概要
江戸時代における日本の武家政権。江戸(現・東京)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川将軍家が将軍職を世襲したので徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代(織豊時代)と共に後期封建社会に当たる。日本の歴史上平氏政権・鎌倉幕府・室町幕府・織田政権・豊臣政権に続く5番目にして最後の武家政権である。
徳川宗家当主は正二位内大臣兼右大将に叙任され征夷大将軍に任じられて全国の大名・旗本・御家人らと主従関係を結び彼らを統率する。その将軍の政府を「幕府」、臣従している大名家を「藩」、さらに両者が複合した権力の体制を「幕藩体制」と一般に呼んでいる。「幕府」及び「藩」の語は幕末期に広く使用され、現在も歴史用語として定着しているものの。江戸時代を通じて使用されていた訳ではない。それまでは将軍の政府は「公儀」「公辺(おおやけ)」などと漠然と呼ばれていた。
幕府始期及び終期については諸説あるが、将軍任官時期に着目する場合には、家康が始めて将軍職に任じられた1603年3月24日(慶長8年2月12日)から、いわゆる「王政復古の大号令」によって15代将軍・慶喜の将軍職辞任が勅許され、併せて幕府廃止が宣言された1868年1月3日(慶応3年12月9日)までとなる。終期には他にも1867年11月9日(慶応3年10月14日)に15代将軍・慶喜が大政奉還を行った際、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)の江戸開城とする説もある。
政治体制
ほぼ全ての武士が直接あるいは間接に将軍の臣下としてその命令を受ける立場にあるという歴代武家政権の中でも抜群の中央集権的政権、かつ幕末に至るまで大名同士の内乱は全く起こらなかった。この内乱が起こらなかった理由として、藤田達生は信長、秀吉、家康らの天下人が一貫して進めた領地の収公を想定する。つまり中世社会では領地は御恩と奉公によって御家人・大名が私領として代々相続するものであったが、天下人が改めて「領地を預ける」という形式で領地を任せる制度にした。しかも、形式だけではなく頻繁に鉢植えのように大名の国替え、すなわち遠隔地との領地交換と移転を強いた。これによって大名たちに領地は私物ではなく、大名個人の器量に応じて天下人から仮に預けられたに過ぎないという認識が流布したというのである。これを預治思想と呼ぶ(藤田『藩とは何か』,2019)。確かに秀吉の奥州仕置に見られるように、内乱を起こせば天下人の介入を招いて預けられた領地を取り上げられてしまうのでは、内乱を起こすのは困難であろう。まして旗本八万騎と豪語する徳川将軍家の軍事力を前に内乱を起こすのはさらに困難といえる。こうして江戸時代の大部分は内乱なき天下泰平の世となった。
しかし、基本的な仕組みは近代の政権に比べると地方分権的であり、幕府が直接支配する天領(歴史用語。当時は御領、公領等と呼んだ)は石高にして全体の10%強に過ぎない(それでも歴代政権でも高い方と考えられる)。また、幕府の直臣である旗本・御家人もそれぞれの私領を有し、一定の自治権を有していた(ただし、最下層の御家人は「切米取り」といわれて扶持米を記したものを毎年与えられ、米商人にコメを売ることで現金収入を得るものが大半であった)。それ以外は諸大名が支配する藩(歴史用語。当時は○○領分等と呼んだ)が治め、原則として幕府が直接立法、行政や司法を行うことはなかった。
徳川将軍家を『最終勝利者』とし頂点とした武士階級による中央集権政権ではあるが、けっして徳川氏だけによる独裁政権ではなく、古くからの腹心の直属臣下である大名(譜代大名と呼ぶ)が老中・若年寄といった幕閣の首脳となって主要政策を協議し、細部は隷下の巨大な官僚制度が実施する集団指導体制であった。また、藩の政治は主である大名とその家臣に任されるため、その規制を行う法律として武家諸法度が定められ、また各藩を監視する要職として大目付が置かれた。
