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朱元璋

しゅげんしょう

朱元璋とは、中国の明王朝(大明)の建国し創始者、太祖(洪武帝)とも呼ばれる。
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概要編集

放浪時代編集

1328年、濠州(現在の安徽省)の農家に、朱五四と陳氏の末子として聖誕。幼名を朱重八。


おりしも元朝末期の飢饉疫病で朱家は壊滅するものの、元璋(以下がこう記す)は寺に身を寄せ、托鉢で生き延びていたことから命拾いした。


1351年に白蓮教徒(南宋代から清朝まで存在した仏教系宗教、教義はマニ教と弥勒信仰が混合したものとされる)が紅巾の乱を引き起こした際、元璋は占いで参戦を決めて転戦生活に入った。


その時、郭子興と言う軍人の配下で戦った際に郭の養女であった馬氏をにし(これがのちの馬皇后である)、同じ庶民出身の将兵、例えば李善長などを味方につけて頭角を現した。


4年後にの郭が亡くなり、権力は彼の息子、彼の義理の甥へと三分割されたが、彼らは死亡したため、これをまとめ上げとその私兵集団を引き継いだ元璋は南京を支配下に置き、ついに群雄としてデビューした。

明朝の建国編集

それ以降、元璋は各地の群雄やモンゴル帝国(元朝)や他の群雄との戦いに奔走した。


1360年には鄱陽湖の戦いにて陳友諒(ほかの紅巾の面々とは独立して動いていた人物、長江中流域に勢力を持っており、大漢の皇帝を名乗った)の大漢国を打ち破り、1367年には呉王の座をかけて戦った張士誠(元はの密売人、反乱を起こし蘇州一帯を制圧するも、元朝に下ったりしている)を滅ぼし、白蓮教徒の名目上のトップであった韓林児溺死するなど運もあって淮南と江南を制圧したのだった。


このころより白蓮教とは手を切り、敵対するようになる。


1368年に南京(この時は応天府)で即位した元璋は、元号を洪武・国号をとして王朝を建国。


このころ、元朝が内乱状態となったため、好機と見た元璋によって名将・徐達が北方に派遣され、弱体化していた中原の防衛態勢は次々に破られた。


明の進撃を防ぎきれなかったモンゴルの15代皇帝であった恵宗あるいは順帝トゴン・テムルおよび将軍ココ・テムルらは首都である大都を放棄して草原へと逃げて行き、元朝は滅亡扱いとされ、明は失地恢復を果たした。


その後、中国南西部の四川雲南の独立勢力もことごとく平定、ついに元璋は一代での中国な統一を成し遂げたのだった。

統一後編集

彼の政治は、軍を皇帝の直属にする、宦官の学問禁止戸籍や土地の台帳制度を整えるなど、中央集権型の政策でもあったとされる。


また、元が農民であった元璋は、農民や零細商人など庶民階級を重んじる政策を出し、治水事業などを行っている。


一方、豪商および大地主などを抑え込み、弾圧する政策や、鉱山の国有化やを貨幣として用いることの禁止を行った。


また、官僚に関してもそれまでとは異なり、文字の獄と呼ばれる言いがかりに近い弾圧を行ったり、空印事件と呼ばれる役人の効率化の努力にダメ出ししたりしている。

晩年の粛清編集

後半生には血生臭い事件というか粛清が相次いで起こった。


元璋が物乞いをする僧侶盗賊の片割れだった過去への当てこすり(“僧”の字や、“盗”と同音の“道”)を疑われた者が処刑されたり(※1)、あらかじめ承認印を捺した書類を用いただけで役人が大勢殺されるなど、その厳格さは苛斂誅求を極めたものだった。


さらに忠臣胡惟庸(初期から彼に仕えていた武将、政治的に優れていたため丞相までに出世した人物、ただ他者を暗殺した疑惑がある)が日本北元と内通した容疑で処刑されその一派も粛清されたり、功臣であった李善長(この人物も初期からの武将であり、軍師として活躍しまた内政でも活躍した神撫でもあった)も「胡惟庸の罪を知っていたにもかかわらず報告しなかった」として事件の発覚から10年後に処刑するなど、有能な者や忠義な者も容赦なかった。


