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出生からカンボジア内戦編集

1925年、または、1928年、現在のカンボジア・コンポントム州の富裕農の家に産まれる。兄であるサロト・スオン曰く、も殺せないような優しい子だったという。

フランス留学中に共産主義に目覚めフランス共産党に入党。帰国後、クメール人民革命党での活動を開始する。その後、クメール・イラサクに参加。1967年の武装闘争開始頃から中国共産党の支援を受け、毛沢東の影響を強く受けたとされる。


ベトナム戦争から4月17日編集

ベトナム戦争に中立的だったカンボジアだったが、戦争の余波を受け親米派政府軍(クメール・イラサク)とシアヌーク(ノロドム・シアヌーク)国王派(サンクム)による内戦に陥っていた。シアヌーク(ノロドム・シアヌーク)とクメール・ルージュは協力し、4月17日、ついに政権を奪還したが、すぐにクメール・ルージュ(カンボジア共産党)が政権を掌握。シアヌークを監禁。国名をフランス風の「民主カンプチア」に変更し、自らも「ポル・ポト」(Political Potencial:政治の可能性)と名乗る。やがて首相となり事実上のカンボジアの独裁者となる。


当時のカンボジア国民は内戦で疲弊していたこともあり、この新政権の誕生を歓迎する声が多かったとされる。しかし、それが完全な間違いであったことにやがて気付かされることになる......。


ポル・ポトの政治編集

原始共産主義編集

ポル・ポト政権の柱にして、ヨシフ・スターリンや毛沢東の共産主義を学んだ彼が、独自に発展させた社会思想。

簡単に言ってしまえば文明を捨てて原始時代に帰ろうというものである。

「原始時代に現代のような格差社会など無かった、ならば全ての文明や技術を捨て去って農業だけやればいい」という、超過激な思想である。

誰だこいつに共産主義教えたやつ…

そもそも「発展させた」とは言うが、その会議(正確には座談会レベル)に参加していたのは彼の仲間もとい友達複数人というド素人の集まりである。

そのためデメリットやツッコミ所、実現不可能性について指摘する者は皆無で行くところまで行ってしまった。

この歪な平等理念の下に、実に様々な人々が虐殺された。


  • 学者教師→原始時代にそんなものはないので処刑
  • 歌手→同上。知っている歌を全て歌わされ歌い殺される。仮に歌い切れても処刑。
  • 美男美女→不平等なので処刑。
  • 手が綺麗な人→農業をサボっているので処刑。
  • 文字が読める人→学問は不平等を産むので処刑。
  • 眼鏡をかけている人→頭が良い(?)ので処刑。

そのほかにも、銀行学校病院工場も全て閉鎖させ、貨幣制度すらも廃止。都市に住む住人を全て農業をさせるために地方に強制移住させる。

当然、農業のド素人が素手で育てる食料の量など高が知れているが、ポル・ポトはこれらを外貨獲得のために中国に輸出してしまった。

おかげで国民の餓死が相次ぎ、処刑を免れたところで命の保証はどこにもないという地獄であった。


このように、ポル・ポト政権の失敗は火を見るより明らかだった。しかし、幹部たちも彼の逆鱗に触れると処刑されてしまうため、都合の悪い事実をすべて握りつぶし、で繕った良い報告しか上げなかった。

それなのに政策が上手くいっていないことを知ると、彼は資本主義のスパイが潜り込んでいると思い込み、見境なしに処刑を重ねていった。


ちなみにポル・ポト自身はベンツに乗って国内各地を回っており、処刑には銃を使うこともあった。


原始時代からベンツや銃はあったのだろうか。


それ以前に原始時代にも狩りの優劣はたまた農作物の取れ高の優劣があったはずだが・・・


彼の夢想する原始とは一体どの場所のいつの時代にあったというのだろうか?


カンボジア大虐殺編集

共産主義の名のもとに、資本主義や知識層、旧体制を否定する苛烈な政策を行った。

国民に強制的な移住・集団生活・結婚・労働を課し、子供たちを家族から引き離して工場や軍隊で働かせた。

医師・教員・技術者・帰国留学生・対立派・僧侶などは徹底的に弾圧・虐殺。これは1976年の毛沢東の死により更に激化し、大多数の国民が殺された。後述のプノンペン陥落時には、国民の85%が14歳以下であった。なお、死者数は300万人にも及び、当時のカンボジアの人口800万人の内、3分の1を殺したことになる。当時の平均寿命も14歳という凄まじい数値であり、人口ピラミッドはまさにアンコールワットのような形状をしていた。