職名 | 身分 | 詳細 |
---|---|---|
将軍 | 徳川家当主 | 幕府最高権力者。将軍によってその権力の大きさはかなり異なり、側用人等の側近を用いて将軍が実権を握っていた場合と、老中達が実権を握っていた場合がある。 |
大老 | 大名 | 老中より上に置かれる臨時職。複数人置かれたケースはなく重要政策の決定を1人の人物が行い、老中、若年寄さえも指揮下に置いた。 |
老中 | 大名 | 複数人任命され、幕府の日常的な重要政策の意思決定は老中の合議で決定した。将軍の信任により、松平定信・水野忠邦・阿部正弘など特定老中がほぼ幕府の全権を握っていたケースも多い。隷下には大目付や勘定奉行、江戸町奉行等多数の役職があり、巨大な官僚制度を成す。 |
若年寄 | 大名 | 複数人を任命。老中に次ぐ要職で主に幕府の直臣である旗本・御家人の支配を行った。隷下には旗本・御家人の監視役である目付等これも多くの役職があり、官僚制度を成していた。 |
大目付 | 大名、後には旗本 | 複数人を任命。初期は結束すれば幕府にとって脅威になりかねない諸藩を監視する要職であったが、やがて諸藩が謀反する可能性がほとんど無くなってくると、儀礼等を司る閑職になっていった。 |
勘定奉行 | 旗本 | 複数人を任命。財政と天領の最高責任者。幕府の会計を司るばかりか、全国各地に散らばる天領の行政や訴訟も各地に置いた代官を通じて管轄していた。 |
町奉行 | 旗本 | 単に町奉行と言った場合は、江戸の行政・司法を任された江戸町奉行を指す。市長兼警察署長兼裁判所長に当たる要職であり、極めて多忙であったという。ただし、その権限は町人の住む町方に限られる。大名や旗本の住む武家地は彼らの自治と大目付・目付監察に任されていた。 |
寺社奉行 | 大名 | 4 - 5人が任命され月番で全国の寺社と寺社領管理及び宗教統制を行う。楽人や検校・連歌師・陰陽師・碁将棋所など諸職の者も統括した。京都所司代から老中へと進む出世コースがあった。 |
京都所司代 | 大名 | 老中に次ぐ要職で、京都二条城にあって京都における将軍の代理人。朝廷の監視と西国大名の監視を任務としていた。 |
大坂城代 | 大名 | 大坂城を警護する。老中、若年寄、京都所司代、大坂城代は将軍直属の職務である。 |
遠国奉行 | 旗本 | 天領の重要拠点を担当する責任者。京都町奉行・大坂町奉行・長崎奉行といった重要都市・港湾責任者や日光東照宮を管轄する日光奉行、伊勢神宮を管轄する山田奉行などの総称。概ね京都所司代や大坂城代などではなく老中指揮下にあった。 |
高家 | 旗本 | 公家様式の儀式・儀礼(有職故実)を司り、朝廷からの使者(勅使)が京より下向したおりには、接待役を任された大名に接待法の作法を教える非常勤講師のような役目を持つ。石高は500 - 1500石と多くはないが、その中でも5000石の吉良氏は格別の家格を有する。足利氏末裔(喜連川氏)や今川氏末裔(品川氏)などが世襲し家格は高い。 |
※京都守護職…幕末期、京の都の治安を乱す過激尊王攘夷派を取締まるための役職として配下に新選組を置いた。幕府が滅亡期でもあったため会津藩主・松平容保が最初で最後の京都守護職であった。
発足当初、幕府は厳しい年貢取立てやキリシタン弾圧、大名取潰しを頻繁に行う武断的な政権であったが、寛永14年(1637年)、領主の圧政に耐えかねた農民が島原(長崎)・天草(熊本)で一揆が起こると、それにキリシタンや大名取潰しであぶれた浪人が呼応、幕府は鎮圧に半年を要し、双方共に多くの死傷者を出すこととなった(島原の乱)。さらに慶安4年(1651年)、3代将軍・家光死去の間隙を縫う形で軍学者・由井正雪ら浪人による討幕謀議が発覚・鎮圧する事件が起こった(慶安の変)。これらの事件を重く見た幕府は無理な年貢取立てを辞め、「寺請制度」を整備して戸籍と宗教を管理を行い、大名取り潰しを極力避けるなど、次第に文治的な政権に移行していった。
