概要
中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう、簡体字:中国共产党、繁体字:中國共產黨、読み:チョングォ・ゴォンチャンダン)は、中華人民共和国の政党。1921年7月に当時は中華民国が統治していた時代の上海で結成され、1949年10月に中華人民共和国が建国されてからは唯一の指導政党となり、国家の最高権力機関にして立法機関である全国人民代表大会(全人代)の絶対多数を占める。略称は中共(ちゅうきょう)だが、この呼び名は蔑称と取られる可能性がある。
1978年12月に改革開放が実施されるまでは労働者階級の政党とされていたが、2002年11月に私営企業家の入党が認められるようになるなど雑多な集団へと変質してきている。党は未だに共産主義という方針を放棄していないが、経済を優先した開発独裁の色合いが強い。現在の党内は必ずしも一枚岩で無く、内部には胡錦濤をトップとする共青団出身者の一団である団派・過去の高級幹部の子弟である太子党・江沢民に連なる集団の上海幇などの非公式な派閥の存在が疑われている。
歴史
黎明期
1921年7月に中華民国の統治下にあった上海にて結成された。当初はコミンテルンの影響が強かったとされ、中華民国の一部を支配していた国民党政府と対立・協力を繰り返しながら、党と農民武装集団は勢力と知名度を増していった。
1923年6月に毛沢東は党中央の運営に参加するようになり、1931年11月に江西省の瑞金に中華ソビエト政府を建国し、毛は臨時政府の臨時主席(臨時元首)となった。しかし国民党の軍隊である国民革命軍の攻勢に敗北して1年で崩壊し、毛が率いる紅軍は中国各地に中華ソビエト地区と称する支配地域を設立しながらしぶとく勢力を維持した(長征)。
1936年12月に軍人の張学良・楊虎城によって、蒋介石が西安にて拉致・監禁した西安事件が発生してからは国民党と協力体制を築き、当時大陸の一部を占領していた日本軍に対して共闘した。1937年7月に開戦した日中戦争では毛沢東思想によって農村などの地域共同体と一体化していた八路軍は兵站の確保を容易にし、人民の海に紛れての隠密活動と神出鬼没のゲリラ戦を得意とした。
これに対抗するべく日本と同盟する汪兆銘政権は、地域組織である新民会などを組織して同様の民衆工作に取り組んだが効果は限定的であった。蒋介石が指導する国民党軍(重慶軍)はアメリカ・イギリスの援助で装備が優れていたものの、兵力の温存を理由に日本軍との正面決戦を避ける傾向があったので中国人民の支持を失っていた。蒋介石が兵力の温存に執心したのは抗日戦の後の共産党との決戦に備える為であったが、この方針は裏目に出て国共内戦での劣勢を招いた。国民党を支援していたアメリカも蒋介石に不信感を抱くようになり、蒋介石との関係が悪化したスティルウェル軍事顧問は解任されている。抗日戦での活躍を中国人民に大きく印象付ける事に成功した八路軍は、その後の国共内戦でも大衆の支持を集めて戦況を有利にしている。
1945年8月に国共内戦が開戦した時には、大陸部分に残留して八路軍の入隊を希望する日本の軍人も少なくなかった。当時の八路軍はその軍紀(三大紀律八項注意)の遵守が評判になっており、日本人の捕虜を厚遇して寛大に扱っていたという伝聞もあったので、八路軍に好意的な感情を持つ日本軍の将兵が少なからず居た。支那派遣軍に勤務していた昭和天皇の弟君である三笠宮崇仁親王も八路軍の軍紀に魅了されており、これはソ連の赤軍との大きな違いであった。特殊技能を持つ日本軍の将兵(航空機・戦車などの機動兵器・医療関係)の中には長期の残留を求められて帰国が遅れた者も居た(気象台勤務であった作家の新田次郎など)。また聶栄臻のように戦災で親を亡くした日本人の姉妹に、自ら直筆の手紙を持たせて日本へと送るよう配慮した人物もいた。
1945年6月に毛は党主席に就任し、同年8月に日本がポツダム宣言を受諾して日中戦争が終了したと共に、日本軍が大陸から撤退すると再び内戦状態となる。しかし共産党に対する戦後のアメリカの協力と、国民党が戦後の統治に失敗して国民の信頼を失った事もあり、1949年12月に国民党政府とその残党は大陸部分から放逐されて台湾島に逃亡した。
