど、次第に文治的な政権に移行していった。
法体系
 元和元年(1615年)、2代将軍・徳川秀忠は武家を統括する「武家諸法度」、朝廷や公家を統括する「禁中並公家諸法度」、寺社仏閣を統括する「寺社諸法度」を発布した。前述のとおり、幕府は当初武断的な統治を行っており、「武家諸法度」も制定当初は武芸をはげむよう定められていたが、幕政が安定し文治的な統治に移行していくと徐々に緩められ5代将軍・徳川綱吉の世になると学問にはげむよう全面改訂が行われた。
 また一般庶民には新たな法令が定められるたび「御触書き」を記した高札が各地で立てられた。
外交政策
 清帝国朝鮮王朝オランダとの交易を行うため長崎を開いたことが有名。2代将軍・秀忠は対馬の宗氏を介して豊臣秀吉による朝鮮出兵のため断交していた朝鮮王朝との国交の修復に成功、幕末まで良好な関係を保ちつづけた。また、オランダを通じて欧米諸国の情報を入手、ペリーの来航も予期していたため幕末の外交に一定の役割を果たした。
 一方でキリスト教の布教を禁止し、オランダ以外の欧州諸国との貿易も禁止、かつ日本人の海外渡航と帰国をも禁止した。オランダ人の居住は長崎の出島に限り、清国人も長崎以外での貿易は禁止した。以上のような閉鎖的な外交政策を鎖国と呼ぶ。
石高制
 豊臣秀吉の行った検地をもとにした「石高制」を引き継ぐことになったが、幕府財政は米の収穫量を基本としていたため、8代将軍・徳川吉宗の時代になると農業技術の発達により米の収穫量が増えるとともに値崩れし、江戸時代後期には逆に凶作が続いたことにより収入が激減して幕府や各藩の財政難は慢性的なものとなった。その結果、吉宗は米の価格統制を行い、吉宗の死後、実権を握った老中・田沼意次は失脚するまで商人から課税を強化する政策に力を入れることとなった。また、財源に窮した藩は米の収穫量を担保にして借金を続け、中には数年先の収穫量まで担保にして雪だるま式に借金が増える例も少なくなかった。
 また、石高制には盲点ともいえる欠点があった。それは行われた検地があくまで机上の計算であり、実態とかけ離れた例も少なからずあったことである。たとえば熊本藩は加藤清正が河川改修を、仙台藩は伊達政宗が開墾を行うことで石高以上の収穫が得ることができたが、逆に薩摩藩は土地が火山灰に覆われていることが原因で土地がやせており、西国雄藩の面目を保つため年貢の取り立てが他藩よりもさらに峻烈を極めたといわれている。(それゆえ薩摩藩は琉球を通じて中国大陸と密貿易を行っている)
貨幣経済と流通
 江戸時代は、また、貨幣による流通経済飛躍的に発達したことでも知られる。 
 それまでの日本は「銭」は中国からの輸入に頼っていた部分が大きく、国内で鋳造されるものは皆無に等しく、輸入した「銭」の1/4の価値しかない質の悪いものが細々と作られるに過ぎなかった。(「私鋳銭」、または「悪銭」、「びた銭」ともいう)
しかし泰平になると五街道をはじめとする道路、太平洋、日本海、瀬戸内海を周遊する海路が整備され、それぞれに流通経済が発達することとなった。
 そこで幕府は金貨を鋳造する「金座」、銀貨を鋳造する「銀座」(東京にある銀座はその名残である)、銅貨を鋳造する「銅座」を設置し、それが日本全国で流通することとなった。(とはいえ小判をはじめとする金貨は主に江戸で、銀貨は主に大阪で流通するのだが・・)
 また、それとは別に各藩は「藩札」というものを独自に発行していた。これは現代でいえば「国債」が借金であると同時に紙幣的価値をもつというものであり、仮に藩が「お取り潰し」にでもなれば直ちに紙くずになるものであった。ちなみに歴史上、最も知られた「藩札(正確にはちがうが)」は西郷隆盛が軍資金調達のために作った「西郷札」であるが、西南戦争で西郷が敗死したため、文字通り紙くずとなった。
自治制度(幕藩体制)
 基本的に幕府は各藩の統治に介入することはない。各藩は独自に法令を定め領地を治めることになるが、大名に後継者が見あたらない場合、施政に不備がある場合には幕府からの介入をまねくことになり、悪くすれば取り潰されることもあった。しかし、さすがに大名に後継者がいなくなっただけで「藩」を取り潰すのはむやみに浪人を増やしたり、その地に混乱をもたらすなど悪影響が多いことから、後には「(その事実がなくても)大名が死ぬ間際に後継者を指名した」ので「藩」の存続を許すという形で緩和されるようになった(末期養子)。
 また、幕府の天領は約四百万石、直臣である旗本・御家人の領地を含めると七百万石を越え、幕府の総兵力は「旗本八万騎」と号された(実態はもっと少なかったという説もある)。最大の加賀前田家でも百万石に過ぎない大名が数家同盟して挑んでも勝ち目はない。さらに大老・老中として幕府の権力を握った譜代大名たちについても、自らの領国は最大の井伊家・彦根藩でも三十万石前後に過ぎず、幕府を離れて独自の権力を振るうことはできなかった。かくして大名の反乱がない平和な時代が続くことになる(百姓一揆や打ち壊しなどは頻発したが)。
 大名には、一年おきに領地と江戸を往復する参勤交代、幕命による土木事業のほかに、面目を保つための支出もあった。そして商品経済が発達すると、コメを中心とした年貢に依存する武士の生活は、消費を収入で賄えなくなっていった。こうして各藩の財政は逼迫することとなり、各藩は財政再建のため倹約令を発したり新作物を開発するなどして工夫したが大抵はうまくいかず、財源確保のために借金を繰り返すことになった。
学問・学校
 幕府が設立した「昌平黌」を頂点として各藩で藩校が作られた。しかしながら、これらの学校で教えられたのは儒教論語を中心とした東洋の学問であり、西洋の学問が教えられたのは幕末に神戸に作られた「神戸海軍操練所」が最初で最後だった。
 西洋の学問を教えたのは独学で洋学を学んだ佐久間象山緒方洪庵らの私塾だった。彼らは自ら塾を経営して人材を育て、優秀なものが幕府や各藩に召し抱えられることとなった。
 また、それ以外の塾も各地に散らばっていた。それらの塾は簡単なそろばん、読み書きを教える「寺子屋」から、国学や心学、東洋医学を教えるもの、「和算」の研究を行うものなど多岐にわたっていた。(ちなみに「和算」の研究は世界でも有数の高度なものであり、明治になってそれを見たヨーロッパの数学者は驚愕したという)