そのアンコールワットを筆頭に、宗教思想の禁止により多くの寺院・文化財も破壊された。


ただし、例外的に子供だけは優遇していた。その理由は

学が浅くて資本主義思想に染まっていないから

という、何とも見下したようなものであった。

そのため、労働者階級の要職を子供が担うことになり、工員や兵士、果ては医師までもが幼い子供の役割となった。文字通り無学な子供に手術までさせたが、結果がどうなるかは語るまでもない。


S21編集

ポル・ポト政権の大虐殺を象徴する強制収容所。地名から「S21(トゥール・スレン)」と呼ばれる。

原始共産主義の推進にあたり廃校にされた学校を転用したもので、名目上は政治犯の収容所だが、先述の通り実態は見境なしの処刑場であった。

ポル・ポトが台頭した2年9か月の間に14,000~20,000人が収容され、そのうち生き残ったのは僅か8人しかいなかった。つまり、収容された時点で処刑が確定していたのである。


収容された政治犯(とされる一般人)は、身に覚えのない罪を着せられた上で激しい拷問にかけられた。いくら否定しても聞き入れられることは無く、拷問が激化する一方であるため、最終的には死んだ方がマシと諦め、「私は資本主義のスパイです」などと宣言したという。

20,000人もスパイが紛れ込んでいる国があるだろうか、また(中国やロシア、アメリカなどの大国や日本の様な経済的な要所ならともかく)そこまでする価値のある国だろうか?という発想はポル・ポトには無かった模様。

現在では「トゥール・スレン虐殺犯罪博物館」として一般公開されている。


特筆すべきは、ポル・ポトはこれら全てを善意によって行っていたという事。彼はこれを続ける事で本当に完璧な、誰もが喜ぶ国が産まれると信じていたのである。




カンボジア・ベトナム戦争編集

1978年1月には隣国ベトナムに侵攻し、戦争となった(カンボジア・ベトナム戦争)が、ベトナムに亡命した反体制派(カンプチア救国民族統一戦線。KNUFNS。)がベトナムの支援を受けベトナム軍とともに反撃。

大人のほとんどを処刑してしまったカンボジアに抵抗できる戦力など無く、首都プノンペンはあっけなく陥落。ポル・ポトは政権を追われジャングルに敗走していく。コード87はこのころの暗号名である。


死去編集

1998年4月15日にクメール・ルージュ残党の立てこもる辺境でポル・ポトは死去した。和平に傾いた幹部を処刑して反感を買ったことで、晩年は部下に実権を奪われ、終身刑(軟禁状態)を受ける身であった。公式には病死とされているが遺体の爪が変色していたことなどから毒殺を疑われる。彼の政権下で行われた虐殺や長引いた戦争は今もカンボジア社会に大きな影を落としている。

諸外国の独裁者に比べると表に出ることをあまり好まず、贅沢などもしていた形跡が少ない。実際面会した相手にも「礼儀正しく誠実」と評される面もある。常軌を逸した大虐殺を行った真の理由は不明な部分が多いが、彼の妥協を許さない理想主義的な面、猜疑心の強さなどが理由として推察されている。彼の遺体は廃タイヤと一緒に焼かれ、作られた墓も非常に粗末なものだった。罪なき人々を虐殺し、国を内側から破壊し、それでも自分の正義を信じ続けた独裁者の最期は、非常に惨めなものだった。



その他編集

地雷編集

ポル・ポトは地雷を「完全な兵士」と賞賛し、国境付近にバラ撒いた。

通常、地雷を設置する際には埋めた場所を記録するものだが、無知と無計画を地で行くポル・ポト政権がそのようなことをするわけもなく、彼亡き後も自国民の脅威となった。実際に、知らずに踏んだり、玩具と間違えて爆破させ、四肢もしくは命を失う事故が相次いだ。