1949年10月に毛沢東が率いる共産党とその友党などは、ユーラシア大陸の東岸に中華人民共和国という世界で3番目の社会主義共和国を成立させた。当初は中国の諸政党と連携した政府だったが、その後は共産党一党で1国を主導するようになった。1947年10月に建国に協力した紅軍・国民革命軍新四軍・国民革命軍第八路軍などが統合し、現在まで続く中国人民解放軍として創設された。
新中国時代
建国当初の共和国は新中国とも呼ばれ、当初は農地改革(地主が所有していた土地を農民らの共同生産組織である農業合作社などに移管)などが推し進められたものの、比較的穏健であったとされる。1952年6月に社会主義への移行を目指し、ソ連に習って社会主義建設が実行され、1954年9月に全国人民代表大会が設立されると共に新たな憲法が成立した。同月に毛沢東が国家主席に就任し、反対する者を粛清して毛による独裁に近い政治システムとなり、農村ではそれまでの農業合作社に行政権能を統合した人民公社の組織が推し進められた。
しかし毛が主導する大躍進政策が科学的では無かった上に、地域の指導者は粛清を恐れて正確なデータを出さなかったので失敗し、数千万人とされる餓死者を出した。これによって毛は一旦政界を引退し、劉少奇国家主席と鄧小平党総書記が政治を主導するようになる。ところが復権を目論んだ毛は紅衛兵らを扇動し、1966年5月に文化大革命(文革)を引き起こしてしまう。
1976年9月に毛沢東が党主席のまま死去し、後継の最高指導者となった華国鋒は当初鄧小平を批判して文化大革命の継承を表明していた。しかし同年10月に四人組を逮捕し(北京政変)、文化大革命を収束させて鄧小平も復権を果たした。
改革・開放
四人組批判運動が広がっていく中で文化大革命の色合いが残る政治家だった華国鋒は、1978年12月に実権を鄧小平に奪われる。鄧は文化大革命を誤りと総括し、中国の事実上の最高指導者である中央軍事委員会主席として胡耀邦(総書記)・趙紫陽(国務院総理)とトロイカ体制で改革を推し進め、人民公社は一部を除いて解体されて従前の郷政府制が復活した。沿海部には経済特区を設置して外資の積極導入などの改革開放路線を推し進め、国営企業には自主権が与えられ、経営の主体である工場長に大幅な経営権を付与する工場長責任制が採られた。
1987年1月にソ連でミハイル・ゴルバチョフがペレストロイカを実施した事は共産党内にも波紋を与え、中国でも西ヨーロッパ型の政治制度が導入されるのを期待する声が強まっていった。改革派の立場を取っていた胡耀邦は民主化に理解を示していたが、鄧小平は「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない。」などとして否定し、同月に胡耀邦を辞任に追い込んだ。
六四天安門事件
1989年4月に胡耀邦が死去してからは、天安門広場で学生・労働者・市民による大規模な追悼集会が開催された。この集会は民主化を求めるデモに変わり、中国各地に飛び火して一部で警官隊・学生との衝突に発展した。党指導部は国営テレビなどの報道機関を使って事態を沈静化するように呼びかけると共に、趙紫陽は学生の改革要求に理解を示す発言をする事で事態の収拾を試みた。
時は東欧革命の真っ只中で、デモを起こした学生側は東ヨーロッパ諸国と同様に中国が一党独裁制を放棄する事を求めていた。党指導部は政治改革を主張する趙紫陽ら改革派と、強硬的な鎮圧を主張する李鵬国務院総理ら保守派に分かれて真っ向から意見が対立していたが、鄧小平の考え方は保守派寄りだった。一時は改革派への歩み寄りを窺わせる発言をしていた鄧小平だったが、結局は武力弾圧を決断し、6月3日の夜中から6月4日の未明にかけて、李鵬の指示で党軍が広場に突入し、デモに参加した学生らに多数の死者を出した。同月に趙紫陽は失脚し、党は経済の開放は進めても政治の自由化は進めないという路線を明確に示す事になった。
