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源義経

みなもとのよしつね

平安時代末期の武将。平治の乱以降の逼塞の時期を鞍馬寺、奥州平泉で過ごした後、異母兄・頼朝の挙兵に応じて参陣。治承・寿永の乱で数々の戦功を挙げ、平家滅亡の立役者ともなったが、頼朝との確執を経て悲運の最期を遂げた(1159 - 1189年)。
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概要編集

河内源氏棟梁・源義朝の9男。生母・常盤御前所生の子としては3男に当たる。


幼名:牛若丸→遮那王

仮名:九郎

諱:義経→義行→義顕

官位:検非違使・伊予守

通称:九郎判官・源廷尉・源豫州


保元4年または平治元年(1159年)生まれ(※)。


(※)『系図纂要』では義経の誕生日を「(旧暦)2月2日」としている。


同母兄に阿野全成(今若丸・義朝7男)・義円(乙若丸、同8男)がいる他、鎌倉幕府を開いた頼朝は異母兄に当たる。


正妻は郷御前、側室は静御前。正妻との間に千歳丸(後に伊達家初代・伊達朝宗の養子となる中村朝定)と鶴姫(義経・郷御前と共に衣川の館で自害)の2子を設けている。


生涯編集

幼少期編集

牛若丸が生まれて間もなく、父・義朝は平治の乱で敗死。数え年で2歳の牛若丸は母や兄達と共に大和へ逃れたが、やがて母・常盤御前は平家の元に出頭、3人の子らは成長後出家を条件に平清盛に生命を助けられることとなる。


当初は常盤の再嫁先である一条長成の元に身を寄せ、その後11歳の時に鞍馬寺に預けられた。寺では稚児名を遮那王と名乗っている。この鞍馬寺時代に平家打倒の志を抱いたとされ、当地に住まう大天狗や、陰陽師・鬼一法眼に師事し兵法・剣術を学んだとの伝承も残されている。やがて出家を拒んで寺を出奔、承安4年(1174年)に自ら元服、義経と名乗るようになる。


出奔後の旅途中で武蔵坊弁慶を始めとする様々な家来を得て、奥州平泉藤原秀衡に身を寄せた。当時の平泉では、前出の一条長成の親戚に当たる基成が、秀衡の舅として政務にも深く関わっていたことから、義経もその伝手を辿ったものと見られている。


※以上の説明も含め、現在までに明らかとなっている義経の前半生は極めて限定的なものであり、また依拠する史料も軍記物などが主体である事から、多分に虚構ないし伝承が加わっている可能性もある事に留意されたい。義経の生涯が確かな記録として歴史に残っているのは、黄瀬川の陣で頼朝と対面した時(数え22歳)から衣川館で自刃する(数え31歳)までの間のみである。


治承・寿永の乱編集

治承4年(1180年)、異母兄・頼朝が伊豆で挙兵すると、義経もその幕下に加わるべく平泉を発った。この時藤原秀衡からは、佐藤継信忠信兄弟ら数十騎が義経に附けられたとされる。


義経が頼朝と再会を果たしたのは同年10月、富士川の戦い直後の黄瀬川の陣(相模大庭野との説もあり)でのことであり、以降義経はその軍門に加わり、同じく異母兄・範頼と共に、遠征軍指揮官を任されることとなる。


寿永3年(1183年)、先に上洛した木曽義仲追討を命じられた義経は大軍を率いて上洛し、範頼や軍監・梶原景時らとの協力の元、宇治川の戦いで義仲軍を撃破。この戦いと前後して、「一の郎党」と呼ばれる伊勢三郎(義盛)が義経配下に加わったとされる。


さらにその半月余り後には、勢力を盛り返しつつあった平氏を討つべく福原に出陣、一ノ谷の戦いでこれをこれを大いに打ち破った。この合戦では、義経が小勢を率いて敢行したとされる「鵯越えの逆落とし」が有名であるが、史料上の矛盾などから実際にその様な奇襲があったか、あったとしても実際に行われた場所がどこであったか、現在でも研究者によって見解が分かれている。