その理由として考えられることは、皇太子であった息子の朱標が心優しい性格だったことや、皇太子の息子であった朱允炆(2代建文帝)が幼かったために部下による簒奪を恐れた故と言う説がある。


こうして疑心暗鬼に駆られた元璋は粛清を繰り返し、それは彼が1398年に71歳で崩御するまで続けられたのだった。


  • ※1:有名なエピソードとしては「光天の下、天は聖人を生ず」という文章を書いた学者が処刑された、というものが有る。光=禿頭を連想させ僧侶だった過去への当て付け、生=文盲だった朱元璋が側近に問題の文章を読み上げさせた時に「僧」と聞き間違えた、という訳である。

評価、逸話など編集

  • 漢人が中原に中国王朝を建てたのは、南宋がモンゴルに倒されて以来だった。
  • 群雄時代都合よく近い人物が死亡するのは暗殺のためだ、という説も存在する。
  • 人物画が二通りある事で有名。
    • 教科書などでは体格の良い男性として描かれた図が使われる。
    • もう一つはウリみたいな顔をした図である。
    • これはどちらが実像を表しているのかは現代では不明となっているが、粉飾であるとも二重人格を表しているともいわれる。

洪武帝no title

  • 愛妻家子煩悩な一面があった。
    • 有名な「万単位の処刑」や「家族全員殺す」などの残虐行為が目立つのは特に晩年であり、それまでも何度か臣民への厳罰を行おうとしたが、愛息朱標とその母馬皇后が諫めており、この二人が生きていた時は諫言されて罰を思い留まったり減じたりしたが、母子ともに先立ったために元璋を止める者はいなくなってしまったとされる。
    • ただし、一族には疑いの目を向けなかったため、この粛清の結果王朝は弱体化し、結果意図とは逆に建文帝は叔父に反乱を起こされ、行方不明になる羽目に陥った。
    • 特に馬皇后との絆は非常に強く、常に心を開いていた。出世した元璋は側室を多く囲っても彼女を忘れることは無く、即位時には皇后として立后した。1382年に馬皇后が病気で亡くなった際、新たな皇后を立てることは終生なかった。
    • ちなみに倒福もこの二人がかかわっている。
  • 庶民出身の苦労人で、生活は至って質素を重んじたとされる。
    • 自らと階級が異なる貴族富豪、さらには儒者には冷酷なまでに厳格だったが、皇室へ高級茶を献上する習わしを禁じたりと、農民を始めとした民衆に優しい政治を心がけており、私利私欲に走る独裁者ではなかったとも言われる。
    • 先述したお茶以外にも、四菜一湯(4皿の料理と1種の汁物)と呼ばれる中華料理のスタイルを確立した会食を催したり、モンゴル人の目を盗んで月餅に密書を入れて反乱計画を練るなど、飲食物に絡むエピソードも多い。
  • 農民出身で天下を取った英雄だが、主として晩年の虐殺を繰り返した状況により、中国本土ばかりか、台湾日本でも毀誉褒貶が激しい。
  • 一方、杉山正明氏(歴史学者、京都大学名誉教授。日本におけるモンゴル帝国史研究の第一人者)など元璋を糾弾する研究者も少なくない。

関連イラスト編集

中國歷代帝王像 明

外部リンク編集

関連タグ編集

農民

漢民族

名君 英雄 救世主:農民などの民衆、貧困層から見れば。

暴君 独裁者:貴族や富豪、儒者などの富裕層からすれば。

豊臣秀吉劉邦:農民出身、一代で天下統一、糟糠の妻が女傑など共通点が多い。

蒼き狼と白き牝鹿Ⅳ:パワーアップキットで登場し、中華圏最高の能力を持つチートとして扱われる。

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