概要
昭和12年7月の盧溝橋事件を発端として、中国国民党軍(国民革命軍)と大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍との間で行われた戦闘。中国国民党を旧ソ連及び米国が支援した。昭和16年12月8日に太平洋戦争が勃発するまで、日中共に正式な宣戦布告を行わなかったため、当時の日本では支那事変と呼称した。
これにより昭和15年に開催予定であった1940東京オリンピックは中止となった。日本は国際連盟を脱退し、世界から完全に孤立。遂にアジア・太平洋戦争に発展してしまう。
昭和20年8月15日、日本敗戦で終結。国民党軍も疲弊し、昭和24年には中国共産党に中国本土を制圧されることとなる(中華人民共和国建国)。
賠償問題は、昭和47年の日中共同宣言を経て、昭和53年の日中平和友好条約で、最終的に解決した。
戦争背景
日本側
日本は1927年の金融恐慌、さらに1929年の世界恐慌の影響で経済不況が深刻となる一方、財閥の形成が進み、政党政治も行き詰まる中、1931年9月の満州事変で中国への侵略を開始しており、事実上の中国との戦争は始まっていた。さらに旧日本軍は1932年1月28日に第1次上海事変も起こし、その侵略行為に対する国際的非難が強まった。
国内経済行き詰まり打破を海外市場拡大に求める動きに押されて、軍部は満州の権益を内蒙古や中国北部に拡大しようとしたが、中国側の抵抗も強くなって行った。
満州事変を主導した関東軍は満州を日本直轄領としようとした当初の構想を転換。清朝最後の皇帝・溥儀をお迎えし、執政とする満州国を1932年3月1日に建国した。独立国とはいえ、実質的な日本傀儡国家であり、大陸進出の足場となって行く。国内では満州国建設に消極的であった犬養毅首相が旧海軍軍人に殺害されるという五・一五事件が起こり、日本の政党政治が終わりを告げた。
日本は、国際連盟が派遣したリットン調査団によって満州国樹立が否定されたことを理由に、1933年3月に連盟を脱退。
国際的孤立を深めながら満洲の権益を守るために隣接する満蒙や北支に勢力圏を伸ばそうとして、熱河作戦を展開していたが、蔣介石は中国共産党との内戦を優先して日本に対する抵抗をほとんど行わず、同年5月には日本との停戦協定が成立した。
1935年に日本は華北分離工作を進め、冀東防共自治政府を成立させるなど、中国本土の割譲を強く迫った。それに抵抗する中国に対して、日本国内の世論は満蒙問題の解決のため「中国政府を懲らしめろ」といった論調が強まって行った。
そのような中で1936年、二・二六事件が起こった。
反乱軍は首相官邸などを襲撃、岡田内閣は倒れたが、昭和天皇は反乱軍を非難、旧陸軍統制派は体制維持のために動き、反乱は鎮圧された。それを契機に統制派旧陸軍幹部が政権中枢を支配する軍部ファシズム体制が出来上がり、政党政治は完全に終わりを告げ、軍部内閣が日本を導くこととなる。
1936年7月7日夜、盧溝橋事件発生。日中戦争開戦となる。
中国側
中華民国では、1928年の張作霖爆殺事件によって旧軍閥の張学良は国民政府蒋介石政権への協力を表明していた。
1931年の満州事変に対して、全面的な抵抗は出来ず、1933年に塘沽停戦協定を結んで妥協した。その後も蔣介石政権は中国共産党との内戦を優先して日本に対する抗戦らしい抗戦を行わず(「安内攘外」といわれた)、満州国建国とその後の冀東防共自治政府成立などを許していた。