この事件は中国に民主化を期待していた西側諸国に多大な波紋を投げかけ、一時経済制裁が敷かれて改革・開放の停滞をもたらしたが、日本は「中国を孤立させない。」として融和的対応をとる方針をいち早く決め、アメリカ合衆国などもこれに同調して制裁は徐々に解除されていった。
江沢民・胡錦濤時代
鄧小平は第2次天安門事件の後に一切の役職を退き、党総書記に抜擢した江沢民に党中央軍事委員会主席の座を譲った。1993年3月に江沢民が実質名誉職であった国家主席を兼務してからは最高指導者が党総書記・国家主席・党中央軍事委員会主席を兼任するのが慣習となり、権力の一元化が確実になった。1997年2月に鄧小平が死去し、江沢民・胡錦濤によって引き続き改革・開放路線が継承された。この間に中国は平穏な統治が続き、経済発展は目覚しいものであった。
習近平時代
2012年11月に習近平が後継の最高指導者になり、党員の綱紀粛正を強力に進めたが、汚職などを名目に幹部の投獄・処刑・個人財産の剥奪が相次いだ。党では毛沢東に対する熱狂的な追従が文化大革命の悲劇を生んだ反省から最高指導者の個人崇拝は影を潜めていたが、習政権で公然と復活して従来の党の集団指導を撤回し、個人独裁に近いシステムを志向していると見られている。2022年10月に習近平が3期目の党総書記に就任し、7人の最高指導部は全員が習に近い者たちで占められた。
入党
日本では全ての中国人が共産党員で、それが義務だと思っている人が居るかも知れないが、実際はそうではない。党員になるには厳格な審査があり、本人が望んだとしてもなれない場合が多い。党員資格を得られるのは18歳以上で、中国の数え年で高校2年生から入党できるが、実際には大学に入学した後の人が多い。一応教師から推薦されるなどもあるが、基本的には自ら立候補する。
中国では共産党員になる事はステータスと捉えている人が多く、入党自体が難しいので、それだけでも成績が優秀な者・人格者という証明になる。入党するには申請書・論文・党員の推薦状などの書類が必要で、これらを揃えたら党規約を学んで学生会議にかけられる。成績が優秀である事は大前提だが、その上で人柄・リーダーシップ・日頃の素行などを総合的に審査され、最終的にはクラス・学年の公平な選挙によって選出される。その為たとえいくら成績が優秀であっても、同級生などから信頼されないような者は選出されないという。
選出された後は大学内にある党の組織で一定期間教育を受け、正式な党員になるまでには2年ほどかかる。中国では党員が3人以上居る企業は党支部を設置する規定があり、現在では党支部の組織率は国有企業で9割以上・民間企業で5割以上と言われる。ちなみにアリババ・テンセント・ファーウェイなどの大企業や、ある程度規模が大きい日系などの外資系企業にも存在する。
国有企業のトップは党員である事が義務付けられており、民間企業でも以前は出世する為には入党が必須だと言われていた。しかし近年では日本の労働組合などと同じように形骸化が進み、党員というだけでは必ずしも出世の早道になる訳では無い。国有企業の従業員でも党員では無い人は大勢おり、その状態で勤務を続けても日常の業務には何も支障は無いが、公務員の場合は党員であるか否かが昇進に影響する場合もあるそうだ。
権力構造
1954年9月に施行された憲法には「中国共産党の指導の下における多党協力及び政治協商制度」と明記されているが、実際には国内に存在する政党である民主党派と呼ばれる組織は全て傀儡(衛星政党)に過ぎない。中国には全国人民代表大会(立法府)・国務院(行政府)・最高人民法院(司法府)があるが、民主主義国の多くで見られる3権分立の原則はほぼ存在せず、実質的には党内の最高指導集団たる中央政治局常務委員会の影響下に置かれている。
中国の最高指導者は党首に相当する党総書記・大統領に相当する国家主席・党軍のトップである党中央軍事委員会主席を兼任する。権力の源泉は国家主席のポストであるかのように思われがちであるが、歴史的には権力の源泉とも言える軍事力を束ね、毛沢東と鄧小平などのように党中央軍事委員会主席に就く人物が最高指導者として振る舞った。
