概要
1606年〜1647年。延綏鎮柳樹澗堡(現在の陝西省)出身。もとは軍籍にあったが法を犯して除籍された。1630年に王嘉胤が反乱を起こすと、米脂県にいた張献忠はこれに呼応し八大王を自称した。間もなく高迎祥の下に投じて東方へ進出し、山西省・河南省を転戦。
後に李自成との反目から高迎祥の敗死を招くも、黄河流域へ進んだ李自成と袂を分かち、長江流域へ攻め込み湖南省・江西省から四川省に侵入して独立勢力を形成。
崇禎10年(1637年)には明軍の総兵官の秦良玉の部隊の攻撃により、張献忠の軍は大きな損害を受け本人も負傷した。
一時は官軍に降り、1638年には襄陽府穀城県の副将となり王家河に駐屯したものの、1639年に再度明に対して反旗を掲げ、四川省との境界付近を転戦。1641年に襄陽を破り襄王朱翊銘を殺し、1643年に武昌を拠点として大西王を称した。
四川に入った張献忠軍は1644年8月9日に成都府を陥落させ、四川巡撫の龍文光・蜀王朱至澍、その妃らはすべて自決した。
張献忠は60万の大軍を称して四川省の大半を制し、8月15日には成都府に拠って大西皇帝を称し、大順に改元して成都を西京とした。大西政権は明朝の残存勢力も併呑し、明朝の官制に擬した官僚組織を有するようになった。この頃、布教のため四川に来ていたイエズス会宣教師のルイス・ブーリオとガブリエル・デ・マガリャンイスが張献忠の傘下に下った。
張献忠は以前より四川を離れることを考えていたが、陝西に移動するためには軍事的要衝である漢中の占領が必要であった。1645年には少なくとも二度にわたり、漢中の攻略を試みたが、当時漢中を占拠していた清軍にその都度敗れた。これを契機に張献忠が実行した政権内部の締め付けの強化は大変な抵抗を招き、四川各地で張献忠に対する反乱が勃発。こうした反乱は政権の内部崩壊につながり、政権上層部の多くの者たちが張献忠により殺害されることになった。
李自成を滅ぼして勢いに乗る清軍の圧迫を受けて1646年8月4日張献忠は四川を放棄し、陝西に向かうため、西京を離れたが、陝西に出ることなく、10月20日に塩亭県鳳凰山で粛親王ホーゲの軍勢と交戦中に射殺された。西京を離れた時に700人ほどだった大西軍はこの時わずか25人にまで減っていた。なお残党は張献忠の死後も抵抗を続け、1659年、重慶が陥落するまで清軍への抵抗を続けた。
四川省での虐殺
四川で起きたことは筆舌に尽くしがたく、検索してはいけない言葉と言ってもよい。
とにかくこの虐殺で四川人が絶滅寸前にまで追い込まれ、約600万人が虐殺されたといわれる。
張献忠が残した七殺碑に書かれた「天生萬物與人 人無一物與天 殺殺殺殺殺殺殺(天は万物を生み人に与え、人は天に一物も与えず。殺せ×7)」は死ね死ね団を地で行く、張献忠の苛烈さを表している(実際は伝説であり、碑文の内容も違った)。
600万人の虐殺は、ポル・ポトより遥かに多い数である。
しかし虐殺はどこまでが事実だったか?という研究もあり、清が蜀で行った虐殺を張献忠に押し付けたという見方もある。
張献忠というネットミーム
2021年ごろから、中国のインターネットでは「献忠学」というワードが無差別殺人を指すインターネット・ミームとして使われるようになった。
2021年6月ごろには中国において無差別殺人事件が多発し、その多くが社会に報復することを目的としたものであったことから、屠蜀のエピソードと関連して、これらは「献忠事件」と呼ばれるようになった。中国のネチズンの一部は、張献忠を無差別殺人によって社会に抵抗する下層市民の英雄とみなし、「献忠したい気持ちが高まっている」という風に無差別殺人をほのめかす者さえいるという。中国政府はこのミームを危険なものとみなし、他の中国のインターネットミーム(寝そべり族など)と同様に厳しい検閲の対象としている。
フリーライターの安田峰俊は、2024年6月に発生した蘇州日本人学校スクールバス襲撃事件や、同年9月に発生した深圳日本人男児刺殺事件といった日本人へのヘイト無差別殺人事件についても、この献忠ミームの影響を受けたものであると述べ、中国インターネットで蔓延する反日コンテンツを踏まえ、『どうせ「献忠」をやるならば、ネットでバズっている日本人学校の子どもを狙おうという変質者の動機づけが生まれやすい社会になっている』と評している。
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人智統合真国 シン・・・秦良玉が彼と思わしき「大西王」なる存在について語るシーンがある。