法体系
元和元年(1615年)、2代将軍・徳川秀忠は武家を統括する「武家諸法度」、朝廷や公家を統括する「禁中並公家諸法度」、寺社仏閣を統括する「寺社諸法度」を発布した。前述のとおり、幕府は当初武断的な統治を行っており、「武家諸法度」も制定当初は武芸をはげむよう定められていたが、幕政が安定し文治的な統治に移行していくと徐々に緩められ5代将軍・徳川綱吉の世になると学問に励むよう全面改訂が行われた。
また一般庶民には新たな法令が定められるたび「御触書き」を記した高札が各地で立てられた。
外交政策
清帝国・朝鮮王朝・オランダとの交易を行うため長崎を開いたことが有名。2代将軍・秀忠は対馬の宗氏を介して豊臣秀吉による朝鮮出兵のため断交していた朝鮮王朝との国交の修復に成功、幕末まで良好な関係を保ちつづけた。また、オランダを通じて欧米諸国の情報を入手、ペリーの来航も予期していたため幕末の外交に一定の役割を果たした。
一方でキリスト教布教を禁止した上でオランダ以外の欧州諸国との貿易も禁止して、且つ日本人の海外渡航と帰国をも禁止した。オランダ人居住は長崎の出島に限り、清国人も長崎以外での貿易は禁止した。以上のような閉鎖的な外交政策を「鎖国」と呼ぶ。
石高制
豊臣秀吉の行った検地をもとにした「石高制」を引き継ぐことになったが、幕府財政は米の収穫量を基本としていたため、8代将軍・徳川吉宗の時代になると農業技術の発達により米の収穫量が増えるとともに値崩れし、江戸時代後期には逆に凶作が続いたことにより収入が激減して幕府や各藩の財政難は慢性的なものとなった。その結果、吉宗は米の価格統制を行い、吉宗の死後、実権を握った老中・田沼意次は失脚するまで商人から課税を強化する政策に力を入れることとなった。また、財源に窮した藩は米の収穫量を担保にして借金を続け、中には数年先の収穫量まで担保にして雪だるま式に借金が増える例も少なくなかった。
また、石高制には盲点ともいえる欠点があった。それは行われた検地があくまで机上の計算であり、実態とかけ離れた例も少なからずあったことである。たとえば熊本藩は加藤清正が河川改修を、仙台藩は伊達政宗が開墾を行うことで石高以上の収穫が得ることができたが、逆に薩摩藩は土地が火山灰に覆われていることが原因で土地がやせており、西国雄藩の面目を保つため年貢の取り立てが他藩よりもさらに峻烈を極めたといわれている(それゆえ薩摩藩は琉球を通じて清と密貿易を行っている)。
貨幣経済と流通
江戸時代は、また、貨幣による流通経済が飛躍的に発達したことでも知られる。
それまでの日本は「銭」を中国からの輸入に頼っていた部分が大きく、国内で鋳造されるものは皆無に等しく、輸入した「銭」の1/4の価値しかない質が悪いものが細々と作られるに過ぎなかった。(「私鋳銭」、または「悪銭」「びた銭」ともいう)
しかし、泰平になると五街道を始めとする道路・太平洋・日本海・瀬戸内海を周遊する海路が整備され、それぞれに流通経済が発達することとなった。
そこで幕府は金貨を鋳造する「金座」、銀貨を鋳造する「銀座」)東京にある銀座はその名残である)、銅貨を鋳造する「銅座(銭座)」を設置し、それが日本全国で流通することとなった。
ところが江戸では金貨(小判)が、大阪では銀貨(丁銀など)が主に流通していた。このことから江戸・大阪間交易用に両替専門業者(両替商)が誕生し、次第に貨幣貸付も請け負うようになった。これが現代における銀行の始まりとされている。