地雷撤去の技術が進歩した現在でも完全ではなく、いまだ農村部では撤去が完了していない。おかげでカンボジアは「地雷の国」というイメージを長く引きずることになった。


評価編集

世界中のあらゆる政治家の中でも、とりわけ無能という認識で一致している。

20世紀の独裁者でも、例えばスターリンや毛沢東が、亡き後もフォロワーを生んだのに対し、ポル・ポトは懐古再評価の対象になることがまず無い。

共産主義を根本から誤解していたのは勿論、この地獄の様な政治を善意で推進し、結果的に国民や文化財もろとも内側から国を壊滅させたのである。


語録編集

ポル・ポトによる子供たち向けに掲げたスローガン

「我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである。

したがって伝統的な形をとる学校も病院もいらない。貨幣もいらない。

たとえ親であっても、社会の毒と思えば微笑んで殺せ。

今住んでいるのは新しい故郷なのである。我々はこれより過去を切り捨てる。

泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。

笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。」

名前編集

サロト・サル編集

本名。サロット・サルとも。

「サル」はクメール語で白の意。中国的な白い肌であったことから父が名づけた。

khmaer da'em編集

ペンネーム。本来のクメール人の意。

パリ留学中に発行されていた内部機関紙Khemera Nisitの1952年8月号に寄稿した際のペンネーム。フランス、ロシアと第一次国共合作について述べた記事を書いた。

バン・チー・モイ編集

クメール・イラサク連合で独立闘争に加わっていたころの偽名。クメール語で長兄の意。

厳密に言うと次兄となるが、カンボジアには長男は悪霊が攫っていくとの伝承があり、長兄を次兄として悪霊を欺くという風習があるためである。

アン・ハイ編集

ベトミンに居た頃の偽名。ベトナム語で長兄の意。

バン・チー・モイとは違い、素直に長兄の意。

プーク編集

偽名。クメール語で緩衝材の意。詳細を忘れたので、わかる方、編集してください。

ポル編集

ポル・ポトの一つ前に使っていた偽名。政治の意。

ポル・ポト編集

前述のように、政治の可能性(Political Potential)の意。首相就任時に使い始めた。

バン・ポー編集

「一の長老」の意。使っていた時期を忘れたので、わかる方、編集してください。

コード87編集

ヘン・サムリン政権成立後に使ってた暗号名。主に文書に使われた。

コード90編集

コード87同様、ヘン・サムリン政権成立後に使ってた暗号名。主に文書に使われた。

なぜ偽名を使ったか編集

敵を欺くためである。実際、首相就任時、ポル・ポトが何者かわからずポル・ポト=ラト・サムーン説がでた。


関連人物編集

クメール・ルージュ関係者編集

キュー・サムファン:カンプチア共産党中央委員。国家幹部会議長。国家元首。

イエン・サリ:副首相兼外務大臣。次兄。義弟。

イエン・チリト:社会問題相。イエン・サリの妻。

キュー・ポナリー:民主婦人連合会長。ポル・ポトの妻。イエン・チリトの姉。

タ・モク:南西部地域書記兼党中央委員会常務委員。屠殺屋の異名をとる。

ソー・ピム:党中央委員会常任委員兼東部地域書記。国家幹部会第一副議長。拘束直前に自殺。

ソン・セン:国防担当副首相。銃殺後、トラックで轢かれた。

ヌオン・チア:副書記兼中央委員会常務委員。国会議長。存命。

ケ・ポク:北部地域司令官兼国防相顧問。

ラト・サムーン役職を忘れたので、わかる方、編集してください。イエン・サリの親友。

ペン・トゥオク:経済担当副首相。粛清。

ノン・スオン:農業委員長。粛清。

カン・ケク・イウ:S21所長。

ラト・サルーン:護衛隊長。

ルーン:料理人。嫌疑がかかっても粛清されないあたり最強かもしれない。

友人編集

ケン・バンサク:民主党の事務局長補佐。留学時代の友人。

ロン・ノン:イラサクの内務大臣兼外務大臣。高校時代の親友。

メイ・マン:高校時代の親友。

親族編集

サロト・スオン:兄。王宮で書記官をしていた。

サロト・ルーン:姉。モニヴォン王の側室。モニヴォン王を看取った。

サロト・チャイ:兄。クメール・ルージュのジャーナリスト。プノンペン占領直後に死亡。

サロト・ネプ:弟。父から家を継いだ。

ルク・クン・メアク:従姉。モニヴォン王の側室。シソワット・コサラックの母。

ミヤ・リム:後妻。

シット:娘。名前はカンボジアの昔話のヒロインから。

その他編集

ノロドム・シアヌーク:王。モニヴォン王を外祖父に持つ。

一ノ瀬泰造:写真家。カンボジア内戦を単独取材し、クメール・ルージュに捕まり処刑された。『地雷を踏んだらサヨウナラ』という言葉が有名。


関連作品編集


関連タグ編集

カンボジア 共産主義

独裁者 暴君 馬鹿

無能な働き者

地獄への道は善意で舗装されている 頭ネバーランド

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