朝鮮王朝
ちょうせんおうちょう
朝鮮半島において高麗に次ぐ統一王朝であり、朝鮮半島最後の王朝。1392年から17世紀初頭までは中華王朝の明朝、それ以降は清朝の冊封体制下にあった。
国号は朝鮮國であるが、清朝の冊封体制から独立する1897年から日本に併合されるまでは大韓帝国を名乗り、今の大韓民国(韓国)と区別して旧韓国と呼ばれることがある。初期から滅亡に至るまで政治的な派閥抗争が常に絶えなかった。
1392年に全州李氏の出身だった武将李成桂が王位を簒奪し、明朝の洪武帝から朝鮮王に封ぜられたことで成立した。
第4代である世宗の時代に全盛期を迎える。明に加えて室町幕府とも通商条約を結んで国際関係が安定する。世宗は儒学と科学の振興に努め、特に庶民には難しく教育の妨げとなっていた漢字を改めてハングルを制定した事で名高い。
世宗に限らず、先代の高麗に比べると仏教よりも儒教が重んじられた。朱子学の理気二元論が伝わり、二つの流派に分かれて論争と発展を遂げた。李滉(李退渓、1501~70)は理を重んじ、徹底的な内省によって道徳的な理想像を求めた。彼の後継者は嶺南学派と呼ばれる。嶺南学派は江戸時代日本の朱子学にも受け入れられ、李退渓の著作が多く翻訳されて林羅山らにも影響を与えたという。これに対して李珥(李栗谷、1536-85)は気を重んじて合理的な整合性ある儒学を体系化し、さらに政治と経済への実践的な応用を重んじた。彼の後継者を畿湖学派と呼ぶ。
金属活版印刷が実用化されて、多くの実用書が刊行されるようになる。また工芸では高麗の青磁に代わって白磁が主流となった。その品質には定評があり、室町時代から安土桃山時代の茶道においても名器として珍重される。
16世紀末の文禄・慶長の役で朝鮮半島は明/朝鮮連合軍と日本軍(豊臣秀吉)の戦場になり、大きな被害を受ける。
17世紀に服属先を清朝に変え、1896年までの間に王は26代を数えた。
日清戦争後の下関条約締結に伴い1897年に国号を大韓帝国と改め、冊封体制から独立する。
大韓帝国は専制体制を維持しつつ近代化を図ったものの、日本の文明開化を模範に急進的な改革を進めようとした独立党(親日派)と、漸進改革派、守旧派の抗争が絶えず、ロシア、日本の介入もあって政治は混乱。日露戦争後は日本の保護国となり、日韓併合により1910年をもって王朝は事実上滅亡した。
最後の国王・皇帝を輩出した興宣大院君の子孫は日本の皇族に準ずる貴族階級である王公族として受け入れられ、それ以外の傍系皇族も朝鮮貴族・華族に遇され、1945年までこの地位は続いた。
朝鮮王朝最後の嫡流当主は21世紀初頭に日本で死去しており、それ以外でも日本の王公族と認められた嫡流子孫の大半は1945年以降日本に帰化しているか、米国などに居住している。
これには各人の事情もあるが、多くは再独立以後実権を握った李承晩(彼も朝鮮王朝の傍系の末裔とされる)によって王族の帰還が妨げられたからであり、後に韓国側に居を構えた人物も王朝末裔の活動と距離を置いている。現在の当主は、義親王李堈の庶子の子孫李源と、その叔母李海瑗によって争われている。