また、貨幣を鋳造するには鉱山からの産出が必要で、材料が底を付くと当然新たな貨幣の発行はできなくなる。このため幕府は常に材料の貯蔵量を気にしながら鋳造せねばならず、貯蔵量回復のために市中経済や貿易の抑制が行われることとなった(このような形の財政再建は明治新政府でも行われた)。後世の歴史家や教師が誤解しやすいところであるが、金含有量を減らした小判を鋳造することは、幕府・市中経済双方にとって有効な政策であった。インフレが発生するのは経済活性化の結果であって、インフレが目的ではない。市中が混乱したのは寧ろ直後のデフレであった。
江戸時代後期になるとほぼ全国民が貨幣経済の影響下に置かれ、これは武士も例外ではなかった。だが武士は禄(給与)が米で支払われたため、市中で物を買うには1度米を貨幣に変換する必要があり、米価が下がると取り分が減少することになった。このため特に下級武士は豊作であればある程手に入る貨幣が少なく、かといって凶作ではそもそも禄が少ないという厳しい暮らしを余儀なくされた。
幕府とは別に各藩は「藩札」というものを独自に発行していた。これは現代でいえば「国債」が借金であると同時に紙幣的価値を持つというものであり、仮に藩が「お取り潰し」にでもなれば直ちに紙くずとなるものであった。ちなみに歴史上、最も知られた「藩札(正確には異なるが)」は西郷隆盛が軍資金調達のために作った「西郷札」であるが、西南戦争で西郷が敗死したため、文字通りの紙くずとなった。
自治制度(幕藩体制)
基本的に幕府は各藩の統治に介入することはない。各藩は独自に法令を定め領地を治めることになるが、大名に後継者が見あたらない場合、施政に不備がある場合には幕府からの介入を招くことになり、悪くすれば取り潰されることもあった。しかし、流石に大名に後継者がいなくなっただけで「藩」を取り潰すのはむやみに浪人を増やしたり、その地に混乱をもたらすなど悪影響が多いことから、後には「(その事実がなくても)大名が死ぬ間際に後継者を指名した」ので「藩」存続を許すという形で緩和された(末期養子)。
また、幕府天領は約400万石、直臣である旗本・御家人の領地を含めると700万石を越え、総兵力は「旗本8万騎」と号された(実態はもっと少なかったという説もある)。最大の加賀前田家でも100万石に過ぎない大名が数家同盟して挑んでも勝ち目はない。さらに大老・老中として幕府の権力を握った譜代大名達についても、自らの領国は最大の井伊家・彦根藩でも30万石前後に過ぎず、幕府を離れて独自の権力を振るうことは出来なかった。かくして大名反乱がない平和な時代が続くことになる(百姓一揆や打壊しなどは頻発したが)。
大名には、1年おきに領地と江戸を往復する参勤交代、幕命による土木事業のほかに、面目を保つための支出もあった。そして商品経済が発達すると、米を中心とした年貢に依存する武士の生活は、消費を収入で賄えなくなって行った。こうして各藩の財政は逼迫することとなり、各藩は財政再建のため倹約令を発したり新作物を開発するなどして工夫したが大抵は上手く行かず、財源確保のために借金を繰り返すこととなった。
学問・学校
幕府が設立した「昌平黌」を頂点として各藩で藩校が作られた。しかしながら、これらの学校で教えられたのは儒教・論語を中心とした東洋の学問であり、西洋学問が教えられたのは幕末に神戸に作られた「神戸海軍操練所」が最初で最後であった。
西洋の学問を教えたのは独学で洋学を学んだ佐久間象山、緒方洪庵らの私塾であった。彼らは自ら塾を経営して人材を育て、優秀なものが幕府や各藩に召し抱えられることとなった。
また、それ以外の塾も各地に散らばっていた。それらの塾は簡単な算盤、読み書きを教える「寺子屋」から、国学や心学、東洋医学を教えるもの、「和算」研究を行うものなど多岐に渡っていた(ちなみに、「和算」研究は世界でも有数の高度なものであり、明治になってそれを見たヨーロッパの数学者は驚愕したという)。
大名政策
親藩