それに対しては中国共産党はコミンテルン第7回大会の決議に従って1935年7月八・一宣言を出し抗日統一戦線結成を呼掛けていた。同年12月には北京で日本に対する大規模な抗議運動である十二・九学生運動が起こった。運動に立ち上がった学生は、当時満州から追い出される形で西安に移り、共産党軍と戦っていた張学良の東北軍兵士に、盛んに内戦停止、一致した抗日の戦いを働き掛けた。
1936年12月、張学良は、西安に督励に来た蔣介石を軟禁。共産党との内戦停止、国共合作を強く求めた。蔣介石はやむなく国共内戦を停止した。この西安事件は中国情勢を大きく変化させることになった。蔣介石は内戦の停止には応じたが、直ちに国共合作復活を認めた訳ではなかった。しかしこれをキッカケに国民党と共産党の非公式交渉が盛んに行われる様になった。
経過
日中両軍の軍事的緊張が高まる中、1937年7月7日に北京郊外で両軍が激突、盧溝橋事件が起きた。準備を整えていた旧日本軍は本格的な軍事行動に入ったが、当初は日本政府は不拡大方針を表明した。しかし、8月13日に第2次上海事変に飛び火。当初は北支事変といっていたものを支那事変と名付けた。上海での両軍は多数が犠牲となる本格的な戦争であり、日中戦争開戦となった。
日中戦争勃発を受けて中国国民党と共産党は、同年9月に第2次国共合作で合意し、国民党軍と共産党軍は抗日民族統一戦線を結成。一致して旧日本軍侵略に対して戦うこととなった。共産党指揮下の紅軍は国民党軍に編入されて八路軍(バーローぐん)と称し、抗日戦の主力となった。
また蔣介石は、同年8月に旧ソ連のスターリンとの間で中ソ不可侵条約を締結、協力して日本の軍事進出に対抗する態勢を作った。ソ連からの提案を蔣介石は警戒心を払拭できないでいたが、軍事援助の緊急性、日ソ開戦の可能性もあることから受け入れ、それ以後ソ連からの多額の借款、パイロット派遣を含む軍事支援を受けることとなった。一方米国はハル国務長官名で日中双方に停戦を呼びかける声明を発表したが、調停への具体的動きは見せなかった。
同年12月、旧日本軍が南京を占領。その際市民を含む殺戮行為があり(南京虐殺事件)、国際的な非難を浴びた。
翌1938年1月16日、近衛文麿内閣は「国民政府を相手とせず(第1次声明)」と表明し、蔣介石政権との講和交渉を打ち切った。国内では同年に国家総動員法制定など、国民生活を犠牲とした戦時体制が取られることとなった。
戦線拡大に伴い戦争は長期化、持久戦を強いられた旧日本軍は、同年3月には徐州作戦を開始、それに対して国民党軍は退路戦術を取り、黄河を決壊させて洪水を起こして旧日本軍進撃を阻止しようとした。洪水によって多数の農民が命と土地を失った。さらに戦線を華南に転じ、同年10月には広州を占領し、さらに長江中流の武漢三鎮を攻略した。この武漢攻略戦で、旧日本軍は毒ガスを使用した。
翌1939年、ノモンハン事件が勃発、日中戦争は長い停滞期に入った。
日本軍は次第に侵略のモチベーションを失いつつあった。
毛沢東は持久戦を主張し、旧日本軍を疲弊させた。
本人曰く「日本は点(都市)と線(鉄道)の支配に過ぎない。中国は広大であり、広さを利用して長期戦に持ち込めば必ず勝てる」。
1945年8月15日、日本は降伏しポツダム宣言を受諾。
この後に中華民国と中国共産党の戦いがあり、勝利した中国共産党は1949年中華人民共和国を設立した。
関連人物
関連作品
映画
漫画
ドキュメンタリー
- 映像の世紀
- NHK:日本は何故戦争に向かったのか?
使用兵器
旧日本軍
中国軍
- 五十発7.63モーセル彈短機関銃…四川軍閥開発
- 向応式半自動小銃…八路軍開発
関連タグ
- 済南事件…1928北伐中の蒋介石と、山東省に出兵した旧日本軍が軍事衝突した事件。日中戦争の前哨戦とも。
参考
- 世界史の窓
- ウィキペディア