この時期の国家主席にほとんど政治的な権限は存在せず、イタリア・ドイツの大統領に近い事実上の名誉職であった。しかし国家主席・党総書記・党中央軍事委員会主席のそれぞれに別の人物が就任する事が政治的な混乱の要因となり得る事は、実際に歴史が証明している事でもある。こうした事もあってか、1993年3月に江沢民が国家主席に就任した後は1人の者がこれら3つの役職を兼任する事で、名実共に1人の者に権力が集中するシステムを確立するのが慣習となっている。
2012年11月から最高指導者である習近平は、国家主席にして党中央委員会総書記・党中央軍事委員会主席である。最高国家行政機関である国務院のトップは国務院総理であり、国家主席に任命されて全国人民代表大会で選出される。かつて毛沢東が就任していた党中央委員会主席は過去の文化大革命の反省で廃止されたが、習近平政権で復活する可能性が取り沙汰されている。
党綱
この政党の規約には以下の事項が記述されている。
文章 | 備考 |
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中国共産党は『中国労働者階級の前衛部隊』『中国人民と中華民族の前衛部隊』『中国の特色のある社会主義事業を指導する中核』『中国の先進的生産力発展の代表』『中国の先進的文化前進の代表』『中国の最も広範な人民の根本的利益の代表』である。 | |
党の最高の理想と最終の目標は共産主義を実現することである。 | |
中国共産党はマルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論と「三つの代表」という重要な思想を自らの行動の指針とする。 | |
〈マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論と「3つの代表」という重要な思想〉は共産主義者が長期に渡って堅持し、終始一貫しなければならない。 | |
我が国は現在、そして長期に渡って社会主義の初級段階にある。 | この後も『・・・~指導し』が延々と続くので割愛する。また2017年10月に習近平思想が追加された。 |
余談
- 1958年5月に開始された大躍進政策では、原始的な溶鉱炉を用いた製鉄・スズメなどの害獣駆除・集団農業化した人民公社や、現代では誤りとされているが、社会主義共和国では一時期もてはやされたルイセンコ主義による農業生産を実行した。
- 四人組は四人幫・文革四人組とも呼ばれ、メンバーは毛の4番目の妻江青、毛に気に入られていた張春橋、革命のトリガーを作り出した姚文元、革命で頭角を見せた王洪文である。
- 四五天安門事件は四人組と鄧小平の権力争いと誠実に問題に取り組んだように見え、国民にも人気があった周恩来が死亡した。更に四人組に対する民衆の非難が高まり、さらに彼の追悼を名目に天安門広場で群衆が集い、避難活動も行われた。四人組はこれを武力で取り締まり、多数の逮捕者を出した(犠牲者に関しては当局は否定している)。この事件の責任を問われて鄧小平は失脚することになるが、その後復活した。
- 防空識別圏の設定は旧ソ連の防空識別圏・旧東ドイツの識別圏などが存在し、空域を飛行するあらゆる国の航空会社などが飛行計画を提出しなければならないというもので、未提出ならスクランブルで撃墜されても文句が言えない。当然中国は設定したので航空計画を提出する必要があるが、その中に中華人民共和国とその他の複数国が領有権を主張する尖閣諸島などにも識別圏を設けたのが日本・アメリカの反発を呼び、中国に識別圏を解除するように要求する事態となっている。特に日本は大手航空会社に飛行計画を中国に提出しないよう呼びかけている。
- 彼らを称して天朝と呼び、つまりこの政党を朝廷とみなす皮肉が存在する。
- また、先に記述した六四天安門などの検閲を揶揄し、サイバー天安門と呼ぶことがある。
- 中国共産党は世界第2位の党員数を誇っており、2022年12月時点で9804万1000人と世界の政党の中では屈指の大きさである。ちなみに世界一党員数が多いのはインド人民党(1億1000万人)である。