徳川氏の一族、一門の大名であり、家格としては家康の9 - 11男を祖とする御三家(尾張・紀伊・水戸)、家康の次男・結城秀康を祖とする越前松平家、秀忠の4男・保科正之を祖とする会津松平家と続き、将軍の庶子などを祖とする大名がそれに続いた。
- 尾張徳川家…家康の九男・徳川義直を祖とする御三家筆頭。尾張62万石を領し、代々大納言に任じられた。分家として美濃高須藩3万石がある。
- 紀伊徳川家…家康の十男・徳川頼宣を祖とする後三家第2位。紀伊55万石を領し、代々大納言に任じられた。8代将軍・徳川吉宗、14代将軍・徳川家茂を輩出する。分家として伊予西条藩3万石がある。
- 水戸徳川家…家康の11男・徳川頼房を祖とする御三家第3位。常陸35万石を領し、代々中納言に任じられた。家格は尾張・紀伊に譲るが江戸常府を認められていた。後に15代将軍・徳川慶喜を輩出した(但し慶喜は一橋家へ養子に出ているため、形式上は一橋家出身将軍となる)。分家として讃岐高松藩12万石などがある。
- 越前松平家…家康の次男・結城秀康を祖として家格は後三家に次いだ。当初越前福井75万石を領していたが、秀康の嫡男・忠直は不行跡のために配流され、直ぐに秀康の次男・忠昌が50万石を領し存続を許された。後に徐々に減封され幕末には35万石を領することとなった。分家として美作津山藩10万石、出雲松江藩18万石、上野前橋藩17万石、播磨明石藩8万石、越後糸魚川藩1万石がある。
- 会津松平家…秀忠の四男・保科正之を祖として家格は御三家、越前藩に次いだ。正之は秀忠の庶子であったため、信濃高遠藩主・保科正光の養嗣子となる。当初は認知を渋った秀忠の死後、長兄・家光に引き立てられ出羽山形藩20万石を領していたが、陸奥会津藩主・加藤明成が圧政を行ったことにより領地を返上、正之が23万石で会津に入った。正之の死後、松平に復姓、幕末に至る。
- 越智松平家…六代将軍・徳川家宣の弟である松平清武を祖とする。上野舘林藩2万4000石から最終的に石見浜田藩6万1000石を領した。親藩ではあるものの、3代・武元が老中を務めるなど歴代当主で幕府の役職に就く者が多く、事実上譜代大名として扱われていた。
- 御三卿…8代将軍・徳川吉宗の次男・宗武(田安家)、3男・宗尹(一橋家)、9代将軍・徳川家重の次男・重好(清水家)にそれぞれ10万石を与え、将軍に男子がいない場合、御三家だけでなくこの三家からも次期将軍を選ぶことを期待して創設された。この施策により後に幕府は一橋家から11代将軍・徳川家斉、15代将軍・徳川慶喜を選ぶこととなる。
- 久松松平家…家康の異父弟・松平定勝を祖とする。そのうち次男・定行の伊予松山藩15万石と三男・定綱の伊勢・桑名藩11万石がそれぞれ田安宗武の子を養子としたことで、親藩となっている。
- 鷹司松平家…家光の正室・鷹司孝子の弟である松平信平を祖とする。上野吉井藩1万石を領した。なお信平の正室が徳川頼宣の娘であることから紀伊徳川家の分家にカウントされることもある。
譜代大名
徳川氏に古くから仕えて来た大名。与えられた知行は少なく10万石前後のものが多いが(最大でも彦根・井伊家の35万石)、特別に任じられる大老、常設の老中、若年寄ら幕閣は外様大名から選ばれることはなく親藩・譜代の大名から選ばれた。また譜代大名の多くは徳川氏の本拠である江戸や大坂など要地を中心に多く配された。
外様大名
関ヶ原の戦いを前後に家康に臣従・味方した豊臣家恩顧の大名や家康と対峙して敗れた同格の大名が大半である。 彼らの多くは江戸から遠隔地に配され、幕府から監視されるとともに幕命により土木事業を命じられることが多く、財政的にも破綻寸前に追い込まれていた。
関連タグ
お上:日本での政府側の大昔の渾名、徳川政権に対し呼ばれる。
徳川家:歴代将軍の一覧はこちらを参照。
公儀(こうぎ):江戸幕府のみならず、鎌倉、室町時代の幕府を呼ぶ際の名称(例:公儀隠密)
公辺(おおやけ):江戸幕府のみならず、鎌倉、室町時代の幕府を呼ぶ際の名称。