その後の義経は情勢を安定させるために京に留まり、伊賀・伊勢方面で発生した平家残党の大規模な蜂起(三日平氏の乱)への対応にも当たった。一方で範頼は1度鎌倉へ戻った後、平家討伐のため西国にて転戦していたが、依然として瀬戸内海を掌握していた平家方の頑強な抵抗、さらに兵糧・兵船の調達難によって苦境に立たされており、この苦境を救うべく翌元暦2年(1185年)2月、義経も軍を再編の上西国へ出陣した。瀬戸内海に逃れていた平家方の拠点である屋島を、義経は暴風雨の中少数の軍勢を率いて奇襲に及び、継信犠牲や那須与一による「扇の的」を経てこれを陥落せしめた。また、この戦の中で義経が弓を海に落とし、それを激戦の中で辛くも拾い上げて「叔父・為朝の様な強弓ならば敢えて落としたままとするであろうが、こんな弱い弓を敵に拾われ「これが源氏の大将の弓か」と嘲られては末代までの恥辱である」と語った「弓流し」の逸話が、『平家物語』には残されている。

義経の活躍により四国、さらに範頼の反攻により九州拠点は失われ、平家方はいよいよ長門彦島に追い込まれることとなった。そして同年3月、源平両軍は遂に壇ノ浦で雌雄を決する運びとなった。


この時の義経の戦法として「平家水軍による速い潮流を活かして絶え間ない射撃に対し、敵船漕ぎ手を狙って射るよう命じた」というものが広く知られており、この時代の海戦における戦作法に反した振る舞いを、敢えて行うことによって義経は戦況を好転させた、とする描写が後世の創作作品などでも良く見られる。これについても、時期的に速い潮流が発生しにくいことが検証されていたり、同時代の史料でもこの潮流に関する記述はない、若しくは戦況に関わる程のものとしては触れられていないことなど、反証も少なからず呈されている。


ともあれ、これら一連の源平合戦における義経の戦果が目覚ましいものであったことは衆目が一致するところであり、平家討伐を果たした義経が戦後の4月に凱旋した折には、その最大の立役者として京に迎えられる事となったのである。


頼朝との確執・都落ち編集

ところがその後、義経は兄・頼朝からの勘気を蒙り、遂には鎌倉入りすらも果たせぬ状況にまで追込まれてしまう。


その原因については様々あり、頼朝の許しを得ぬうちに後白河法皇から検非違使に任ぜられたことが、「鎌倉殿」として配下の御家人達に恩賞を与えるという頼朝の立場を、根本から揺るがすものであったこと、また一連の源平合戦で義経が多大な戦功を挙げた一方、活躍の機会を奪われたばかりか時に厳しい咎めを受けることすらあった東国武者達の不満の鬱積、さらに性急な壇ノ浦合戦によって安徳天皇らや、三種の神器の1つ・草薙剣を確保出来ず、頼朝の抱いていた戦後構想を破綻させた事、などが挙げられる。


義経は壇ノ浦の戦いで捕虜となった平宗盛・清宗親子を伴って関東に下向した後、許しを請うための書状・腰越状を兄・頼朝に送るも、遂に鎌倉に入ることを許されず、頼朝からは「宗盛親子と平重衡を伴って帰京せよ」との命が伝えられるのみであった。ここに至って兄との関係の破綻を悟った義経は、「関東で(頼朝に)恨みがある者はこの義経に続け(意訳)」と言い放ったとされ、対する頼朝も義経の所領を悉く没収している。


帰洛後、義経はやはり頼朝と反目関係にあった叔父・源行家と接近、頼朝からの命を受けた土佐坊昌俊らの手勢を打ち破る(堀川夜)と、後白河院から頼朝追討院宣を得て遂に頼朝打倒の兵を挙げた。しかし、この挙兵に関東は愚か、京周辺の武士は誰も応じようとはせず、そればかりか後白河院より今度は義経追討院宣まで出されるなど、義経を取り巻く情勢は厳しいものとなった。



やむなく西国での再起を図り、九州に逃走を図るが、不運にも大嵐に遭い率いる軍は四散、その目論見も絶たれることとなる。吉野を経て再度京近辺に潜伏を続けた義経であった。しかし、その間に愛妾・静御前は鎌倉方に捕えられ、佐藤忠信や伊勢三郎といった郎党らや、結託していた行家も相次いで討たれ、朝廷に対する頼朝からの圧力もますます強まる中、遂には畿内からも去らざるを得なくなったのである。

 

衣川の戦い編集

畿内を去った義経ら一行はその後伊勢・美濃を経由し、かつての庇護者であった秀衡を頼り、奥州平泉に身を寄せることとなった。その道中、越中の如意の渡しにおいて当地の渡守にその正体を見破られかけ、弁慶が機転を利かせて敢えて義経を打ち据えることで無事に渡河出来たという逸話が残されており、これが後年『安宅』『勧進帳』などといった演目の元となった。


ともあれ、平泉に落ち延びて来た義経ら一行を秀衡は暖かく歓迎した。彼にしても勢力伸長著しい頼朝の存在を見過ごせるものではなく、義経を将軍に立てて鎌倉への臨戦態勢を整えようとしていた節があったとされるが、その思惑も文治3年(1187年)の秀衡病没によって水泡に帰すこととなる。義経が平泉に着いて僅か半年余り後のことであった。


秀衡の死を知った頼朝は、自らが義経追討に打って出るのではなく、その後を継いだ泰衡に対し朝廷を介して圧力を強める事で、義経と奥州藤原氏との離間を図る方策を取った。一方でこの頃の義経は出羽で鎌倉方と小競り合いに及んだ他、文治5年(1189年)に入ると帰洛の意思を窺わせる様になっていたともいわれている。


そんな中で、泰衡は遂に鎌倉からの圧力に屈する形で、閏4月30日(1189年6月15日)に義経が居を構えていた衣川館へと襲撃を掛けた。泰衡率いる軍勢500に対し、義経主従僅かに十数騎と劣勢は決定的であり、進退窮まった義経は一切の抵抗を放棄して館内の持仏堂にこもり、妻子を手に掛けた後に自刃した。享年31(満30歳)。


人物像編集

一般的には「悲劇のヒーロー」として、「正義感と義侠心に厚い兄想いな優等生」と描かれやすい。


しかし既存の古典文献、特に鎌倉時代までに記された上述のエピソードの数々から、近年では合理性を優先する余り少々エキセントリックな言行に奔りがちな問題児、または周囲の反感も御構いなしで自分が手柄を取る事ばかりを考え、部下達の意見にもほとんど耳を貸さず自分のやり方に固執した所謂「俺様系という側面も取沙汰されるようになった。

一例として、下記の「虎の巻」を読むため、鬼一法眼の娘を誑かして法眼の下から盗ませ、それがバレるとさっさと娘と縁を切って逃げたというクズエピソードが存在する。また。壇ノ浦の戦いで漕ぎ手を射殺するも、上述の様に「非戦闘員殺害」として禁じ手と暗黙の了解となっていた。

『平家物語』の屋島の戦いでの扇射物でも、那須与一の武勲を讃えて平家側の武将が船上で舞を演じている場面で、与一にその武将の射殺を命じ、両軍の盛り上がった雰囲気に冷や水を浴びせている。


一方で深慮遠謀が少々足りない面も見受けられ、特に「検非違使の任命」は現代でいえば国軍幹部への就任に当たり、あくまで地方自治体の監察官であった頼朝の権威を超える中央官僚の地位を頼朝に無許可で拝命するという、背信行為と解釈されても反論し難い判断である。

また感情的で涙脆く、癇癪持ちであったことも各所文献で拾わており、戦となれば抜群の判断力が下せる半面、感情が昂って来ると抑制が利かない一面があったことも見受けられる。


義経に纏わる伝説・影響編集

類稀なる軍才の持ち主ながらも、兄との対立の末に非業の死を遂げた義経の生涯は、民衆間で判官贔屓(ほうがんびいき)とも呼ばれる同情にも似た心情を呼び、後世に歌舞伎(義経物)などで創作された、様々なエピソードで知られる様になった。

その過程において、義経に纏わる様々な伝説も成立する様になった。前述した鞍馬山での修行にまつわる伝説や、衣川の戦いにおける「弁慶の立往生」の伝説はその代表的なものであるが、中でも有名なのは「実は義経は平泉で死ななかった」という伝説であろう。この義経北行伝説はやがて北方へ、北海道へ、そして大陸へ生き延び、明治期に至ってはチンギス・ハーンになった、という伝説にまで発展する事となる(※)。


