人物
清朝王族・粛親王善耆の14番目の王女として生まれた。本名は愛新覺羅顯玗(あいしんかくら けんし)。
西欧列強によって崩壊状態にあった清朝再興をさせるため、善耆の親友である日本軍軍人・川島浪速の養女となり長野県松本市で日本人として暮らし、名を「川島芳子」とした。学校へはいつも馬に乗っての通学をしていた。
1924年に自殺未遂をし、突如髪を切り男装をするようになった。この時新聞に決意書を送ったため、取材が多く訪れて世間に知られ、「男装の麗人」と呼ばれるようになった。自殺の原因は浪速から性的虐待を受けたためと言われる。
一時はモンゴル族の男と結婚するも家出し、関東軍軍人の田中隆吉と交際するようになり、諜報員として活動し、太平洋戦争の裏で暗躍した。
1931年に満州事変が起こり満州国が建国され、清朝皇帝溥儀が満州へ脱出。この時芳子は溥儀の皇后を満州へ脱出させた。また上海事変のきっかけとなる日本人僧侶襲撃事件を引き起こしたといわれる。
自警団の総司令になった彼女の存在は日本と満州のマスコミに知られ、村松梢風が小説『男装の麗人』の題材にもし、「東洋のマタ・ハリ」「東洋のジャンヌ・ダルク」などとまで呼ばれた。また日本人であった歌手・李香蘭(本名、山口淑子)とも親しくなった。
その一方で日本や関東軍を批判する言動もあり、日本側当局から睨まれてもいた。
1945年、日本が敗戦となり満州も消滅し、中国国民党から日本側の協力した「漢奸」として逮捕され、国共内戦の中で死刑に処せられた。(当時の中華民国の法律では国籍の変更が不可能だった為、戦後の裁判において「日本の法律上では日本に帰化していたとしても、中国の法律上では中華民国籍のままである」との判断が行なわれ「外国人が自国を含む中国以外のいずれかの国の為に中国国内で中国に敵対的な諜報活動を行なった」罪よりも重罪となる「中国人が外国の為に中国に敵対的な諜報活動を行なった」罪=漢奸により有罪判決を受けた。ただし、これは「日本側での帰化手続きが行なわれていたとしても、中国の国内法では中国国籍者として扱わざるを得ない」というものであり、当該裁判では日本に帰化していたという十分な証拠が提出されておらず、そもそも、養父母が日本への帰化手続きをちゃんと行なっていなかった可能性も有る)
また生存説も囁かれているがいずれも確証はない。中曽根康弘が訪中し周恩来へ川島芳子の居場所を聞いたとき、周は人差し指を口に置いて「その話はそれ以上しないように」と口止めしたという。
よくある「男装した美しい女性」「女性軍人」「謎多き女スパイ」など多くのイメージを持った代表として日本では根強く人気がある。
辞世の句
『家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん』