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ジャンヌ・ダルク

じゃんぬだるく

イングランド王国と戦った「百年戦争」のフランスの国民的英雄、カトリック教会の聖女(聖人)。
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概要編集

百年戦争後期のフランスの国民的英雄。イングランド軍に包囲されていた都市オルレアンを解放した功績から、「オルレアンの乙女」とも呼ばれる。

(仏: Jehanne Darc, Jeanne d'Arc)



史実に伝わる『ジャンヌ・ダルク』編集

生誕と啓示編集

復権裁判による資料によると、1412年1月6日生まれ。フランスの片田舎であるロレーヌ地方のドンレミ村に生を受ける。ジャンヌの生家は20ヘクタールほどの農地を持ち、父は租税徴収係と村の自警団団長を兼ねる、いわば村の幹部の一人であった。


当時のフランスは1337年に勃発した百年戦争の中、イングランド軍の焦土作戦と貿易封鎖により経済的な打撃を受け、また黒死病の流行で人口が激減するという危機的状態にあった。

そして国内の貴族は国王派(アルマニャック派)とイングランドをバックに着けたブルゴーニュ公派(ブルゴーニュ派)に分かれて争っていたが、ジャンヌが生まれ育ったドンレミ村は、地理的に周囲をブルゴーニュ公領=ブルゴーニュ派に取り囲まれ、孤立したアルマニャック派であり、何度も焼き討ちなどの被害にあっていた。この状況からくる焦燥感が彼女を駆り立てたともいわれる。


12歳のころ、初めて「天の声」を聞いたジャンヌは、「王太子シャルルを王位につかせよ」という啓示を受ける。王太子シャルルは、既にフランス国王シャルル7世を宣言していたものの、その権威は弱く、ブルゴーニュ派からは無視されていたのである。


1428年、16歳になったジャンヌは啓示に従い使命を果たすべく、親類の助けを得て、まずはヴォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに面会を求めるが、冷笑とともに門前払いされてしまう。

しかし、ジャンヌはめげずに翌1429年に再訪、ボードリクールの従者ジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プレンギの協力により面会にこぎつけ、その場で「ニシンの戦い」におけるフランス軍の敗北を予言する。前線からの知らせでその結果が正しかったことを知ったボードリクールは驚愕し、シャルルの王宮があるシノンへの訪問を許可する。

なお、このときド・メスは旅路での危難に備えて、ジャンヌに男性の衣服を提供したという。


臣下から一足先にジャンヌからの手紙を預かったシャルルは、ジャンヌを試そうとわざと王の椅子に影武者を座らせ、自身は貧相な格好をして一般人に紛れ込む。ジャンヌはこれを見事に見破り、シャルルとの謁見を掴み取った。


謁見の際に二人きりになることを望んだジャンヌによって、シャルルは自身がフランス王となることを告げられ、その"証拠"を見せられ驚愕することとなる。残念ながら、この証拠についてはジャンヌもシャルルも一切資料となるものを残しておらず、現在も謎のままである。

とはいえ、シャルルを説得するに値するその"証拠"により、ジャンヌはシャルルの信用を勝ち取る。

聖職者たちも疑心暗鬼であったが、ポワティエでの3週間にわたる審査の結果、彼女を信用するようになる。


オルレアンの奇跡編集

1429年4月、シャルルの親族から軍装と軍備一式を与えられたジャンヌはフランス軍に加わり、ジャン・ド・ジュノワアランソン公ラ・イル、そしてジル・ド・レェとともにロレーヌ川沿いの都市オルレアンへ向かって出発、そこでイギリス軍と激突することとなる。

この戦いでジャンヌは左肩をで射られる重傷を負うも、命に別条はなかった。しかし、やはり十代の少女ゆえに戦場には慣れておらず、この怪我で不安から泣きだしてしまうという場面もあった。


また彼女は人を殺すことを嫌い、好んで持ちとなったが、常に先陣を切って突撃し、部隊を牽引しながら鼓舞することから絶大な士気高揚効果をもたらしていた。

こうしてジャンヌとフランス軍の勇士たちによって、7ヶ月にわたる包囲網からオルレアンを解放することに成功する。


シャルルの戴冠編集

その後、ジャンヌはロシュ城にいたシャルルにランスにて戴冠式を行うことを進言する。これは、トロワ条約により1422年にフランス王位を得たとするイングランド王ヘンリー6世に対抗するため、強い権威を持つノートルダム大聖堂で戴冠式を行う必要があったからである。


だがランスに辿り着くにはイギリス軍を突破する必要があり、反対意見も強かった。それでもフランス王家伝統の場での戴冠は、フランス復権を示すまたとない場であったため、シャルルはジャンヌの進言を受け入れる。


途中、立ち寄った都市を次々と傘下に加え、「パテーの戦い」にてイギリス軍を突破して大勝利を収める。そして同年7月17日ノートルダム大聖堂にてシャルルは戴冠式を行い、正式にフランス王シャルル7世となった。


孤立、そして火刑へ……編集

神託による使命を全うし、カリスマ的人気を誇ったジャンヌだったが、首都パリ奪還なしに真のフランス復活はないと考えるジャンヌ派と、現状に甘んじる国王側近たちとの対立となり、次第に宮中で孤立していくことになる。


当時の戦争とは、領土と物品の流通権を獲り合う「経済活動」という側面もあり、シャルル7世や貴族たちからすれば、大きく領土を奪還できただけでも十分な成果と言えた。しかし農民の出身で“愛国者として”戦うジャンヌには、そうした政治的な裏話など理解の外であり、政治的な打算に甘んじる上の意思は腑に落としようもなかった。


そして1430年5月23日、コンピエーニュの戦いでフィリップ善良公のブルゴーニュ軍に捕えられ、1万リーブルの身代金と引き替えにブルゴーニュ軍からイングランド軍に身柄が引き渡され、同年12月24日にルーアンのブーヴルイユ城に監禁される。


その後、コーション司教らによる審問の末に、ジャンヌは悪魔と交信し、教会に従わない異端者と断定されてしまう。

神は教会を通して人々に語り掛けるものであり、それ以外の霊的な存在からの言葉は、神を騙る悪魔によるものとされていたためである。


この裏には権力者たちによる利権への偏執が渦巻いており、「シャルルの戴冠に大きな役割を果たしたジャンヌが異端だったとなればシャルルの王位の正当性を揺るがせるだろう」「イギリス軍に恥を塗らせたジャンヌの名誉を貶めるべき」という考えや、「ジャンヌを野放しにすればその奇跡で裁かれるのは自分たちでは」という猜疑心から、徹底した尋問が為された。しかしジャンヌも無学な農民とは思えない聡明さで弁明し、薄汚れた権力者たちに付け入る隙を与えなかった。


業を煮やしたコーション司教は、火刑の恐怖をちらつかせてジャンヌを追いつめ、ついに「異端認定の証書」にサインさせる。これを機に異性装を禁止されると、ジャンヌは女性の服装に戻るが、牢内でイギリス兵たちから嫌がらせを受けたため、再び男装する。これはこの当時、男装をすることは男性となることと同義であったためで、ジャンヌは「男性ばかりの環境の中で男性となること」をもって身を守ろうとしたのである。


しかし、神に与えられた性別を勝手に取り換えることは「異端」とみなされる行為であった。そして一度自分を異端と認め、改心して教会に従うことを約束しながら、再び異端となった者は「戻り異端」として、教会ではなく世俗の裁判所に引き渡すことができると定められていた。


こうしてジャンヌは、遂に戻り異端として破門され、イングランドの世俗裁判所に引き渡される。この時を待ち構えていたイングランドは即日彼女の処刑を決定し、1431年5月30日、ジャンヌは火刑台にて僅か19年の短い生涯を閉じた。フランス解放のためにオルレアンへ出発して2年目のことだった。


なお、死刑に対しては異議申し立てができる文書もあったのだが、ジャンヌは完全な非識字であったため、騙されて死刑執行許諾書に署名してしまったという話もある。


火刑はそれ自体、最後の審判よる「死後の復活」を信仰の軸にするキリスト教にとって、復活のための肉体を奪う極めて重い処刑法であったが、ジャンヌに対する処置は常軌を逸していた。焼けただれた遺体から臓物を引きずり出して子宮を晒しものにし、その上でもう一度骨さえ残さず灰にして、セーヌ川に撒いたと記録されている。


復権編集

その後、彼女の裁判に政治的な圧力の影が見られるとして、裁判のやり直しが提唱されることとなる。

シャルルはこの復権裁判のために慎重に事を進めていたが、イングランド占領下の状況のために長らく法廷を開く事が出来なかった。


フランス軍が勝利を重ね、イングランドの影響力が弱まるに連れ、復権裁判に向けて協力的な態度を取る者が増えていった。

この裁判でジャンヌの異端者の烙印を取り下げられ、彼女がキリスト教徒に戻ったのは、彼女の死後から25年経った1456年7月7日であった。


だが、この後ジャンヌの功績は地元以外では忘れ去られていった。しかし、ナポレオンが皇帝の座に就くと、フランスの国威を高めるために彼女の功績を掘り起こし、喧伝した事で「フランス救国の英雄」として再評価されるようになった。


列福・列聖編集

さらに時を経た1909年4月18日、ローマ教皇ピウス10世によって列福され、ついで1920年5月16日にはベネディクトゥス15世(21世紀最初の教皇ベネディクト16世が教皇名の由来の一つとした人物)によって聖列に加えられ、名実ともにオルレアンの聖女となった。列聖までにほぼ489年を要しているが、そもそも列聖につながる運動が始まったのが19世紀半ばのオルレアン大司教フェリックス・デュパンルーの演説がきっかけであり、そこから数えると実質的に要した期間は70年ほどである。



史実に語られる人物像編集

人柄編集

良くも悪くも、とにかく純真で情熱的。熱心なキリスト教信者であり、強い使命感の持ち主であった。


シャルル戴冠後の彼女からは、かなり頑固で猪突猛進な気質が見て取れる。また政治的なことよりも宗教的な興味の方が強すぎたことも、彼女の孤立につながったとも考えられる。


しかし、こうした打算や計略によらない純粋さが、多くの人々の心を動かしたこともまた事実である。無学な農民であったが、その聡明さ、弁論の力強さと理路整然たる様は、彼女と相対した権力者たちの多くが舌を巻いたという。


一方、ジャンヌは軍と関係のない女性を(風紀を乱すとして)追い出し、従わない場合には剣で殴りつけることもあったという(当時のフランス軍にも慰安や炊事に従事する女性たちが従軍していた)。


評価編集

女騎士として語られがちなジャンヌだが、実は彼女自身は武器を持たず、旗手であった。アイドル(崇拝の対象という意味)であり、彼女の存在はフランス軍を大いに奮起づけた。


彼女の戦術家としての評価は賛否が分かれる。

当時の戦争はまだまだ形式張った箇所が多く、会敵してすぐには攻めず、双方の状態と威儀を正してから同時に激突するのが常であった。しかしジャンヌはこうした戦場の“暗黙のルール”を知らず、敵陣の威儀が整う前に突撃し、敵軍を混乱に陥れる様な攻め方を度々おこなったという。

また、矢が尽きれば砲を持ち出し、攻城兵器がなければ櫓をぶつけ、敵勢を切り崩すために夜討ち朝駆けも平然と敢行し、挙句は戦闘後は身代金を対価に解放するのが通例の捕虜たちを全員処刑するなど、その戦い方はもはや国軍ではなく武装ゲリラの様相だったとか。


ただし、イングランド側もヴェルヌイユの戦いで敵のスコットランド兵を皆殺しにしている 。何よりイングランド側も当時の合戦の流儀を悪用し、フランス軍が陣形を整えているうちに長弓部隊を先行させ、森などのフランス軍の死角になる地形に潜伏し、戦闘開始と同時に長弓部隊で狙い撃ちにして連戦連勝を重ねていた。

ある意味でジャンヌの戦法は、イングランド側への因果応報とも受け取れる。


「祖国を救う=敵を完膚なきまでに叩いて追い出す」という、“経済政策としての戦争”を知らない農民出身だから出来た戦い方だった。

これが破竹の勢いの快進撃につながると同時に、敵には情け容赦しない“野蛮さ”として映り、敵国に無数の遺恨を生み出すこととなった。

特にイギリスでは21世紀になっても狂女としての悪名が根強い。



容貌編集

残念ながらジャンヌを実際に見て描かれた肖像画は存在せず、現存する肖像画は全て想像で描かれた物である。彼女自身はフランドルの画家に自分の姿を描いてもらったと述べているが、その絵の行方は知れない。

オルレアン市にはジャンヌが着ていたという服が存在し、その服の寸法を測ったところ、身長は158cmで、四肢は強健であったという。また、ジャンヌが使っていたとされる蝋燭には濃い褐色の長い髪がこびりついているという話もあるが、その髪がジャンヌの物だという証拠はない。

いずれにせよ、男所帯でむさくるしい軍隊の中に、年端のいかない少女の存在は非常に美しく見えたに違いないだろう。

同時にいわゆるセクハラ等の被害を避け、女として軽んじられないよう、平素は男装して毅然と振る舞っていたらしく、その甲斐あって兵士たちも彼女を“ただの農民上がりの少女”ではなく同志として受け入れるようになったといわれている。

  • ただこの男装は、のちに異端審問で彼女に裁判での不利をもたらす要因ともなってしまった。

なお、男衆に混じって平気で雑魚寝したり、戦支度のために着替えたりしたため、後の復権裁判において戦友だったアランソン公ジャン2世に、「ジャンヌは美しい乳房だった」と証言されていたりする(誤解のないよう補足しておくが、「ジャンヌのあられもない姿を見てしまったが、それでも劣情を抱くことはなかった」という趣旨の証言である)。


現代の舞台や創作物においては当然ジャンヌは抜群の美女として登場する。日本源義経もそうだが、英雄は得てして美化されるものである。



関連イラスト編集

ジャンヌ・ダルクとシメールジャンヌ・ダルク(1412年〜1431年)

Jeanne d'Arcセンシティブな作品



関連タグ編集

カトリック 聖女 女傑 戦闘少女

オルレアンの乙女

百年戦争 フランス イングランド

欧州史 ヨーロッパ

ジャンヌダルク ジャンヌ



その他関連編集

地位復権とともに、「勇ましくも清純な戦乙女」というイメージが定着し、本場欧州でも彼女に因んで命名されたものが多数存在する。


日本でもジャンヌ・ダルクを題材にした作品は非常に多い。また、実在のジャンヌ・ダルクにちなんでキャラクター・事物等が命名されていることもある。

特に90年代は『神風怪盗ジャンヌ』の登場以来、漫画・アニメ等の二次元界隈で急速に波及していき、「奇跡と悲劇のヒロイン」という二面性、「男の戦場でただ一人の戦闘少女」という存在感から、主役級、そうでなくともメインキャラクターの一角として席を占める傾向にある。


聖女」という称号から大抵は光属性になるが、「火刑に処されて世を去った」という史実から火属性、また悲劇的な死と闇堕ちムーブメントの流行から闇属性にも抜擢されやすい。

性格も品行方正な優等生が多いが、史実の逸話から猪突猛進気味でアグレッシブな一面も多くの作品で共通している。



史実の本人と同一人物(という設定)のもの編集

  1. PSP用ゲーム『JEANNE D'ARC』または、そのキャラクター。余談だがこのキャラの担当声優は9.のキャラと同じである。
  2. 携帯アプリゲーム『オルレアンの乙女 〜ジャンヌ・ダルクの物語〜』
  3. PS3Xbox360ゲームブレイドストーム』のキャラクター。後に無双OROCHI2にも参戦。
  4. 漫画『魔法少女たると☆マギカ』に登場するキャラクター。⇒タルト(魔法少女たると☆マギカ)
  5. ロードオブヴァーミリオンⅡ』のキャラクター⇒ジャンヌ・ダルク(LoV)
  6. ヘタリアに時々出てくる女の子あのこ:ヘタリア
  7. ADK格闘ゲームワールドヒーローズ』に登場するキャラ⇒ジャンヌ(ワールドヒーローズ)
  8. 漫画『ドリフターズ』の登場人物。⇒ジャンヌ・ダルク(ドリフターズ)
  9. Fateシリーズの一作『Fate/Apocrypha』に登場するルーラーサーヴァント。⇒ジャンヌ・ダルク(Fate)
  10. イナズマイレブンGOクロノ・ストーンの登場人物。⇒ジャンヌ・ダルク(イナズマイレブンGO)
  11. 漫画『最後のレストラン』の登場人物。
  12. 桃太郎電鉄WORLD』及び『桃太郎電鉄ワールド 〜地球は希望でまわってる!〜』に登場する歴史ヒーロー
  13. 山岸凉子の伝記漫画『レベレーション─啓示─』のヒロイン。
  14. アニメ『神撃のバハムートGENESIS』と『神撃のバハムートVIRGINSOUL』の登場人物。→オルレアン騎士団を率いる女騎士として登場。『グランブルーファンタジー』にもゲスト出演している。⇒ジャンヌダルク(神撃のバハムート)ジャンヌダルク(グラブル)
  15. アニメ『ユリシーズジャンヌ・ダルクと錬金の騎士』の登場人物。⇒ジャンヌ・ダルク(ユリシーズ)
  16. アニメ『タイムボカン24』のアラフォー寸前魔法少女真歴史
  17. 携帯アプリゲーム『消滅都市」の「タマシイ」の一人。
  18. ソーシャルゲーム#コンパス~戦闘摂理解析システム~』のヒーロー⇒ジャンヌダルク(#コンパス)

血縁等の関わりを持つ者編集

  1. 神風怪盗ジャンヌ』のキャラクター
  2. ライトノベル及びアニメ緋弾のアリア』のキャラクター→ジャンヌ・ダルク30世

名称のみ同一編集

  1. 日本のヴィジュアル系ロックバンド『Janne Da Arc』→ Janne_Da_Arc
  2. 機動戦士Vガンダムに登場する宇宙戦艦ラー・カイラム
  3. フランス海軍の練習巡洋艦(軽巡洋艦)『ジャンヌ・ダルク(Croiseur-École Jeanne D'Arc)』
  4. 上記の練習巡洋艦をモチーフにした艦船擬人化キャラクター『ジャンヌ・ダルク(戦艦少女)
  5. 3.の練習巡洋艦をモチーフにした艦船擬人化キャラクタージャンヌ・ダルク(アズールレーン)
  6. フランス海軍のヘリ空母『ジャンヌ・ダルク(Porte-hélicoptères Jeanne d'Arc, R97)』。名前は前述の練習巡洋艦から継いだ。
  7. アニメ『ノブナガ・ザ・フール』のヒロイン⇒ジャンヌ・カグヤ・ダルク
  8. 特撮ドラマ『仮面ライダーリバイス』に登場するヒーロー「仮面ライダージャンヌ

外部リンク編集

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