意外なところでは、物事を成功に導くための必読書を指す呼称「虎の巻」の由来も義経にあるという。これは義経が鬼一法眼の元で『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが、長じて治承・寿永の乱における目覚しい活躍に繋がり、そこから前述の呼称が広まったというものである。


※チンギス・ハンの出生で不明なのは生まれた場所だけであり、他は生まれた年も両親の名前も残っており、今日では義経と同一人物ということはあり得ないと断定されている。この説の広まった背景には、「英雄にどこかで生き延びていて欲しい」という庶民の願望発露や、大陸進出へと邁進しつつあった当時の日本社会の風潮も多分にあったとされ、義経の他には、西郷隆盛などにも「日本を脱出してロシアで生きている」という同様の噂が広まった例が残されている。


美男子?編集

義経というと美男子のイメージが強いが、実際の容貌は不明。生前を描いた肖像画や客観的な史料が存在せず、教科書などに載っている有名な中尊寺所蔵肖像画も、義経死後数百年後に描かれたものである。そもそも、義経に限らず昔の肖像画は当人死後、神社仏閣に奉納されるために描かれることが普通であった。


鎌倉時代成立の『平家物語』では「色白で背が低く前歯が特に差し出ている」と記述されており、美男子とは程遠い醜男とされている。一方、室町時代に成立した、義経の軍記物語である『義経記』では女と見まごうような美貌と書かれており、少なくともこの頃から義経美形化は始まっていた模様。ただし、『平家物語』は平家寄り、『義経記』は義経寄りの内容となっているため、いずれも客観性には欠けている。


義経の美形化は『義経記』での描写に加え、江戸時代の歌舞伎能楽での義経物が人気を博したことでさらに加速し、今日の美形ヒーロー像が形成されるに至った。



創作での源義経編集

※が付記されたものは主人公としての登場。


映画・ドラマ編集


アニメ・漫画・ゲーム編集

※彼自身やモチーフとしているキャラも含む。


キャラ編集


登場作品編集

  • コーエー作品
    • 源平合戦蒼き狼と白き牝鹿などシミュレーションものでは武力や指揮など戦争関係能力が高めに設定され、政争に負けたためか政治力は低め。「ジンギスカン」での彼は裏切らない一武将だったが、「元朝秘史」では最高の武力と魅力で戦と外交に重宝する名将になり、『チンギスハーンⅣ』では何と藤原泰衡の配下として弁慶と一緒に2枚看板の活躍を見せる。
    • 源平合戦」では主に源頼朝側に属し、平家やその他群雄を相手に戦う猛将だが、頑張れば他勢力でも使用可能である。最終シナリオでは、何と君主武将として使用可能になり、天下を取った兄の頼朝に反逆。困難ではあるが、逆転勝利すれば鎌倉幕府ばかりか奥州藤原氏までも倒す覇者となる。
  • 乃木若葉は勇者である
    • 乃木若葉の精霊として登場。切り札として憑依させる事で速さが増し、伝承に伝わる八艘飛びが可能になる。姿は作中では見せていないが、花結いのきらめきでは勇者システムが最新式に統一された関係で結城友奈は勇者であるの精霊達と同じデフォルメされた容姿が明かされており、三好夏凜の義輝に似た人型をしている(喋る事もできるかどうかは不明)。
  • ラヴヘブン
    • 乙女パズルゲームの攻略キャラクター。初期レアリティはSRでの登場。異世界を救うため、主人公によって召喚された。戦の天才でありスピード感のある戦いで敵を翻弄する。忠臣の弁慶に無茶振りする事も多々。(ゲーム内プロフィールより引用)
  • 源平討魔伝
    • 魔界源氏頭領と化した頼朝に仕える武士。当然彼自身も妖魔の類と化しており、奇声を上げつつ驚異的な身軽さで小柄(短刀)を投げたり空中で回転しつつ斬撃を繰り出したりしてくる。決め台詞は「殺して進ぜよう」
  • 遮那王義経
  • 義経物語
  • 義経英雄伝
  • GENJI


関連史料編集

義経記 平家物語 源平盛衰記 吾妻鏡 平治物語


関連人物編集

源義朝 源頼朝 北条政子 静御前 中村朝定 武蔵坊弁慶 那須与一 後白河法皇 藤原秀衡 平清盛 平知盛 郷御前 常陸坊海尊 チンギス・ハーン ジャンヌ・ダルク

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