大名政策

親藩
 徳川氏の一族、一門の大名であり、家格としては家康の九男・十男、十一男を祖とする御三家(尾張、紀伊、水戸)、家康の次男・結城秀康を祖とする越前・松平、秀忠の四男・保科正之を祖とする会津・松平と続き、それに家康の異母弟や親戚、将軍の庶子などを祖とする大名がそれに続いた。

  • 尾張・徳川家…家康の九男・徳川義直を祖とする御三家筆頭、62万石を領し、代々、大納言に任じられた。
  • 紀伊・徳川家…家康の十男・徳川頼亘・を祖とする後三家第二位、55万石を領し、代々、大納言に任じられた。8代将軍・徳川吉宗、14代将軍・徳川家茂を輩出する。
  • 水戸・徳川家…家康の十一男・徳川頼房を祖とする御三家第三位、28万石を領し、代々、中納言に任じられた。家格は尾張・紀伊に譲るが江戸常府を認められていた。後に15代将軍・徳川慶喜を輩出した。
  • 越前・松平家…家康の次男・結城秀康を祖として家格は後三家に次いだ。当初52万石を領し、秀康の長男・松平忠直のころには68万石を領していたが、忠直は不行跡のために配流され、すぐに秀康の次男・松平忠昌が50万石を領し存続を許された。後に徐々に減封され幕末には35万石を領することとなった。
  • 会津・松平家…秀忠の四男・保科正之を祖として家格は御三家、越前藩に次いだ。正之は2代将軍・徳川秀忠の四男ではあるが正室・江の生んだ子ではなかったため、信濃・高遠藩主・保科正光の養嗣子となる。当初は認知を渋った秀忠の死後、長兄・家光に引き立てられ山形藩20万石を領していたが、会津藩主・加藤明成が圧政を行ったことにより領地を返上、正之が23万石で会津に入った。正之の死後、松平に復姓、幕末に至る。
譜代大名
 徳川氏に古くから仕えてきた大名。与えられた知行は少なく10万石前後のものが多いが(最大でも彦根・井伊家の35万石)、特別に任じられる大老、常設の老中若年寄ら幕閣は外様大名から選ばれることはなく親藩・譜代の大名から選ばれた。また、譜代大名の多くは徳川氏の本拠である江戸を中心に多く配された。
外様大名
 関ヶ原の戦い]を前後に家康に臣従・味方した豊臣家恩顧の大名や家康と対峙して敗れた同格の大名が大半である。 彼らの多くは江戸から遠隔後に配され、幕府から監視されるとともに幕命により土木事業を命じられることが多く、財政的にも破綻寸前に追い込まれていた。

関連

お上・・・日本での政府側の大昔のあだ名、徳川政権に対し呼ばれる。
徳川家・・・歴代将軍の一覧はこちらを参照

公儀(こうぎ)・・・江戸幕府のみならず、鎌倉、室町時代の幕府を呼ぶときの名称 例 公儀隠密
公辺(おおやけ)・・・江戸幕府のみならず、鎌倉、室町時代の幕府を呼ぶときの名称

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